寸描 2008年1月4日(金)

2008年01月04日

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 強烈なハイビスカス(写真上)や、
 真っ赤な紐みたいなベニヒモノキ(Acalypha hispida 西インド諸島原産)=写真下=やなんか、

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 熱帯の色がいっぱいでした。南伊豆の「下賀茂熱帯植物園」(写真下)に。
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 温室に入るとカメラのレンズが曇った。何の不思議もなけれども…。
 だって、室温23度、湿度90%だからね。90〜100度の温泉を、室内に縦横に張り巡らした鉄パイプに流して暖めているんだ。

 初めてだったね。
 熱帯植物の大きな葉がつくる木の下闇(写真下)を、いいと思ったのは。

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 色彩があふれ返ってて、飽きちゃったせいなのかな。

 で…、
 熱帯のジャングルを、暗〜いタッチで描いた、フランス素朴派の画家、アンリ・ルソー(1844〜1910)の絵「蛇のいる風景」やなんかに思いが届いたんだ。

 ひどく暗いんだ。

 黒に限りなく近い色合いで、ジャングルの森だけを画面いっぱいに描いた、ただ暗〜いだけの、誰も欲しがりそうもない大きな絵がオルセー美術館(Paris)にあるよね。

 何を描きたかったんだろうなと引っかかっていたんだが、
 ルソーは、己の内面のありさまを描いたんだね、
 って実感した。この植物園の木の下闇を見て。
 ルソーは、Parisの税関に20数年勤め、貧乏で、熱帯には一度だって行けなかったんだよ。想像で描いたのさ。

 弓ヶ浜海岸に行ったら、
 無風で、空気は透き通り、
 雲が一つもないいい日でさ(写真下

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 4人家族が、波打ち際を楽しんでいた(写真下)。

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 午後3時45分だったな。
 沈み行く太陽の光が、息を飲むような一瞬の影絵を、浜辺に次々と描き出すんだ(写真下)。

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 砂の上に座って、
 日が落ちるまで見ていたよ。

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下田 2007大晦日

2007年12月31日

 伊豆・下田の旧市街を、ちょっと歩いた。
 大晦日にこたつにわだかまってるってえ停滞は、気分に合わないからさ。
 やっぱ、心、体……、どこでもいいからどっか動いてなくっちゃな。目覚めてるときは。

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 上の写真は、海鼠壁(なまこかべ)の「下田温泉 松本旅館」。
 海鼠壁ってえのは、風雨や火なんかに強くってね。平瓦を、漆喰をつかって壁に貼り付けている。白い線はその漆喰だ。
 江戸時代は、大名屋敷や寺院によく見られたんだそうだが、いまでは、ここ伊豆半島やなんかにわずかに残るだけなんだそうだ。

 犬が、精肉店の店先にいた。

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 中国原産のパグってえ種類で10歳。
 寒くってぶるぶる震えるので、12月初めから、このように毛布ん中なんだそうだ。

 下田港にいったら、秋刀魚を干していた=写真下

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 で、そこから道路を渡って左の路地に入ったら、
 こんな色彩があった=写真下

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 赤い実は、ナンテンだろうかな。下の白いのは家の塀だ。
 構図を替えて、写真を撮り続けていたら、

 ヒュー… ヒュー… ヒュー…
 と、鳴る音がした。

 係留されている多数の漁船のマストのロープが、風を切っているのだった。

 晴れ上がって、光が強く、影の濃い日だったんだが、
 風のせいか、少し寒かった。

 路を行く人々は少なく、
 どこのスーパーも、買い物客でいっぱいだった。
 正月の準備でね。

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富嶽百景2007

2007年01月05日

 新春の富士山を見たくなっちゃって、5日、朝5時起きで、伊豆半島西海岸を、南の松崎町から北の沼津市まで70キロ走った。
 松崎町からの富嶽は、朝日を受けて東側斜面の冠雪が淡いオレンジ色に染まり、眼下の海は夜がまだ残っていて濃い藍色だ=写真下。道を走る車はなく、冷気が胸に染み入った。

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 雲ひとつなかった。澄み切った青い水が、空いっぱいに広がり、
あっ、真っ白な絵の具が一粒落ちて動いてる、と思ったら、それは軽飛行機なのだった。
 天然の良港、戸田漁港の、松に覆われた岬の向こうに見える富嶽も乙でげす=写真下

fuji heta
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 「出会い岬」に着いた時にはもうすっかり朝だった。
 富嶽の南東斜面で宝永4年(1707)に起きた「宝永大噴火」によって出来た寄生火山の宝永山(2693m)とその西側にえぐれたようになった巨大噴火口がくっきりと見える=写真下。爆発で斜面が吹き飛んでしまった跡だ。この噴火で、江戸の街には熱い火山灰が降り積もり、厚さ4センチになった、という記録が残されている。
 「出会い岬」は、右側の富士から左へ、富士市の工場地帯、南アルプスの北岳(3192m)、茶臼岳(2604m)、三保、清水市などが一望できるいい場所だ。

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 女の子3人を富士の前に並ばせて、お母さんたちが写真を撮っていた=写真下。案内の宿のマイクロバスの運転手さんが、それを見てふくみ笑い。おれも笑っちゃった。
 富士には、女の子たちがよく似合う。月見草よりも…、ってか?

fuji kodomo
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 その先に、「煌きの丘」ってのがあって、車を止めて下を見ると、海だか池だか分からない、静かな水の景色があった=写真下

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 斜面をジグザグに降りてゆく小道を歩いて20分。たどり着いて看板を見ると、それは、海跡湖(かいせきこ)「明神池」で、水面下2mの池の底が、海面の水位と同じ高さの淡水の池。昔は海の湾だったが、黒潮で運ばれた土砂により1500年ぐらい前に陸封され、淡水池になった。鯉や草魚など、魚影豊かな池なのだそうだ=写真下

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 おれはなぜ、富士山がこーんなに気になるのかねえ?
って、帰りの車ん中でつくづく思っちゃったね、あたしゃ。
 だって朝から7時間あまり、富嶽百景を求めて車で走り回ったんだもの。
 そうだ、大学生の頃、年末に富士山の写真12景を使ったカレンダー買った友人に、「右翼みたいだな」って言っちゃったんだよ、あたしゃ。

 今朝5時、目覚ましで起きて時計見たら、赤い秒針が1秒ずつ刻むのを急によしちゃって、30秒から45秒へといきなり飛んじゃった。

シュールな日だったよなぁ。今日は。

fuji3 south Alp. yokonaga
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唐さんおめでとう。明治大学特別功労賞

2006年11月25日

 天皇がくれることになっていた紫綬褒章を、昨年9月、2週間かけて考えた末に、
 「もらわないのが、お客さんへの礼儀だと思います」と丁重に断った劇団唐組の首魁、唐十郎さん(66)=写真下=に24日夕、
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 出身校の明治大学(東京・神田駿河台)が、「明治大学特別功労賞」を贈った=写真下
「よろこんでいただきます。ありがとうございました」。さわやかにいった唐さんの笑顔に、リバティホールを埋めた400人が大きな拍手であたたかく祝った。

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 「唐さんが負けずに生き延びるとは思わなかった人もいるのではないか。唐さんを明治大学の誇りとしたい。いろんな意味でその名を残すことと思う」
 と、学長(唐さんの1年先輩)が祝辞を述べた。

 「明治大学特別功労賞」は、社会に出た後、いい仕事をして明治大学の評価をおおいに高めた卒業生に与えられる。
 ちょっとやそっとの功績ではもらえない。

 唐さんは毎年春秋の2回、血の色をした暗赤色の紅テントを、新宿・花園神社など全国各地の空き地に張って公演することで知られている=写真下。テントは団員たちがトラックで運ぶ。

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 1994年に、演劇評論家の国際的な組織「国際演劇評論家協会(AICT)・日本センター」が行った、日本の劇評家やジャーナリストへの、現代劇作家の創造力を評価する調査(回答54人)で、唐さんは、故三島由紀夫、井上ひさし(各55票で同票の首位)に次ぎ、2位(50票)になった。

 唐さんの戯曲は、哲学的な表現やメタファー(暗喩)、笑いの場面が多用されるシュール・レアリスム(超現実主義)の作風で、同じ芝居であっても一、二度見ただけでは分かるのが困難だが、気がつくとなぜか深く感動していたという観客が多いことで知られる。
 これに対し、1位になった故三島由紀夫や井上ひさしの芝居のいいものは、well−madeで、だれもが一度でほとんど完全に理解できるといっていい、どちらかといえばより大衆的な作風だ。

 こうした事情から、平均的な芝居ファンが敬遠しがちな、難解な芝居を公演し続ける唐さんが、この調査で50票を集めて2位に入ったのは、きわめて異例なことだった。

 紅テントの芝居が、いつも日本で最高水準の質になっていることは、あらゆる演劇関係者や演劇ファンたちが認めている。
 それなのに、料金は今年、当日券で1人3600円。劇場で公演するほかの劇団と比べると4割以上は安かった。
 テントの収容人員は、約300人。

 唐さんは、
 1962年、文学部文学科演劇学専攻を卒業。翌年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げした。
 1970年、「少女仮面」で1969年度第15回岸田國士戯曲賞を受賞。1978年11月、小説「海星・河童 少年小説」で第6回泉鏡花文学賞受賞。
 1983年1月、小説「佐川君からの手紙」で第88回芥川賞受賞。
 1989年、2年間休止していた紅テント公演を復活させた。
 1997年、横浜国立大学教授就任。2004年、「泥人形」で、第38回紀伊國屋演劇賞、第7回鶴屋南北戯曲賞、第55回讀賣文学賞、第11回讀賣演劇大賞優秀演出家賞を受賞。2005年4月、近畿大学客員教授就任。
 2006年2月、第13回讀賣演劇大賞芸術栄誉賞受賞した。

 明治大学が配布した略年譜を見ると、唐さんの功績の大きなものは以上だ。
 だが、大事なのは偉業と偉業の間の行間だ。行間にこそ唐さんの生の実相がある。

 贈呈式の後のステージで、唐さんは、弟子の俳優、佐野史郎さん(1980年〜1984年秋まで状況劇場在籍)を相手に1時間半余り記念対談した=写真下

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 唐さんは、卒業の翌年の1963年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げしたが、
 貧乏だったため3年余り、「暗黒舞踏」の故土方巽に従い、北海道から九州までキャバレーなどを巡って、全身に金粉を塗って踊る舞踏ショーをした。たとえば、夜7時から11時まで3ステージ踊った。体を酷使した。

 戯曲を書き始めたのは24歳。
 ほかの人に頼んだのだが、書けなかったり、途中で筆を折ったりした。劇団に戯曲がないとやることがなくなり、しまいには団員がばらばらになって解散してしまう。だから自分で書き始めるしかなかった。

 いつも主題と題材がない。お先真っ暗だ。
 書いている内に、
 「このペン先をだれが連れてってくれるのかなー」
 と思う。書き進めている戯曲の中で、自分が演じる役がどれになるのか、半分書くまで分からない。

 故寺山修司のラジオドラマ「血は立ったまま眠っている」が、戯曲との出会いだった。電車に傘を忘れて駅に取りに行くと忘れ物の傘がいっぱい集められていて、自分の傘がどれなのか分からなくてついに迷子のようになってしまうという話だった。

