暗殺へ、急転換 一人一殺 53 | 2006年09月16日 |
「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)は、
初めから暗殺をやろうとしたわけではなかった。
「わが国家は、すでに単なる論説によっては救われない。実践あるのみだ」
と思ってはいたが、最初考えた方法は、穏健だった。
まず宗教的に育成された4人の同志をつくる。
この4人と一緒に農村に入って住み着き、農作業の手伝いをしながら、日本精神を農民たちに説き、日本精神に目覚めてもらう。
そして国家革新が必要であることを説いて賛同してもらう。
1ヶ月に、1人がこうした同志1人をつくる。
この方法でネズミ算式に倍加運動をやっていけば、3年後には巨万の同志を獲得できる。
やがてこれらの同志を集めて上京し、政府や議会などに対して革新の実行を迫る。
というものだった。
同志の採用基準は厳しかった。
@社会運動に係わったことがない真面目な人物
A宗教的信仰をもつ者、あるいは、宗教的鍛錬を経験した者、または、革新運動について宗教的な熱意を持つ者
B以上のような条件を持たなくても、人間として素質が純真な人
C革新運動に身命を惜しまない確固たる信念をもつ人
D人々から喝采されて褒められるのを喜ぶような弁論の人でないこと
E自活できる人
Fほかの思想団体や政治団体と関係をもっていない人
G兄弟が少なく、一家の責任が軽いか、または、それを超越した者
これらの条件にかなっていれば、
その人の抱く考えの中味は問題にせずに採用することにし、
昭和3年(1928)暮れごろから昭和5年(1930)9月ごろまでの間に、「血盟団」裁判の被告人になった、
古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二や、
被告人にはならなかった照沼操、堀川秀雄、黒澤金吉、川崎長光らを同志に得て、
いわゆる「茨城組」を作り上げた。
日召は、昭和4年(1929)12月ごろ、
国家革新の志を抱いて海軍部内で熱心に運動していた、霞ヶ浦海軍飛行学校の学生、藤井斉・海軍中尉と知り合い、肝胆相照らす同志になった。
そして、昭和5年(1930)初めごろから9月ごろまでの間に、藤井斉に啓蒙された、海軍少尉の古賀清志、海軍少尉候補生伊東亀城、同大庭春雄、同村山格之ら、海軍側同志を得た。
この間、日召は、藤井斉から数回にわたり、
「ロンドン海軍条約締結の結果、対外関係の危機が迫り、1936年ごろ、我が国は未曾有の難局に遭う。挙国一致でこの難局に立ち向かうため国家革新が急務だ」
と力説された。
日召は、社会情勢を足で調べる必要を感じて、昭和5年(1930)8月ごろ、群馬、栃木、東京などを回って人々の生活ぶりを見て回り、識者の意見を聞いた。
この結果、国家の危機が急迫し、民衆の生活は苦悩に満ち、深刻で、革新を願う声が全国に満ちている。すでに論議している暇はなく、すぐに革新を断行すべきであると判断した。
つまり、それまでの倍加運動では時間がかかり過ぎてこの情勢に対応できないばかりか、
たとえ倍加運動が実現しても、大衆運動の結果として大衆と官憲との衝突が起き、大きな流血の事態になる危険性が高いだろうと考えた。
大規模な流血が引き起こす社会の混乱は、日召の革命精神に反する。
だから、時間がかかり危険な倍加運動は放棄し、代わりに、現状打破のため、同志たちとともに非合法手段に訴え、革命の捨て石になろうと決意した。
日召は、
現状打破の具体的方法、決行時期の決定、同志間の連絡、国家革新運動についての情報収集を、海軍同志の代表、藤井斉から任された。
そこで、昭和5年(1930)10月ごろ、茨城・大洗海岸の立正護国堂を去って上京した。
その後のことは、これまで、この「一人一殺」で書いてきた通りだ。
1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた日召に対する判決理由書には、
農本主義者で「愛郷塾」長だった橘孝三郎(1893―1974)=写真上=のことも出ている。
橘は、農業を通じて共同体的な理想社会を実現しようとして、1915年に一高を中退、郷里の茨城で農業生活に入った。1920年、農業機械を導入した近代農業をめざし兄弟村を建設したが病気になり4年近く闘病生活を送った。
1929年、「愛郷者」の強固な団結と荒廃した農村での新生活の創造を求め、一種の協同組合「愛郷会」を結成し運営した。農民教育へも活動を広げ、自営的農村勤労学校「愛郷塾」を運営していた。主著は「農村学前篇」(1930年発行)。戦後は右翼の大物の一人とされた。
日召は、橘孝三郎と市内某所で会見し、橘の人格識見に深く傾倒した。
そして昭和維新成就の後の新制度建設に有用欠くべからざる人物と判断、橘に、
「破壊の完成後の建設を担当してほしい」と要請し、
非合法破壊運動に引き込む対象人物から外すことを、心ひそかに決めた、という。
橘孝三郎は、評論家立花隆の遠い親類だという。
立花が、著書「天皇と東大 上」の743nに書いている。
「橘孝三郎は私の父の従兄という親戚筋にあたり、私も子供のときに会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかない」
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