 母校、鶯谷・坂本小学校(今はない)の担任は、滝沢という女性の先生で2階の理科室に住んでいた。夜には豹柄の服を着ていた。
 滝沢先生は「6年生まで同じクラスを担任したい」と校長に希望したが、ダメだった。先生は、不忍池のハスが見える下宿に引きこもった。唐さんが懐かしくて会いに行くと、
 会ったとたんに、
 「あ、よっちゃん(唐さんの本名は大鶴義英)、帰んな」と言った。
先生の下宿の畳に30分間座っていた。悲しかった。
 滝沢先生の名前とイメージは、後に「黄金バット」という芝居に使わせてもらった。

 実家があった下谷万年町の長屋には80人のおかまが住んでいた。午後には一列になってぞろぞろ歩いて銭湯へ行く。紙芝居を見ていた子供たちの1人が「おかまっ!」と叫んだ。行列は後戻りして来て子供たちを取り囲み、
 「『おかまさん』だろう。『さん』がなかったな。呼んだのはだれだっ!」と問いつめた。
 紙芝居屋が止めに入ると、怒ったおかまたちは紙芝居道具が載る自転車をでんぐりかえした。こぼれたソースの臭いが長屋中に臭った。この臭いの記憶が今も残る。

 戯曲は芝居の背骨(土台)だ。
 役者は戯曲に殉じたらだめだ。

 「あのさ」
 「ナニナニだな」
 唐さんは打ち解けていた。いい感じだった。

 麦焼酎をいつも飲み過ぎるのが心配なんだなあ。
 酒量、減らせないんでしょうかね?
 唐さん。

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小沼、菱沼、四元らのテロルの理由  一人一殺 54

2006年10月11日

 1934年(昭和9)11月22日に東京地裁であった「血盟団」事件の14被告に対する判決公判で読み上げられた判決理由書には、頭領井上日召はじめ全被告の背景の事情が述べられている。

 この中から、副頭領古内栄司、暗殺犯小沼正、菱沼五郎、学生側の責任者だった四元義隆、池袋正八郎の部分を引用しておこう。

血盟団 顔一覧 6.27用.jpg
2は古内栄司、3が小沼正、6菱沼五郎、4四元義隆、8池袋正八郎
写真をクリック

 古内栄司は、
 栃木県芳賀郡中川村の農業哲太郎の長男に生まれた。
 神を敬い祖先を大切にする家風だった。
 16歳の時に、農村の疲弊で家が倒産し、家族は水戸に移住した。古内は働いて家計を助けながら、
准教員養成講習会を出て、茨城県東茨城郡の吉田小学校に准教員として勤めた。
 大正8年(1919)、茨城県立師範学校に入学し、大正12年(1923)3月に卒業。同県結城郡石下尋常高等小、結城尋常高等小などに訓導として勤めた。

 教育の実態や自己について、次第に疑問を抱くようになった。
 「苦難の道を歩んで人生を極め尽くそう」と決意し、全力を挙げて努力した、という。
 病気になって訓導を一時退職。静養中に、日蓮主義などの宗教書をいろいろ読み、一筋の光明を感じた。
 昭和3年(1928)10月ごろ、同県那珂郡前濱尋常小学校訓導に復職。同年12月、父が死んだ。
 父の死で、貧富の差から生じる社会的矛盾を痛感した。

 ちょうどこの頃、立正護国堂で井上日召を知り、
数回会って指導を受けながら、法華題目の修行に専念した。
 日召の人格や思想に共鳴、
 「教育勅語は、真に宇宙の真理、すなわちわが国体をそのまま表現したもので、この勅語の精神に適合しない現在の国家組織制度を改革し、永遠の皇運を助けるのは天皇の赤子であるものの責務だ」
 と思い、日召から「日栄」という居士号をもらう。同志になった。
 昭和5年(1930)ごろから、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二ら「茨城組」の青年を集めて、題目修行を主唱、指導した。そして、これらの青年たちを井上日召に紹介して同志に加えた。

 昭和6年(1931)3月頃、同郡八里尋常高等小学校に転勤。八、九月頃まで数回にわたり、愛郷塾長橘孝三郎を訪問し、橘を通じて愛郷塾生から同志を得ようとした。
 さらに橘と井上日召を会見させた。
 同10月初旬、井上日召に命じられて教師を辞め、「革命の捨て石になろう」と決意し、上京した。

 小沼正は、
 茨城県那珂郡平磯町で漁業梅吉の五男に生まれ、
郷土の、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
 大正15年(1926)3月、同郡平磯尋常高等小学校を卒業後すぐに大工の徒弟になり、その後、東京市内などで店員になったが、
「社会人心が退廃し、尊皇の心が日々薄らいで行く」実情を見聞きする一方で、

 強大な資本をもつ人々がいろいろな特権を独占して、弱小な起業者を極度に圧迫したために小中商工業者の間に生じた多くの悲惨な出来事を体験、社会や人生に疑惑を抱いた。
 その後病気になり、昭和4年(1929)6月ごろ帰郷していた。

 菱沼五郎は、
 茨城県那珂郡前渡村で農業徳松の三男に生まれ、平和な家庭で、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
 昭和4年(1929)10月、岩倉鐵道学校業務科を卒業したが、翌昭和5年(1930)5月頃、東上線池袋駅に就職しようとしたところ、紅緑色盲で鉄道業務に致命的であると判断されて就職出来なかった。
 父母の期待を裏切ったと落胆し、将来への希望を失った。
 さらに、このような致命的欠陥をもつ者を入学させた学校当局の無責任さに憤慨。
 「営利主義もきわまった」と判断し、社会や人生に対して疑惑と煩悶を抱き、郷里へ帰った。

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 四元義隆は、
鹿児島市南林寺で会社員嘉平次の二男に生まれた。先祖に明治維新の勤王家がいた。
 池袋正八郎は、
宮崎県都城市姫城町で農業清次の長男に生まれた。

 二人はいずれも、郷土の気風から、武士道精神を教えられて成長、ともに、大正14年(1925)4月、第七高等学校造士館に入学した。
 二人は、在校生たちが「赤化無気力功利的な気風」であること、教育内容に権威がないことにがっかりした。

 そこで、
日本精神を養い、伸ばすことを目的に「七高敬天会」を組織して活動した。
 昭和3年(1928)4月、
四元義隆は、東京帝国大学法学部に入学、
池袋正八郎も、教育家になって教育界を改善しようと、同大文学部に入学した。
 二人は相次いで、国粋主義者として有名だった、法学博士、上杉慎吉主宰の、日本主義を標榜する「七生社」の同人になった。
 上杉博士の死後は、安岡正篤が経営する金鶏学院に入り、安岡の指導で修養に努めた。

 四元は、昭和6年(1931)2月頃、福岡で九州帝大教授河村幹雄と話し合った。この結果、我が国はその本質上、不滅ではあるが、不滅にできるのは、自分の努力の結果によるのだ、との確信を得て、ますます国家革新の決意を強くした。
 池袋は、この頃、一死報国を決意した以上、学校に行く必要はないと判断して退学した。

「支配階級のもっとも尊重する彼ら自身の生命に脅威を与え、ともに現状の破壊に倒れ、これによって支配階級に自衛上やむを得ず反省し、革新の挙に出ざるを得ないようにし、愛国諸団体の自覚結束奮起、および国民大衆の覚醒を促し、昭和維新の気運を促進させるべきだ」

 というのが、彼らの共通の決意だった、
などと、判決理由書に書いてある。

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46の短編小説を読んだ。最高によかったのは…。

2006年10月02日

 創刊60周年を迎えた文芸雑誌「群像」10月号=写真下=が、記念の短編特集をやっていて、46篇が掲載されている。

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 日本を代表する純文学作家たちの語り口は、どのように進化しているのであろうか?
 それが知りたくて、一週間費やして全篇を読んだ。

 長さはいずれも原稿用紙(400字詰め)30枚分前後である。

 これだな、と感じる作品に出会えたのは、読み始めて38篇目だった。
 角田光代「父のボール」。
 DV(domestic violence=家庭内暴力)を重ねて家族の上に君臨し、ひどい目に会わせ、妻を早死にさせてしまった父が、いま、末期ガンで死の床にいる。
 父の暴力を逃れて18歳で家を出て、働きながら大学を卒業した長女の私は、父のベッドの脇で、看取っているのである。弟もいるが、現れない。

 父のボールとは、
 坂の途中にある家に住んだ父が、「不幸は坂を転がってくるボール玉である」と信じた、そのボール。
 例えば、坂の上の方にある家に不幸があると、その不幸は、半年以内にボールになって転がり、下の家に伝播する、と父は信じていた。
 父の世話をする娘を、主治医や看護婦たちは、親孝行で感心だ、と思っているようだ。だが本人は、父が死んだら「ばんざい」と叫ぶつもりでいるのだ…。
 という、そんな話である。

 結末部分で、角田は、心の深みにあるものを見せてくれる。そして、揺らがせてくれた。

 46篇を最初から順に読んだ訳ではない。任意に選びながら読んで38篇目に「父のボール」にたどり着いた。

 2番目に良かったのは、
 桐野夏生「幻視心母」。
 ゴルフ場で脳梗塞で倒れた母を病院に見舞って、大嫌いな妹に久しぶりに会うことになる。
 姉は、コラムを書くフリーライターで、担当するコラムが最近有名になっている。
 妹はああいう性格だから、さぞかし不幸な境遇にあるだろう、やさしく接してやろうと思っていたら、
 最近、クワ・マリーという名で、
「 日本人かハーフか?」
 と話題になっている、小説家だった。妹は。
 という話。

 「この十年間、まったく違う妹像に水や肥料をやり、せっせと育て上げていた自分は何だったのか。マリの幻影に苦しめられていた自分が、途轍もなく小さく、馬鹿な人間に思えて仕方がない」
 と、書いている。

 人ってえものは、自分の都合のいいように世界を解釈して、自分の小さな穴の中で自分を慰めながら生きてるんだよな、ああ…。
 と、人間の愚かさに改めて気付かせられるいい作品。

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 3番目は、
辻原登「母、断章」。
 県会議員になったばかりの父と分かれる決意を固めた母が、旅先の旅館の前の川で、皆が寝静まった頃、全裸で泳ぐ。隣部屋の泊まり客がそれに気づき、
 「人魚だ!」と目を見張る。
 一方、わたしは、蒸気機関車の煙をかぶって目に入った石炭殻が取れなくてずっと片眼で…、
 という話。

 あとは順位をつけずに報告すると、
 松浦寿輝「地下」は、死なずに生き残り、刑務所から30年後に、平岡(三島由紀夫)が出てきたら、きっとこんな生活を送っているだろう、と書く。

 吉村萬壱「イナセ一戸建て」は、力のこもった私小説風リアリズム小説。
 島本理生「Birthday」は、娘が父母のことを見ているんだが、
 実は、この娘は殺された後の魂で、中空に漂って両親を見ているのだ、という設定が、
 後の方で分かるという、意外性を楽しませるつくり。

 坂上弘「薄暮」は、道半ばで自殺した在日の作家、故金鶴泳に託して、小説家としての決意を語る。これは私小説といっていいだろう。

 笙野頼子「この街に、妻がいる」、多和田葉子「晴れたふたりの縞模様」は、抽象画に似た味わいがあって、引きつけられた。
 藤野千夜「願い」、堀江敏幸「方向指示」も、detailにプロの技がある。

 46篇中、いい作品だなと思って赤ペンで印を付けたのは13篇。3分の1以上の割合だった。
 これは高いのか低いのか?

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千社札 築地から消えゆく。

2006年09月28日

 東京の魚河岸、築地には、
昔の、粋なしきたりの痕跡が残っている。
 千社札(せんじゃふだ)=写真下=は、そのひとつに数えてもいいんじゃないか。

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 千社札とは、ふつう、千社詣でをする人が、自分の名・屋号・住所などを趣向を凝らして刷った記念の小さな紙札で、社寺の柱などに貼りつけるが、
築地の千社札は、趣がちょっと違う。
 長さ30a、幅10aぐらいの木の板に名前が彫り込んである。

 新たに開店する料理屋などに、出入りの卸業者、友人、隣近所の人々が祝って贈り、店内に飾ってもらったのだ。紙の千社札が発展した感じだ。
 戦後しばらくの頃までこの風習は残っていたが、
今ではすっかりなくなってしまった、という。

 ここの千社札は、職人技とすぐに分かる見事な彫りである=写真下
 それもそのはず、彫り師は、浅草寺の観音堂の額をも彫ったことのある、名のある人だった。

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 この千社札100枚近くを店内にずらりと飾った、
「味の・いし辰」=写真下 築地場外 築地4丁目交差点、共栄ビル地階=が30日に閉店する。
で、これらの千社札も店と共に消えゆくことになりそうだ。

「味の・いし辰」は、やがて築地場外の地上に新規開店する予定で、場所を探しているところだというが、
「店のスペースもあるし、また飾れることになっても全部は無理でしょうね」
と、店のお内儀さんが話した。

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安部・新総理大臣誕生。間違えてごめんね。

2006年09月25日

 間違えちゃった。ごめんね。
 5月7日の「日々憤怒」に、次の総理大臣は福田康夫だ、って書いた。
題は、「福田さんです。次の総理は」
 断定しちゃったんだ。

 予測記事でこういう断定がどれだけ危険で、割に合わない行いであるか、よく知ってる。
 知ってるからやったんです。
 面白いから。
 謝る。

 福田康夫があんな根性なしとは思わなかった。
 だって、自分からさっさと降りちゃうんだもの。たくさんの人々が総理大臣に押し上げようとしてたのに。

 福田の人柄に詳しい人に聞いてみると、
 周りの人々が周到に準備して、後は自分さえ動けば思い通りになるという絶対安全状況が出来なければ「ウン」とは言わない、
 非力のくせにわがままな、京都の公家のような男だっていうじゃないか。
何様かねえ。ったく…。

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 お詫びに、安部晋三(1954年9月21日生、52歳)=写真上=のことを少し書こう。

 腸が弱い。激務は合わない。
 遊び上手。
 かつて銀座のバー「ジュン」で、よくピアノなんか弾いたりしてみせた。 父親の安部晋太郎(元外相)の秘書だった頃のことだ。
 父親がこういう遊びが好きで、見習っちゃったんだな。
 この「ジュン」には、佐川急便の渡辺正康がしょっちゅう来てた。

 ハンサムで人当たりがいいから、
人が群がるけど、信頼できる人がいない。
 ここが問題。

 以上は、自民党に深く関わってきた政界フィクサー福本邦雄(79歳 第二次共産党の理論的指導者で党中央委員だった、福本和夫の長男で元産経新聞記者)が、
 テレビ界のコワモテ幇間(たいこもち)、田原総一郎に、「オフレコ!」という雑誌(ムック)の第3号(2006年9月8日発行、¥780)で話している。ただし、腸の問題の出所は福本からではない。

 東京の私立成蹊中学・高校から政経大学法学部政治学科へ。
 1977年3月に卒業し、同4月、神戸製鋼所入社。
 1982年11月まで、5年8ヶ月勤めた。

 この、社会人の時、
友人と横断歩道を渡っていた安部が、前から来た暴走族風の男たちの1人の体と、すれ違いざま接触した。

 振り向いて、いちゃもんをつけかけた男に、
 「君の方からぶつかってきたんじゃないか」
 と安部は言い、にらみ合って引かなかった。
 しばらく続いたが、
「気をつけろ」と男は言い、去っていった。

 その後で、
 「あんなチンピラと喧嘩してやられたらどうするんだ?」
と聞かれた安部は、
 「だって向こうが悪いんじゃないか」と答えた。
 引かない性格だ。

 これは、当時、安部と一緒にいた同僚のテレビでの証言で、
 テレビ番組司会者は、
 安易なのか何なのか、
 「引かない人柄ですねぇ。骨がありますねぇ」風なことを言っていた。

 吉祥寺にある私立成蹊大学が、それほど有名じゃないせいか、

 評判の良くない「2チャンネル」というネットのスレッド(コーナー)で、
 パソコンオタクのクダラン奴らが、

 「日本政治史上、知的レベルが一番低い総理大臣」
 などの罵詈雑言を浴びせている。
 (パソコンオタクは、学歴コンプレックスで権利意識強く、隠花植物みたいにジトーッとして、女にもてない奴が多いみたいだよ。見てると。気にする必要ないね)

 彼らの根拠はきっと次のようなことなんだろう。

 例えば、
 1880年に設立された米国・西海岸最古の私立大学で、日本の政治家では二階堂進、三木武夫、ハリウッド映画のジョージ・ルーカス監督らが卒業した南カリフォルニア大学(USC=University of Southern California、ロス・アンジェルス)に留学したが、卒業出来なかった。

 2002年2月、大学での講演で「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言。
 講演後の国会答弁で、資料を見ながら「TNT火薬」を「NTT火薬」と間違い読みした。(TNT火薬は、火薬の代表。核爆弾の威力を示すために、『TNT総量』という単位が設定され、使われている)

 安部総理大臣は、one issue内閣でいいんじゃないか。
 one issueすなわち、一つの問題だけを解決する内閣である。

 そのone issueとは何か?
 言わずと知れた、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致問題である。

 安部は、外相だった父の秘書時代から真相究明に積極的で、
後に、中山恭子内閣参与(当時)とともに拉致被害者と政府の信頼関係を築き、対北朝鮮外交で強硬路線を主張した。そして、2003年9月小泉純一郎により自民党幹事長に抜擢された。

 なにをどうすればいいのか?
 米国、中国と協力して北朝鮮への経済制裁を有効に働かせ、キム・ジョンイルを北朝鮮の独裁者の座から引きずり降ろし、拉致問題解決へつなげるのだ。
 これが成功すれば、長期政権だって転がり込んでくるだろう。

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(写真をクリック)


 高級官僚てぇものは、エリート意識が強く、東大を出ていない他者を見下す鼻持ちならない奴が多いから、
 いずれ、これら官僚たちから、安部を馬鹿扱いする小話やアングラ情報がマスコミを通じてたくさん流れてくるだろう。

 前々首相の森喜朗を、
 「鮫の脳みそをもつ首相」なんて、
面白いが無礼な見方を、勉強しない記者たちに教えて流行らせたのは、首相に接する機会がある各省庁の審議官や次官など高級官僚たちだったからね。

 ちょっとしくじると、そんな皮肉のアネクドートがたくさん流れ出すだろう。覚悟しといたほうがいいね。

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秋のハチミツを下田で搾った。

2006年09月20日

 ハチミツを搾った。
 伊豆・下田市に住む両親を手伝って。
 親父(82)が趣味で飼っている。
 年2回搾る。前回は、6月20日だったから、3ヶ月ぶりだ。

蜜蜂たち.jpg
(写真をクリック)

 2群飼っている。
 1群のハチ数は25、000匹で、働きバチの寿命は2〜3週間だが、女王バチが絶え間なく産み続けるから、各群の働きバチの総数はいつも変わらない。
 計5万匹の働きバチが、雨の降らない日にせっせと集めた蜜である。
 前回は2斗(36g)だった。
 今度はこれより多いかどうかが関心の的だった。

 巣から半径2キロの円内のテリトリーの中にある花々から集めている。朝から晩まで、巣と花々をひっきりなしに往復して集めるのだが、1匹の働きバチが集める蜜の総量は、2〜3週間の生涯で茶さじ1杯分だという。

 1群25、000匹の家は、1棟の巣箱だ。
 1棟は、巣箱が3段重ね。
 箱の中には、巣礎(すそ)が10枚ずつ入っている。
 巣礎とは、ハチが巣を作りやすいように用意された巣の基礎。上の2段の箱の中の巣礎がハチミツ貯蔵用、下の1段は、女王の産室用である。

 人間がこのように、上の2段だけをハチミツ貯蔵用に限定できるのは、働きバチの2倍以上の体をもつ、大きな女王バチが上の2段に移動するのを防止する仕切りを、1段目と2段目の間に、設置しているからだ。
 女王バチは、上に移動できないから、下の1段の中に置かれた巣礎だけに子を生み付ける。
 人間の悪知恵である。
 女王バチは上に移動できるなら、上にも生み付ける成り行きになるのだ。
上の写真の、鉄線が、その仕切り

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(写真をクリック)


 網をかぶり、煙霧器(えんむき)で煙を蜂たちに吹きつけつつ、蜜が貯蔵された巣礎を引き出す=写真上。巣礎に築きあげられた巣にはびっしりと蜜が貯蔵されて重く、巣の表面は蝋で蓋がされている。
 ミツバチは、煙を吹きかけられると、沈静化され攻撃的でなくなる。煙霧器の煙は、ケヤキの青葉を燃やしてつくる。

 巣箱から引き出された巣礎は計40枚。
 ハチミツが貯まった巣礎の巣の、裏表の表面をふさぐ蝋を包丁で切り取る=写真下。そして遠心分離器に入れる。遠心分離器には、1回につき6枚の巣礎を入れられる。

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(写真をクリック)


 遠心分離器=写真下=は高さ1.2b、直径1bで鉄製。手で回す。
手回し作業は、もちろんオレの役割だ。
 最初に右回し。思いっきり回す。ついで左回し。これも思いっきり。
 遠心分離器を回す時間は、1回あたりおよそ10分間くらい。これを7回繰り返した。

 絞り集めた蜜は、網で濾す。
こうして集めた蜜の量は、2斗2升、約40g。3ヶ月前より4g多かった。
 朝10時から働き詰めで午後2時までかかった。

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(写真をクリック)


 今年の蜜は、ありきたりなメノウ色で、昨年に比べ色が薄い。
 ブドウ色をしていた昨年の秋蜜と大きな違いだ。
 これは、今年はクリが不作で、クリの花が少なかったため。

 「今年はいい蜜だ」と、人差し指ですくって味わった親父は喜んだ。
 いい蜜には違いなかったが、オレはすこし落胆した。
 オレはクリの花の蜜が入った秋蜜が、味わいが深くて好きなんだ。
 だれもが評価する、花の香りに満ちた6月の蜜よりも、クリで味わいが深い秋蜜の方がいい。

 「ミツバチはかわいい」と、母親(78)はよく言う。
 わずか2〜3週間の生涯に、時間を惜しむようにして花蜜を集め続けるその姿が、いとおしいらしい。

 収穫した蜜は、毎回、近所や親類に配るんだが、
 「料理の味付けに使った」、なんてえ話を聴くと、
 母親は、
 「あそこには、もうくれないことにしよう」と怒る。

 大事に味わって欲しいのだ。
 ハチがかわいいからね。
 もらった蜜をどう使ったかは、ウチの母親には言わないでほしい。

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暗殺へ、急転換   一人一殺 53

2006年09月16日

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 「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)は、
初めから暗殺をやろうとしたわけではなかった。

 「わが国家は、すでに単なる論説によっては救われない。実践あるのみだ」
 と思ってはいたが、最初考えた方法は、穏健だった。

 まず宗教的に育成された4人の同志をつくる。
 この4人と一緒に農村に入って住み着き、農作業の手伝いをしながら、日本精神を農民たちに説き、日本精神に目覚めてもらう。
 そして国家革新が必要であることを説いて賛同してもらう。

 1ヶ月に、1人がこうした同志1人をつくる。
 この方法でネズミ算式に倍加運動をやっていけば、3年後には巨万の同志を獲得できる。
 やがてこれらの同志を集めて上京し、政府や議会などに対して革新の実行を迫る。
 というものだった。

 同志の採用基準は厳しかった。
@社会運動に係わったことがない真面目な人物
A宗教的信仰をもつ者、あるいは、宗教的鍛錬を経験した者、または、革新運動について宗教的な熱意を持つ者

B以上のような条件を持たなくても、人間として素質が純真な人
C革新運動に身命を惜しまない確固たる信念をもつ人

D人々から喝采されて褒められるのを喜ぶような弁論の人でないこと
E自活できる人

Fほかの思想団体や政治団体と関係をもっていない人
G兄弟が少なく、一家の責任が軽いか、または、それを超越した者

 これらの条件にかなっていれば、
その人の抱く考えの中味は問題にせずに採用することにし、

 昭和3年(1928)暮れごろから昭和5年(1930)9月ごろまでの間に、「血盟団」裁判の被告人になった、
 古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二や、
被告人にはならなかった照沼操、堀川秀雄、黒澤金吉、川崎長光らを同志に得て、
いわゆる「茨城組」を作り上げた。

 日召は、昭和4年(1929)12月ごろ、
国家革新の志を抱いて海軍部内で熱心に運動していた、霞ヶ浦海軍飛行学校の学生、藤井斉・海軍中尉と知り合い、肝胆相照らす同志になった。
 そして、昭和5年(1930)初めごろから9月ごろまでの間に、藤井斉に啓蒙された、海軍少尉の古賀清志、海軍少尉候補生伊東亀城、同大庭春雄、同村山格之ら、海軍側同志を得た。

 この間、日召は、藤井斉から数回にわたり、
 「ロンドン海軍条約締結の結果、対外関係の危機が迫り、1936年ごろ、我が国は未曾有の難局に遭う。挙国一致でこの難局に立ち向かうため国家革新が急務だ」
 と力説された。

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 日召は、社会情勢を足で調べる必要を感じて、昭和5年(1930)8月ごろ、群馬、栃木、東京などを回って人々の生活ぶりを見て回り、識者の意見を聞いた。

 この結果、国家の危機が急迫し、民衆の生活は苦悩に満ち、深刻で、革新を願う声が全国に満ちている。すでに論議している暇はなく、すぐに革新を断行すべきであると判断した。

 つまり、それまでの倍加運動では時間がかかり過ぎてこの情勢に対応できないばかりか、
 たとえ倍加運動が実現しても、大衆運動の結果として大衆と官憲との衝突が起き、大きな流血の事態になる危険性が高いだろうと考えた。

 大規模な流血が引き起こす社会の混乱は、日召の革命精神に反する。
 だから、時間がかかり危険な倍加運動は放棄し、代わりに、現状打破のため、同志たちとともに非合法手段に訴え、革命の捨て石になろうと決意した。

 日召は、
現状打破の具体的方法、決行時期の決定、同志間の連絡、国家革新運動についての情報収集を、海軍同志の代表、藤井斉から任された。
 そこで、昭和5年(1930)10月ごろ、茨城・大洗海岸の立正護国堂を去って上京した。

 その後のことは、これまで、この「一人一殺」で書いてきた通りだ。

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橘孝三郎写真をクリック

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた日召に対する判決理由書には、
 農本主義者で「愛郷塾」長だった橘孝三郎(1893―1974)=写真上=のことも出ている。

 橘は、農業を通じて共同体的な理想社会を実現しようとして、1915年に一高を中退、郷里の茨城で農業生活に入った。1920年、農業機械を導入した近代農業をめざし兄弟村を建設したが病気になり4年近く闘病生活を送った。

 1929年、「愛郷者」の強固な団結と荒廃した農村での新生活の創造を求め、一種の協同組合「愛郷会」を結成し運営した。農民教育へも活動を広げ、自営的農村勤労学校「愛郷塾」を運営していた。主著は「農村学前篇」(1930年発行)。戦後は右翼の大物の一人とされた。

 日召は、橘孝三郎と市内某所で会見し、橘の人格識見に深く傾倒した。
そして昭和維新成就の後の新制度建設に有用欠くべからざる人物と判断、橘に、
 「破壊の完成後の建設を担当してほしい」と要請し、

 非合法破壊運動に引き込む対象人物から外すことを、心ひそかに決めた、という。

 橘孝三郎は、評論家立花隆の遠い親類だという。
 立花が、著書「天皇と東大 上」の743nに書いている。
 「橘孝三郎は私の父の従兄という親戚筋にあたり、私も子供のときに会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかない」

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まず破壊を、と考えた日召 一人一殺 52

2006年09月14日

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 人間は、一見ばらばらで、それぞれ対立しているように見えるが、実は、宇宙を構成する一部分で、本質的に宇宙と合体していてひとつなんだ。

 だから、自分のことだけに執着するような利己的な生活はいいかげんでやめて、自分が大衆の一人であることを自覚し、大衆と苦楽をともにする大きな生活、
 すなわち菩薩道 (悟りに到る道、菩薩の修行の道) に立った感謝の生活を、早く送るようにしたほうがいい。

 これが「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)の宇宙人生観だった。
 次に国家観。

 わが日本の国体(国家体制)は、宇宙の真理そのもので、天地とともに窮まりない。

 なぜなら、国祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が子孫に与えた三種の神器は、大神(おおみかみ)の精神である人類最高の智・徳・武、すなわち宇宙の真理をあらわしている。
 歴代天皇は、この三種の神器を天照大神のお告げである神勅とともに受け継ぎ、大神の精神を継いで、唯一絶対の君主として国家の中心にあり国民と一体であるうえに、国民の大親である現人神(あらひとがみ)として存在しているからだ。

 国民は、天皇の子どもで宝だ。
 天皇の精神を自分の本質とし、君民一体一国一家の理想の国家体制を作っている。日本の国家体制は、天皇と国民の間に何者が存在するのも許さず、国民は天皇の下に一人としてその所を得ざる者はない。
 国民は、その地位を守り未完成を恐れずに理想国家の実現を願うべきだ。
やがて理想社会を実現し、それを全世界に行き渡らせ、世界人類の平和を実現するのが日本精神だ。

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 次は、当時(1931、2年ごろ)の日本社会に対する日召の見方。

 支配階級である政党、財閥、特権階級は腐敗堕落し、国家観念に乏しく、結託して私利私欲に走り、天皇と国民の間を引き裂き、目前の権勢の維持に努め、
 ことごとく国策を誤り、このために内治外交に失敗し、なかんずく、農村の疲弊、都市中小商工業者や労働者の困窮を見捨てて顧みることなく、疑獄事件を相次いで起こしている。

 国民への教育は、根本を個人主義に置き、国体の絶対性を教えることなく、知育偏重に流れ、徳育を忘れている。
この結果、国民の思想を悪化させるなど、政治・経済・思想・教育・外交などさまざまな方面で極端な行き詰まりを招き、このまま放置すれば日本は滅亡するしかない。

 この深刻な行き詰まりの原因は、
明治維新以来の支配階級が、建国の本義を忘れ、西洋文明に酔って模倣しよ うとして、
 西欧の個人主義を基本にする資本主義のような、宇宙の真理に反する差別相対の原理を、国民生活や国家組織制度の指導原理にしたからだ。

 資本主義の矛盾や欠陥は我が国の本質を覆って、道義は衰え、混乱紛糾は大きくなり、ついに、
 昭和維新を願う国民の声が大きくなった。

 ところが、学者や宗教家には気概がなく、この現状を目にしながら支配階級にゴマをすって、自分の利害や打算に一生懸命であるか、または、なにもしようともしないで傍観している。
 このため、このごろ資本主義を修正するものとして登場してきた社会民主主義、国家社会主義、あるいは共産主義が、支配階級と対立抗争をもっぱら行い、かえって混乱を助長している。行き詰まりを打開出来ない。

 この行き詰まりを解決し国運を伸ばすためには、宇宙の真理そのままの日本精神を指導原理にして、支配階級を日本精神に目覚めさせ、我が国の組織制度を改革し、発展力を強化する必要がある。

 旧制度を破壊することなくして建設はあり得ない。

 革命をやろうとする者は、
自己を深く内省して、まず日本精神に目覚め、
 国民の幸福を幸福と感じ、苦悩を自分の苦悩と感じる大慈悲心をもっていなければいけない。
 また、天皇の赤子として、天皇が治める国が唯一絶対であると自覚し、

 間違っても、

 革命を、生きるための手段、または事業であるかのように思ったり、革命によって権勢や地位、名誉を期待したりしてはいけない。

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 以上が、1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた判決理由書に書かれていた井上日召の思想の核心だ。

 判決理由書は、計91回の公判での証拠調べなど審理の末に3人の裁判官が理解し突き止めた「血盟団事件」の厳格な核心であり、渾身の力作だったと考えていいだろう。

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超国家主義を発火させた日召   一人一殺 51

2006年09月05日

 1945年(昭和20)8月15日の敗戦で終焉するまで13年余の間に、2000万人のアジア人を殺戮した日本の超国家主義(軍国主義)を発火させた、
 「血盟団」頭領の井上日召(1886―1967)=写真下=は、

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 「キキョウやオミナエシはなぜあんな色をしているのか?」
 「川面の泡沫はなぜ生滅するのか?」
 と疑問を抱く懐疑的な少年で、

 「大人だって先生だって知りもせんくせに知ってるような顔をしているんだ。大人は、ウソは泥棒の始まりだ、などといいながら、自分ではウソをいったり悪いことをするじゃないか」と心ひそかに憤慨する少年でもあった。

 「血盟団」は、
 そういう懐疑心に突き上げられて中国や茨城、静岡の禅寺などで苦悩し続けた日召が、
 長い苦闘の後、やっとのことで抜け出た境地の末に、行き着いた結論でした。

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁で読み上げられた判決理由書や、日召が書いたエッセイ「梅の実」の中に、
 日召のその、心の苦闘の軌跡が描かれています。

 それらによると、
 群馬県利根郡川場村の医師、井上好人の四男に生まれた日召は、父や郷土の気風の影響で報国任侠の精神を身につけた。
 前橋中学から東洋協会専門学校(現拓殖大)に入学した。

 懐疑解決への道を、教師や先輩に求めたが、満足できるものはなく、やがて、
 「現在の教育道徳などは、すべて支配階級が無自覚な一般民衆を制して、搾取するための欺瞞的な手段にすぎない」
 と、自暴自棄になって、明治43年(1910)8月、同専門学校を2年で中退し、

 死を決意して満州に渡り、満鉄社員になりました。
 そのかたわら、陸軍参謀本部の諜報の仕事に従事しました。この頃、たまたま南満州公主嶺で曹洞宗布教師東祖心に会って教えを受け、一筋の光明を得た気がしたが、すぐ別離。

 再び懐疑の人になりました。

 大正2年(1913)、北京に行き、中国軍閥の大総統、袁世凱の軍事顧問、陸軍砲兵大佐坂西利八郎の下で諜報活動をし、第一次大戦の日独戦争では天津駐在軍付き軍事探偵として働き、功績をあげて勲八等を得ました。

 大正7年(1918)暮れごろから、天津などで貿易商をし、諜報活動もしていましたが、

 宇宙、人生などについて深刻な疑問がまたわき上がり、これを解決する安心の境地を求めて、大正9年(1920)暮れに帰国しました。
 「社会主義者の増加、支配階級の横暴無自覚はすこぶる憂慮すべきものがある。このまま放置すべきではない…」
 が、帰国した時の、日本への感想でした。

 日召は心の平安を求めて、
 大正11年(1922)春ごろ、郷里・川場村の「三徳庵」にひとりで座禅し、日夜、法華経の題目「南無妙法蓮華教」を唱えて修養に専念しました。

 訪れる人もなく、本堂に朝から晩まで座り込んで、公案を繰り返し考えました。
 米がなくなると、近くの川に生える水草、川松を採って食い、フキ、オンバコも食った。松葉、落葉松、雑木の葉…、
 毒にならぬものは何でも片端から口に入れ、水ばかり飲んで座禅修行を続けたが、
 なんの進歩も変化もなくついに心身共に疲れ切った。

 ある日、「南無妙法蓮華教」を唱えて死のうと決心し、夜となく昼となく唱え続けて疲れ果てて倒れ、起きては又唱えるということを繰り返しました。

 数十日経つと、心身に異状が出始めた。
 「ああ、自分は発狂するのだな。よし狂え。狂ったら狂い死のう。それが俺の運命だ」
 そんな捨て鉢な気持ちになって、題目を唱え続けた。

 そのうちに、何となく平和な、
 非社会的で孤立的だが、安易で明るい世界が開けて来た。

 それまで話に聞いていた、ディオゲネスや聖フランシスや、乞食桃木や、良寛やらの気持ちがはっきりと分かるような気持ちがし、
 同時に腹の底からそれらの聖者の仲間入りができるような気がしてうれしさがこみ上げてきた。
 親も家もうち捨てられるような…、
 浮世への執着のような感じが引いていった。

 初夏が訪れました。
 ある朝、いつもの通り武尊(ほたか)山頂に向かって合掌し、
 「南無妙法蓮華教」を口ずさみつつ太陽が山頂に昇るのを拝んでいた。
 いつもよりはるかに大きな日輪が山頂に赤々と登り切ったその瞬間、

 一種不可思議な気持ちになって、突然、
 「ニッショウ!」と叫んだ。

 血の出るような、底力のある声だった。

 嬉しい嬉しい。
 何がなんだか意思をまったく超越した嬉しさだ。

 全身霊光に浴したように、
 四方八方見る物のことごとくが光を放っていた。

 筆にも口にも言い表せぬ喜びで、
 踊ったり跳ねたり、果ては大地を転がり歩いた。

 心が静まってから、静かに考え直してみたが誤りはない。
 過去の苦はぬぐったようにまったく晴れ、
すべてが快刀乱麻を断つように、
流れに従って舟を操るようにスムースだった。

 日召が、悟った瞬間でした。

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 13年余り続いた日本の超国家主義(軍国主義)のため殺戮されたアジア各国の2000万人のうち日本人は310万人とされています。
 統計によると、第二次世界大戦の全犠牲者数は4000〜5000万人。全世界の犠牲者の半数近くが日本の超国家主義者が起こした侵略戦争で殺されました(三省堂「戦後歴史大事典」1991年)。

 日本帝国陸海軍による中国侵略は、
 日本国内の腐敗した政治の改革を性急に求める、佐官級の若手軍人たちの暴走で、
 1931(昭和6)年9月18日に満州事変が発生、1932(昭和7)年1月28日に第一次上海事変が起き、
 すでに拡大し始めていましたが、

 当時7000万人の日本人の多くにとっては、遙かかなたの海外で起きた局地戦でよそ事みたいなものだったらしい。

 ところが、1932(昭和7)年2、3月に、前蔵相の井上準之助、三井合名理事長の團琢磨が暗殺され、

 やがて、

 「血盟団」の14人が暗殺団をひそかに作って、
これに陸海軍軍人たちも参加し、一人一殺で政財界の大物たちを根こそぎしようとしていた。
 軍人メンバーたちは、血盟団事件の捜査が進む最中の同年5月15日に、犬養毅首相を首相官邸で暗殺し、後に「5.15事件」と呼ばれる大事件を起こした、

 という、

 一連の事件の流れや背景が分かり、新聞でひんぱんに報道されると、多くの人々の心は暗殺事件に引き込まれて行ったようです。
 こうして、国民の強い関心が集まる中、
 東京地裁や陸海軍の軍事法廷で開かれた裁判では、

 日召ら被告たちが、
 天皇が与える勲章叙勲を、内閣賞勲局長が賄賂をもらって決めていた「売勲事件」など政府の腐敗や、
 政財界の癒着と腐敗ぶりを鋭く指摘し、

 腐敗の犠牲ともいえる地方の農民たちの窮乏への深い思いが血盟団の暗殺行為への動機になったことが、法廷証言を通じて新聞で報道されました。

 すると、
 被告たちへの国民の共感はいっきょに、熱く深くうねるようにして広がった。
 つまり、政財界改革運動への熱いサポーターが全国的に多数出現し、
日本の右傾化が始まったのです。

 例えば、被告たちの減刑を願う嘆願書が、全国から裁判所に郵送されてきましたが、その数は、
 血盟団事件が30万人余、5.15事件が100万人余になりました。
 前代未聞の出来事です。

 国民に広がったこの熱い共感は裁判長にも影響を与えたらしく、
 血盟団・5.15事件被告たちへの判決では、死刑判決が1人もない寛大なことになった。

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 この寛大さと国民の熱い支持、すなわち右傾化が、
 やがて、
 陸軍歩兵連隊や近衛連隊の兵士1483人が動かされて、
高橋是清・蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・陸軍教育総監を暗殺、警官6人も犠牲にした2.26事件(1936年2月26日)を誘発したといわれています。

 2.26事件以後は、
 国民の批判は、武力に萎縮して力を失い、軍人たちはやりたい放題。
 超国家主義が圧倒する時代になりました。
 1936(昭和9)年から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで9年間のことです。

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「新聞は支配階級のもの」と日召  一人一殺 50

2006年08月29日

 言論機関は
すべて支配階級の掌握するところなるのみならず、
言論等の合法手段によりては、彼らに何らの痛痒を感ぜしめ得ざるをもって、

 被告人ら同志において、自ら支配階級覚醒のため、
非合法手段に訴え、
現状打破に従事し、
もって革命の捨て石たらんと決意し…


 1934年(昭和9)11月22日、
東京地裁であった血盟団暗殺事件の判決言い渡しで藤井裁判長が読み上げた判決理由の中に、
 井上準之助・團琢磨暗殺が起きた74年前(昭和7年)の
言論機関、
 すなわち新聞に対する井上日召の考えが示されている。

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 「言論機関はすべて支配階級の掌握するところ」

 「言論等の合法手段によりては、彼らに何らの痛痒を感ぜしめ得ざるをもって…」

 翻訳すると、

 すべての言論機関は、支配階級に掌握されている。
 だから新聞・ラジオ(当時、テレビはなかった)は、支配階級が困るようなことは書かない。

 だから、

 腐敗した政財界の改革が必要なことを、
国民に、言論という合法手段でいくら訴えたって、
支配階級・特権階級の人々は痛くもかゆくもない。

 改革も出来ない。

 だから私たちは、
 暗殺という非合法手段をとって、
国民に社会改革の必要に気づいてもらうため、
捨て石になろうと決めた、
 というのだ。

 日召ら、血盟団の被告たちは、
政財界・支配階級の大物たちの暗殺のニュースが与える衝撃、
それにつづく裁判での発言を通じて、

 新聞記者たちをはじめ衆人環視の中で、
政財界の腐敗を明らかにし、

 その解決が必要なことを訴えるため、
捨て石(犠牲)になる決意だった。

 目的はそれ以外になかった。

 血盟団被告14人に対する公判は、
東京地裁で計91回開かれた。

 公判では、日召ら被告たちが一人一殺のテロルに駆り立てられた背景の事情が詳しく示された。

 日召らが把握していた、
政財界・支配階級の腐敗の実情が示されると、

 日召らが暗殺へと駆り立てられた、やむにやまれぬいきさつがやがて広く理解された。

 14被告への同情が広がり、
助命嘆願書が、全国の30万人以上の人々から東京地裁に寄せられた。

 藤井裁判長が、
判決言い渡し後の発言の中で思わず泣き出したのは、

 助命嘆願書を出した30万人と同じような思いにとらわれていたのかもしれない。

 「言論機関はすべて支配階級の掌握するところ」
という日召の判断は的確だった。
今も変わらない。

 筆者はそう思う。

 現代の支配階級とは、

 毎年何千億円もの広告費を、
新聞・テレビ・ラジオ・インターネットなどに注ぎ込む大会社や、
 テレビ・ラジオ放送の許認可権を握る政府・自民党の政治家・役人、
ついで衆参両院の国会議員、マスコミに登場する有名人など。

 それにメディアや広告会社なども当然加えられる、

と考えていいだろう(ほかにもあるがきりがない)。

チルドレンな日本=本表紙.jpg
(写真をクリック)

 最近、
「チルドレンな日本」(香山リカ、佐高信著=2006年7月1日、七つ森書館発行 ¥1400)=写真上=の中に、
次のようなやりとりを見つけた。

佐高 ……トヨタ自動車は大スポンサーですから、テレビも新聞もトヨタを批判することはできません。批判できるのは「週刊金曜日」くらいなんです(笑い)。

 木村拓哉がレーサー役で主演していた「プライド」(フジテレビ、2005年)というトヨタがスポンサーとなっているドラマがあるんです。レーサーだから当然レースに出るはずなんですが、そのドラマにはレースの場面がないんです。

レースをやるといろんな車が一緒に走るので、ほかの会社の車が映らないとおかしいのですが、トヨタ以外の車を映すわけにはいかないという理由なんですね。

 水を差すようですが、木村拓哉が好きでドラマを見る人もそういうことも分かって見てほしいですね。……
(153ページ)


佐高 …本当に、テレビには幇間(たいこもち)みたいのばっかりいますね。「朝まで生テレビ」には1回しか出ませんでしたが、終わるとなごやかに酒を飲むんですよね。

香山 そうなんです。オウム真理教と幸福の科学だけは「そんな会に出られるかと言って帰った。あれは本物だ」とテレビ朝日の人が言ってました。

佐高 さっきまで言い合ってたのに、私は信じられなかったですね。

香山 そうですね。「ちょっと言い過ぎちゃって」「いやいや分かってますよ、お互い様です」とか言って。そこを中継すればいいのに(笑い)。……
(118〜119ページ)


香山 朝の番組で、「愛国心を憲法に盛り込むのは是か非か」という話になって、私と井筒和幸監督がノーの立場で、イエスの立場の勝谷誠彦さんや三宅久之さんなどとやりあったんです。
 そのコーナーが終了してCMになったら勝谷さんが、
「ああ、面白かったね」と、もう終わったようなことを言ったんです。本気じゃないんだなと、すっごく腹が立ったんです。……
(116ページ)


佐高 ……私が学生時代にベトナム戦争があり、日本テレビが「ノンフィクション劇場」で「南ベトナム海兵大隊戦記」(1965年4月)を放送したんです。アメリカ軍兵士が、いわゆるベトコン兵士の首をちょん切って、その首を持った映像が撮られたんです。
それを、当時の佐藤栄作首相がこういうものをテレビで放映してはならないとして問題にしたんです。茶の間でごはんを食べながら見ているんだから、そういう残酷なものを放映するのはいかんと。
残酷と言ったって、現実はもっと残酷なのに、テレビでつくられた現実だけを、としたんです。

香山 テレビ向きの現実だけを放映しろということ?

佐高 そうそう。テレビにはそういう怖さがあるんじゃないかな? 一時期はそういうことも言われたけど、いまはまったく聞かれなくなりましたね。
(145ページ)


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パソコンが凄く進化した

2006年08月28日

 4年半使ったパソコンが壊れたので、
 SonyのVaioを買った=写真下

Vaio1.jpg
(写真をクリック)


 ものすごく進化していた。
 人間にたとえれば、そう、30年分ぐらいの進歩ってぇ感じ。体感でね。

 付属品のスピーカーの音質は、
10年前に、うん十万円も出して買ったステレオと張り合ってる。

 ありったけのCDをハードディスクに記録できるから、最初にキーボードを叩いて聞き始めれば、ほったらかしで永遠に聞き続けられそう。

 テレビは、全アナログ放送を見られる。画質がいい=写真下

.Vaio2.jpg
(写真をクリック)


 何よりもいいのは、反応が俊敏だ。
 キーを打つ前に、もう文字が画面に現れるんだ。

 なーんちゃって。
 これは冗談。

 それもそのはずで、
 CPUが、3ギガヘルツ(GHz)、
 メインメモリーが2ギガバイト(GB)、
 ハードディスクが400ギガバイト(GB)

 と、飛躍的に増えているのだ。

 買ったばかりのパソコンは、
 VaioのVGC−RC52L9・RC52(デスクトップ型)。

 壊れたのは、
 富士通のFMV―DESKPOWER C18SA(デスクトップ型)。

 値段は、こんどの奴(Vaio)の方が7万円安い。

 仕様を比較してみる。


    CPU    メモリー   ハードディスク
Vaio 3GHz    2GB    400GB

FMV 1.8GHz  256MB  80GB

 CPUが1.2GHz増え、
 メモリーが8倍、
 ハードディスクのメモリーが5倍に増えている。
 古いFMVは、その当時、最高の性能だったんだ。

 新しいのはメモリーの標準装備が1GBだったので、
1GB分増設工事をしてもらった。

 ご存知のように、

 CPUは、データの計算・加工や制御を行なうパソコンの中枢部分で、
メモリに記憶されたプログラムを実行する装置であり、
入力装置や記憶装置からデータを受け取り、

 演算・加工した上で、出力装置や記憶装置(つまりディスプレイ、スピーカーなど)に画像や文字、音などを出力する仕事をする。

 メモリーは、
コンピュータ内でデータやプログラムを記憶する装置で「主記憶装置」ともいう。

 半導体素子を利用して電気的に記録を行なうため、動作が高速で、CPU(中央処理装置)から直接読み書きすることができるが、単位容量あたりの価格が高いため大量には使用できない、とされる。
 
 また、電源を切ると内容が失われてしまうという欠点がある。このため、コンピュータにはメモリのほかに、ハードディスクなどの外部記憶装置(補助記憶装置)が装備されていて、

 利用者がプログラムを起動してデータの加工を行なう際には必要なものだけメモリに呼び出して使い、
 長期的な保存には外部記憶装置が使われる、という。

posted by Jiraux at 00:18 | Comment(0) | TrackBack(1) | news 日々憤怒

泣き出す裁判長 日召が歩み寄ってお辞儀                        一人一殺 49

2006年08月19日

さいばんち造う.jpg
判事席の左側のメガネの人が藤井裁判長。
(写真をクリック)


 「井上昭を……、無期懲役に処す」
 小沼は無期、菱沼無期、古内懲役15年…。
 死刑(求刑)は無期になり、無期(求刑)は有期になり、15年(求刑)が8年、7年(求刑)が3年…。

 寛大な言い渡しに、被告たちは、感激に身を震わせて頭をだんだん低くたれる。

 最後に藤井裁判長は、
 「もし刑が決まって服罪するなら、みんな体を丈夫にして……」
と、何か言おうとしたが、語尾は涙に濡れて唇を噛んで顔を伏せてしまった。
そして、横を向いて、
 「帰ってよい」という。

 伊藤被告がまず階段を地下へ下り始めた。満廷、総立ちだ。

 日召は、静かに立ち上がると、
 裁判長席の下へ行って、感謝いっぱいの瞳をじっと裁判長に向け、お辞儀をした。

 しかし、裁判長はそれに気付かず横を向いている。
 このため、日召=写真下=は、
藤井裁判長が顔を向けている方へ歩いてまわり、裁判長に、再び頭をたれた。

nissyo maru.bmp


 鮮烈な光景だ。

 死刑を求刑されていた被告が、
判決で無期懲役に減刑された直後、裁判長の目の前に行き、判決に感謝してお辞儀している。
 裁判長が、顔を横に向けて気付かなかったために、被告日召は、
裁判長の視線の先まで歩いて行き、感謝のお辞儀をする。

 その裁判長は、
日召がお辞儀をしに来る前の、
判決言い渡しの後の発言中に、

 感極まって泣き出し、言葉が震え、詰まって顔を伏せ、

 感情が治まるのをしばらく待ってから、
横を向いたまま、
 「帰ってよい…」
 と、被告14人に言った。

 この間、満員の傍聴席など、法廷を埋める人々は、裁判長の様子を静かに見守っていた。


 74年前に起きた血盟団テロ事件を、
私が、
 このwebに書いてみようと思い立ったのは、

 実は、
古いスクラップブックの中にあったこの場面を読んだのがきっかけだった。

 何だ、こりゃぁ!
 と思った。

 公正中立の立場にいなければならない裁判長が、

 被告たちがテロルに走ったやむにやまれぬ経緯に感動したのか、

 あるいは、被告たちの行為に感動して「死刑」求刑を、無期懲役に減刑した己の心のありさまに感動したのか、

 判決言い渡し直後の発言が続くさなかに、泣き出す。

 何という日本的な光景だろう。
 「日本」というシステムのあいまいさ(ambiguity)、わからなさが、
ここに、端的に現れている。

 裁判長が、死刑求刑を無期懲役に減刑したって、
ちっともおかしくはない。
 世界中の裁判で起こりうることだ。

 しかし、裁判長は、判決言い渡しに続く発言の中で、
感動して泣き出しちゃいけない。

 それは、
 「私は、被告たちの行いに感動してこういう判決を出したんですよ」
 と、態度で語っているじゃないか。
 きっと正直な人だったんだろうが、
 この場合、
 裁判長の涙は、裁判制度への人々の信頼を、揺るがす。

 さらに、死刑求刑が無期懲役に減刑されたからといって、
井上日召被告は、裁判長に歩み寄って感謝のお辞儀をしちゃ、
もっといけない。

 裁判長の視野に入ろうとして移動し、2度目のお辞儀までしてるじゃないか。
 廷吏たちは何をしていた?
 裁判長の訴訟指揮はどうなっていたんだ?

 検察側は、これら展開に、何の問題性も感じなかったのか? 何の指摘もしなかったのだろうか?

 たとえば、
 「裁判長の公平性に重大な疑義がある」などと。

 この藤井裁判長は、
 社会正義に敏感な人だったんだろう、
と、私は思う。

 しかし、
 藤井裁判長、血盟団首領の井上日召被告の態度に共通しているのは、規範意識の希薄さだ。

 規範。
 辞書には、
 〔哲〕のっとるべき規則。判断・評価または行為などの拠るべき基準。
と書いてある。

 簡単にいえば、自分の立場がまったく分かっていなかった、
ってぇことだ。

 二人とも、裁判長、被告という、社会的立場、約束事を踏み外してるよね。泣いたり、感謝のお辞儀しちゃったりしてさ。
 まわりもほのぼのしたりして、もらい泣きしたり、
温かい目で見たりする人々がたくさんいたんだろう。

 寛大さ(leniency),柔軟性(flexibility)、混沌(chaos)…。

 べつに、俺は嫌いじゃないけどさ、
 なんなの、それってぇものは…?
 それでいいわけ?

 だいたい新聞記事にしてからが、何だ。
 暖かい目で見守ってるじゃないか。
 対象との距離がないんだよ。

 1934年(昭和9)11月22日に、東京地裁であった、この判決言い渡し法廷の全体像を、
 社会面の記事で再現してみよう=写真下

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(写真をクリック)


 一人一殺主義(いちにんいっさつしゅぎ)を唱え昭和維新を目ざした血盟団事件の歴史的判決の日、22日――
 藤井裁判長は荘重な口調で心血を注いだ判決理由書を朗々と読み上げる。

 満廷鉛の如くせきとして約2時間。11時20分いよいよ判決だ。
 「判決を言い渡す」の声に、被告たちの紋付き姿が傍聴者の眼前にズラリと立ち上がった。

 満廷は一瞬「耳」と化す。家族席の人々は思わず境の手すりにつかまり、ある者は耳に手をやる。
 「井上昭を…」
 裁判長の声は法廷に響く。
 次の言葉が生と死との分かれ目だ。

 満廷は、張りつめたダム(堰堤)のごとく緊張する。
 「無期に処す」
 裁判長の第一声に、法廷は思わずハーと大きなため息を吐く。

 被告一同も思わず頭をたれた。
 「日召が無期なら…」残る13被告の断罪は軽いにちがいないと思うまもなく、
 「小沼無期、菱沼無期、古内懲役15年…」

 寛大な言い渡しに、
 被告たちは感激に身を震わせてだんだん頭を低くたれてしまう。

 「卵を産み落とした鮎が流れに沿うて落ちて行く気持ち」だった日召も、死刑から無期に減刑されて「落鮎」も救い上げられたわけだ。

 「鎧舟院日正大鑑居士」と日召和尚から戒名をもらったといってさばさばしていた小沼も、
 もはや戒名が不要になったのを、別に「不平」らしくもなく、やはり嬉しいと見えて、傍聴席の梅吉、新吉兄弟にニッと笑顔をむけた。

 「天なお我を用いんと欲すれば生かし、不要とあれば即刻殺すも可なり」といっていた團男爵暗殺の菱沼も、
 素朴鈍重な顔に、
 「俺はまだいるのかなぁ」と考えているのか、高い天井をにらめている。

 「反古(ほご)紙や光明かがやく今日の日を」
の、大東、古内栄司は、一躍死期から15年に飛躍した喜びに、
いつも無表情の顔を傍聴席に幾度も幾度も下げながら地下へ…。

 最後の日召も、眼鏡が桃色の玉だったかと思われるばかりに眼をうるませて地下に姿を消した。

 大騒ぎなのは家庭席で、手放しで泣いている婦人たち。
わけもなくハンケチを振る女。

 しかし一番大きな興奮をジッと抑えているのは、
言い渡し後ずっと外を向き通していた藤井裁判長のようだった。

posted by Jiraux at 15:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

日召ら 死刑免れる   1人1殺 48

2006年08月18日

判決(罪名 殺人および殺人幇助)
無期懲役  井上 昭 (48)=日召
懲役15年 古内 栄司(33)
懲役15年 四元 義隆(26)
懲役 8年 池袋正八郎(29)
懲役 6年 久木田祐弘(24)
懲役 6年 須田 太郎(26)
懲役 6年 田中 邦雄(25)
懲役 6年 田倉 利之(26)
懲役 4年 星子  毅(26)
懲役 4年 森  憲二(23)
無期懲役  小沼  正(23)
無期懲役  菱沼 五郎(22)

懲役 4年 黒澤 大二(24)
懲役 3年 伊藤  廣(46)
(有期懲役の古内はじめ11被告に対し、刑法第21条により未決勾留500日をそれぞれ通算す)

血盟団 顔一覧 6.27用.jpg
(写真をクリック)


 井上準之助・元蔵相、三井合名理事長、團琢磨・男爵を暗殺した血盟団事件の大詰め、判決言い渡しが、
1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった。

 5.15事件の陸海軍被告、民間の従犯関係者の判決があった後だけに、14被告の量刑が注目されていて、
 午前8時の傍聴券の受け付けは、徹夜した人々90人に渡り、ほかの傍聴希望者は廷内に入ることは出来なかった。

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 満廷の傍聴人たちが、固唾(かたず)を飲んで待つうち、
午前9時15分に藤井裁判長が入廷。
 続いて、同35分、井上・元蔵相の暗殺者、小沼正を先頭に、14被告が続いて着席、
藤井裁判長は同36分、開廷を厳かに宣言した。

 歴史的公判だった。
 記事には、こう書いてある。

 裁判長は、
 起立する14被告に対して、とくに着席を許し、
苦心の判決理由書を約2時間かけてじゅんじゅんと読み聞かせ、
厳然とした態度で、判決主文を言い渡した。

 理由書の朗読は、まづ、井上日召の経歴思想から始まった。

 「被告人井上日召は医師たる父、好人の教育、感化と環境の影響を受け、早くより報国任侠の精神を養い、長ずるに及んで、漸次、自己の本体の何者なるやに関し、疑惑を抱き、師長に教えを乞いたるも、満足するものなく……」

 と、読み上げると、
 日召は居ずまいをただして律然として聞き入り、満廷、粛として、咳をする者もなかった。

 裁判長はさらに、日召が渡支中に宇宙、人生などについて深刻な疑雲に包まれて、大正9年(1920)、帰国してから、静岡県原町の松蔭寺(しょういんじ)の山本玄峰和尚について、日蓮宗の行者になり、あるいは、木島完之の指導を受け、最後に、

 人間は、差別相においては分離対立するものではあるが、無差別相においては、我は宇宙と一致し、大我の道は、大衆と苦楽をともにする道であり、同時にそれは菩薩の道である、

 と悟った経緯を朗々と読み上げれば、

 日召は、いかにも自己を知ってもらえたと喜ぶかのように、静かに頭を下げた。

 こうして、日召は、
 茨城県大洗海岸ドンドン山での修行と、反ロンドン条約、ならびに政党財閥、特権階級打倒思想の台頭、
 そして、
 たんなる口舌の徒の多い、ないし、扇動家の多いのを見て憤然とし、

 国家革新の実行的同志を糾合する計画を立て、
 いわゆる血盟団茨城青年組を集めた点から転じて、
古内、小沼、菱沼らの経歴、思想などについて詳論。

 四元、久木田らをはじめ、学生組被告らが、
 学生左傾に憤慨し、あるいは、陸軍の菅波三郎中尉の感化などにより、日召の思想に共鳴することになった事情を述べ、各被告の結合関係に及んだ。

 藤井裁判長は、膀胱結石がまだ直らない田倉利之の体を心配して、この時、朗読をしばらく止め、被告を休憩させるという思いやりを示した。

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 午前11時から、いよいよ事実関係の朗読に入り、

 日召が、海軍の故藤井斉少佐から5.15事件の三上卓中尉が送付したピストル8丁と、実弾を入手して、暗殺すべき人物を、犬養、床次、鈴木(以上、政友会)、若槻、井上、幣原(以上、民政党)、池田、團(以上、三井)、各務、木村(以上、三菱)、西園寺、牧野、伊東、徳川(家達公)=以上、特権階級、

 と定め、このほかに、安田、大倉、住友3財閥の代表者各1人をも目標にした点に入ると、

 傍聴者の中に、今更ながら嘆息を漏らす人々もいた。

 こうして、井上、團を小沼、菱沼の2人が暗殺した点から、伊藤が古内、菱沼らをかくまって、これらの殺人を助けた点を述べ、
11時15分から、約3分間、証拠論ならびに法の適用を述べ、

 同20分、それぞれ、検事の求刑より遙かに軽く、
1人の死刑なく、判決を言い渡した。

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向日葵と、小泉首相の靖国参拝   日々下田D

2006年08月15日

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  1万本の向日葵(ひまわり)が咲く畑に行ってきた=写真上。南伊豆町日野、竹麻小学校の前。車のラジオで知った。

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 匂いは、花畑のような上品さはなくって、野菜畑に似た実利的な感じ。10人ぐらいの観光客が、畑の中の小道に散らばっていた。

 やっぱ、ヴィデオで見たデ・シーカのイタリア映画「ひまわり」なんか思い浮かべて見て回ってるんだろうか。
 俺にも、そんなclicheがチラッとかすめて、甘悲しさがきそうになったから油断ならない。

 すべての花が太陽を向いている=写真下
別の方向を向いたのは一本もない。習性だそうだ。

向日葵 背.jpg
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 この一種、異様な景色に、
 「一本ぐらいあったっていいじゃないか…、太陽に背を向ける向日葵が」と思った。

 そのとたん、敗戦記念日の今日(8月15日)、早朝7時40分過ぎに、
各mediumの世論調査で70%の人々が表明する「参拝反対」に抗するようにして靖国神社に参拝した、

 小泉純一郎首相(64歳)の孤独が分かった気がした。
 
 他者と違うことを、とがめ、許さず、排除しようとさえする、日本人の国民性、庶民が下から形成するスターリニズム(ファシズムといってもいい)と闘ってるんだ。
 小泉首相の思いの中では。

坂田金時.jpg
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 小泉首相の目には、靖国を巡る日本人の論調が、
憲法が守る個人の自由を圧殺し画一化を迫るスターリニズム(ファシズム)に見えてるんだろう。
 日本人は、違ってる奴の足を引っ張るからなぁ。
 何かってぇと。

 中国や韓国政府の反対を引き受けるように、
大多数のマスコミが「靖国神社参拝反対」を唱える。

 政財界関係者たちの反対の声は大きく、日本人の半数以上が同様に反対する。

 この現象が、小泉首相の目には、日本人の大多数が、従順なヒツジみたいに付和雷同してついて行ってるように見えているに違いない。

 人事権を握る権力者の顔色を常に観察し、
先回りして意に沿うように動く。

 権力者の意向にちょっとでも違うことをしようとする奴がいると、
真っ先に見つけて摘発し、ゴマをする。

 戦時中の、「日本浪漫派」の特定の文学者たちの例を引くまでもなく、
日本のあらゆる官公庁、会社、グループに今でも濃くある動きだね。
 根っこにあるのは、自分の安全・安泰の確保への欲動だ。

 何しろ、日本人の庶民たちが、このようにして下から作り上げたファシズムは、

「完璧なファシズムだ。私はうらやましい!」
 と、第2次大戦時中、イタリアのファシズム”親方”、ムソリーニがうらやんだらしいからなぁ。

 小泉首相は、政界に長く生きて(33年8ヶ月)、
こうしたことを、他者の顔色を見ながらやる“小助”たちに、幾度も苦い思いをさせられて来たに違いない。
 それで、うんざりしてるんだ。
 この一匹狼は。

 こんどの場合、権力者は世論ということになるよなぁ。
 小泉さんは首相だけど、権力者じゃないよ。今回は。

 戦時中の旧日本軍が、アジア各国を侵略して、
人々を殺した。
 その数は計2000万人ともいわれることは、小泉さんはもちろん知っている。

 そして、己の靖国神社参拝が、日本軍兵士たちによって祖父母、両親兄弟や親類を殺されたアジアの人々の心の古傷を破って、新たな血を噴出させることも。

 また、己の靖国神社参拝が、
日本政府がこれまでに築き上げてきた、アジア各国への謝罪の実を、大きく損なうことも。

向日葵拡大.jpg
(写真をクリック)


 それなのに……、の靖国神社参拝だ。 

 チムグリサー。
 心が痛む風景だ。

 批判するのは簡単だよね。

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下田太鼓祭りに大阪夏の陣を聴く 日々下田C

2006年08月14日

太鼓台.jpg
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 大阪夏の陣(1615年5月7日)で豊臣家を滅ぼした徳川軍が、大阪城に入場する時に打ち鳴らした陣太鼓を真似て今に伝えるという、
下田太鼓祭りが13日始まったので、行ってみた。

三味.jpg
(写真をクリック)


 「さて、よいよいよいよい」
 なんてえ、合いの手を入れて、大太鼓・小太鼓が鳴り始め、笛、三味線、鐘の伴奏が入る。
 曲は、高めていくんじゃなくて、なだらかに収まって行こうという、ゆったりした感じで、
 「ほう、こんな音が400年前に大阪城に響いたのか…」
と思った。
 テンポは、だいたい歩行速度だな。

 曲は1番から4番まであって、名がついている。
 1番 岡崎(三河の)
 2番 さん切り
 3番 若竹
 4番 たかどろ 

 大太鼓・小太鼓を載せた「太鼓台」を太鼓の打ち手、笛、三味線、鐘の伴奏の人々が演奏しながら引き回す。20〜30人。
 いずれも肉襦袢に紺の股引、ねじり鉢巻だ。
 太鼓台は全部で15台ある。この15台が、列を成して演奏しながら市内を巡る。

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 外国人女性2人が三味線で加わっていた。
 米国ミズーリ州出身の鈴木リサさん(写真上右)とオーストラリアの人。8回目の参加で、南伊豆町在住、フリースクール校長のリサさんは、
 「下田の人々は、おおらかで、心が広い。この三味線、近くの住職さんがプレゼントしてくれたの」といって、
 三味線を持たせてくれた。ずっしりと持ち重りのする高価そうなものだった。

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 神輿も出ている、約100人が交代で担いで回っている。
 これは、祭神スサノオを担ぎまわって、町内の人々から悪疫を払うという意味をもっていて、意味は日本国中のどの祭りとも一緒。

 片側15人で計30人。(ま、12人なんてこともあるが)
 顔をじっと見てみると、汗はかいているが、必死さはない。
むしろ笑みさえ浮かべている。
例えば、1dの山車を担いで疾走する、福岡の博多祇園山笠のような緊張感は……、nothing。

 こっちへ手を上げる担ぎ手がいたので、よくみると、
高校時代の先輩だ。
ふだん路ですれ違ってもはかばかしい会釈は交わさないんだが、
 今日は、あっちから。

 ははぁ、見せてるんだね、あんた。ふだんは隠してる鉄火を。

 良くみると、観客の中に知り合いを見つけて手を挙げる担ぎ手は、他にもいる。
 
 観客たちより、担ぎ手のほうが先に知り合いを見つける場面がやたらあるのだった。
 
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(写真をクリック)


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土肥海水浴場に行った   日々下田 B

2006年08月10日

 西伊豆の土肥(とい)海水浴場に着いて、
 ああ、ここは吉本隆明さん(81)が溺れたところだったなぁ、と気づいた。

 近くの民宿の従業員さんに聴くと、10年前のことなのに、吉本さんのことはよく覚えていて、 
「あの突堤先端の右側でした」と教えられた=写真下

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中央の突堤の先端あたりが、溺れかかった場所。
(写真をクリック)


 近づいて見ると、突堤先端あたりは、大人のへそあたりまでの深さ。波打ち際からの距離は10bぐらいだ。
 この時は引き潮だった。上げ潮だともっと深く、距離も長いはずだが、
 「え? こんな浅場で溺れたの?」という印象だ。

 吉本さんはこの時のことを書いている。

 記憶によると、

 沖へ向けて泳いだ後、引き返そうとしたら急に足が冷たくなって動かなくなった。ずるずると沈んで溺れるさなかに、近くに浮き輪で泳ぐ子供がいて、手を伸ばせば届いたと思うが、そのままずるずると溺れた、というような話だった。

 コメントはしないでおこう。

 家に帰って調べてみると、吉本さんが溺れたのは1996年8月3日(土)で、
 71歳の時だった。

 吉本さんの本にはだいぶお世話になっていて、印象に残る言葉はいろいろある。

 これなんか、よく知られている。

 結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ。
 (「自己とはなにか」=『敗北の構造』弓立社)

 台風7号一過の土肥海水浴場は、午前9時半で、そうだな7割の混み具合。家族連れが多く、ゆったりと海を楽しむ雰囲気だった。

 伊豆東海岸の白浜海水浴場(下田市)なんかとずいぶん違う。
 東海岸は、若者が多くて、水着やファッションは、新宿や渋谷が引っ越して来たみたいだからな。

 午前10時半過ぎに、下田市へ引っ返したんだが、霧がかかって視界は100bぐらいになっちゃった。1時間前は、快晴だったのに。
 海水に、暖かい空気が冷やされたためだ。冷たい海水が流れ込んだのかも知れない。東海岸側には霧はなく、ずっと快晴だった。

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「恋人岬」。夕日がきれいだ、という。
(写真をクリック)


 霧が出る前。
 途中に「恋人岬」という場所があったので、寄ってみたら、恋人たちばかり。木漏れ日の道を、手を繋いで歩いてくる。
 20組以上すれ違ったな。
 恋人岬に恋人たち。何の不思議もなけれども…。
 含羞はどうした。含羞は。

 筒井康隆「銀齢の果て」(新潮社、¥1500)。

 インターネットで調べると、「銀嶺の果て」という、ギャングの映画があった。三船敏郎のデビュー作で1947年の東宝作品。監督・脚本、谷口千吉、脚本、黒澤明。
 題名、洒落たんだね。ちょっと面白い。受け狙ったね。

 老人たちを減らすため、70歳以上が、政府の指示で殺し合いをさせられるというエンターテインメントで、殺し方やなんか着想が良くて面白いんですが、えぐって来ない。

 例えば、私に心があって、それが深層から表層へ10層積み重なっているとした場合、
 この作品は、一番上の第10層を、かするだけで、抉らないんです。傷をつけない。

 これが例えば、ゴールディング「蠅の王」なら、第7層ぐらいまで抉るんですが…。私の内側のnegativeが感応して。

 筒井さんのいつものパターンじゃないかな。
 筒井さんの代表作って、何でしたっけ?

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人間 心の空洞の恥辱 辺見庸再び  日々下田A

2006年08月09日

 台風7号が接近して雨だったので8日午後、
南伊豆町下賀茂の「銀の湯温泉」会館へ行った。

 熱帯で見るような粒の大きい雨が、大風にあおられて降っていた。屋根のない露天風呂の湯面(ゆも 水面じゃないよね)にも、降り注いでいた。
で、そこに入った。

 雨滴は、湯面にぶつかって2、3a跳ね上がる。その水柱が、露天風呂の向こう岸まで、無数に続く。絶え間なく。
 両目のすぐ下まで顔を沈めて、水柱を観察した。壮観だった。ギリシャのパルテノン神殿とおんなじくらいに。

 露天風呂の周りの植え込みが、大風に煽られ揺れ続けて、葉裏を見せている。鬱蒼としてあたりに暗がりをつくる植木の幹が、雨にぬれて黒い。庭灯の黄色い明かりを反射している。

 乙だった。
 風呂にカメラを持ち込むの忘れちゃったもんだから、後悔した。今度行った時に撮って、公開しよう。

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(写真をクリック)


 芥川賞作家で、元共同通信記者の辺見 庸(へんみ・よう 61歳 )=写真上=の話を、またさせてもらう。最新刊の「いまここに在ることの 恥」(毎日新聞社、¥1200)で、刺激的なことをほかにも書いているから。

 
 それは何かってぇと、

 1942年中国山西省の陸軍病院でいつも通りに実行された生体手術演習の光景だ(エッセイ「口中の闇あるいは罪と恥辱について」)。

 日本人医師たちが、男性「患者」に手術をしようとした。
 「患者」は2人で投降者や敵への内通者とされた。
 そのうち、八路軍ふうのがっちりした体躯の男は覚悟を決めたのか、悠然と手術台に乗ったが、

 農民風の男は、恐怖のあまり後じさりを始めた。
 看護婦たちが準備する手術刀、鉗子、メス、ハサミなどの冷たい金属音が部屋に響く。軍医部長、病院長らは和やかに談笑し、いつも通り、医師がルーティンワークをこなす時の、沈着、平静、恬然とした空気が解剖室を支配していた。

 ややあって、この農民風の男が、後に証言者になる新米軍医の目の前までずるずると後じさってくる。新米軍医は、そこで何をしたか?
 その場にいれば誰でもやったであろうことをした。つまり両の手で農民風の中国人の背を手術台の方に押しやった。

 すると、日本人看護婦が進み出て、この中国人に向かって、中国語で、
 「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」
と、優しくささやきかけた。中国人はうなずき、手術台に乗って仰向いた。
 看護婦は、医師を振り返って、
 どうです、うまいものでしょう?
 と言わんばかりに笑いかけ、ぺろりと舌を出してみせた。

 医師らは、中国人に腰椎麻酔などを施してから、虫垂切除、腸管縫合、四肢切断、器官切開などを事前の計画通り次から次へと行った。

 虫垂炎でも大腸がんでもない健常な中国人にだ。この中国人は、生きたままバラバラにされ、ついに絶命し、
 衛生兵らにより、ほかにもこうして殺された中国人が埋まっている穴に放り込まれた。

 で、この元新米軍医が、約半世紀後の1993年に開かれた「戦友会」で、偶然、舌ペロリの元看護婦に再会した。彼女は70歳を超えていた筈だった。

 元軍医によると、彼女は、生体解剖というよくないことがあったくらいは漠然と覚えてはいたが、具体的な光景は、おそらく、舌ペロリも含めて忘れていたのだという。
 (吉開那津子「消せない記憶」=日中出版=、および湯浅謙氏の講演録)

 辺見は、

 ペロリと舌を出して見せた若い看護婦の口の、舌の付け根のあたりの暗がりに、秘めやかで果てしのない罪と恥ずかしさ、そして、人倫の謎を感じる。

 生体手術対象者(中国人)を取り囲む群れのどこかに私はほんとうにいなかったのだろうか。このしごく正気の殺戮シーンを、私もいならぶ軍医たちの肩越しに目撃していたのではないだろうか。恐怖で後じさってくる男と私の距離はどのくらいあったか。赤い舌をペロリと出して見せた看護婦に私はどんな笑みを返したのか。後じさってくる被験者の震える背を、私もまた両手で押し戻したのではないか。この構図の中で、もっとも深い罪は果たして那辺にひそむのか……。

 「もっとも深い罪」と「恥ずかしさ」について考えるとき、私はなぜか順当な答えをあなぐることが出来ずにいる。

 中国人への生体解剖を指示した者、システム、直接手を下した者ら、黙認したものたち……それらは言うまでもなく、自明的罪を負うのでなければならない。

 そうと知りつつ私は、あのときペロリと舌を出し、そしてその挙措をたんなる「些事」として(嘘かまことか)失念したという元看護婦に、罪ならぬ罪の底なしの深さとほとんど堪えがたい恥ずかしさ(憎しみかもしれない)を感じて、

 明白な殺戮者があまたいるというのに彼女にはなぜべっしてそう感じるのかをうまく説明できずに、ひとしきり苦しむのである。

 舌ペロリの彼女とは、私たちの「母」の一人であり、あの解剖室の外延にある「いま」の心性だからかも知れない。
 (ここまでは辺見氏のエッセイから引用

 看護婦は、職務に忠実で俊敏な働き手だったのだろう。

喫茶店.jpg
(写真をクリック)


 それで、手術室の仕事の流れを、後じさる中国人へのその中国語の一言で推し進めた。
 生体解剖という殺人に一枚加わり、自分も手を貸すことになるという罪に、はっきり気づかぬまま。

 無意識の罪だね。

 じゃ、舌ペロリは何なんだ?
 自分が中国語で話しかけた一言に中国人がうなづきベッドに乗るまでの2、3秒の間に、その一言の罪がくっきり像を結んで、つまり理解して、恥じたのか。

 罪の可能性をはっきり感知できぬまま、回転し続ける職場の論理に動かされて、なりゆきで犯してしまう。

 そして、後で自分が犯した罪に気づき、七転八倒、苦しむ。旧雪印や三菱自動車など、いまでも例は多いね。

 人間てぇのは、心にそういう空洞を抱えこんだ存在なんだ。
 無意識の領域で、知らぬうちに罪を犯してしまうことがあるのが人間というものなんだ、
 ということ、をよく教えてくれるエッセイだった。

 美しい文章だ、と思った。

posted by Jiraux at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

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