超国家主義を発火させた日召   一人一殺 51

2006年09月05日

 1945年(昭和20)8月15日の敗戦で終焉するまで13年余の間に、2000万人のアジア人を殺戮した日本の超国家主義(軍国主義)を発火させた、
 「血盟団」頭領の井上日召(1886―1967)=写真下=は、

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 「キキョウやオミナエシはなぜあんな色をしているのか?」
 「川面の泡沫はなぜ生滅するのか?」
 と疑問を抱く懐疑的な少年で、

 「大人だって先生だって知りもせんくせに知ってるような顔をしているんだ。大人は、ウソは泥棒の始まりだ、などといいながら、自分ではウソをいったり悪いことをするじゃないか」と心ひそかに憤慨する少年でもあった。

 「血盟団」は、
 そういう懐疑心に突き上げられて中国や茨城、静岡の禅寺などで苦悩し続けた日召が、
 長い苦闘の後、やっとのことで抜け出た境地の末に、行き着いた結論でした。

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁で読み上げられた判決理由書や、日召が書いたエッセイ「梅の実」の中に、
 日召のその、心の苦闘の軌跡が描かれています。

 それらによると、
 群馬県利根郡川場村の医師、井上好人の四男に生まれた日召は、父や郷土の気風の影響で報国任侠の精神を身につけた。
 前橋中学から東洋協会専門学校(現拓殖大)に入学した。

 懐疑解決への道を、教師や先輩に求めたが、満足できるものはなく、やがて、
 「現在の教育道徳などは、すべて支配階級が無自覚な一般民衆を制して、搾取するための欺瞞的な手段にすぎない」
 と、自暴自棄になって、明治43年(1910)8月、同専門学校を2年で中退し、

 死を決意して満州に渡り、満鉄社員になりました。
 そのかたわら、陸軍参謀本部の諜報の仕事に従事しました。この頃、たまたま南満州公主嶺で曹洞宗布教師東祖心に会って教えを受け、一筋の光明を得た気がしたが、すぐ別離。

 再び懐疑の人になりました。

 大正2年(1913)、北京に行き、中国軍閥の大総統、袁世凱の軍事顧問、陸軍砲兵大佐坂西利八郎の下で諜報活動をし、第一次大戦の日独戦争では天津駐在軍付き軍事探偵として働き、功績をあげて勲八等を得ました。

 大正7年(1918)暮れごろから、天津などで貿易商をし、諜報活動もしていましたが、

 宇宙、人生などについて深刻な疑問がまたわき上がり、これを解決する安心の境地を求めて、大正9年(1920)暮れに帰国しました。
 「社会主義者の増加、支配階級の横暴無自覚はすこぶる憂慮すべきものがある。このまま放置すべきではない…」
 が、帰国した時の、日本への感想でした。

 日召は心の平安を求めて、
 大正11年(1922)春ごろ、郷里・川場村の「三徳庵」にひとりで座禅し、日夜、法華経の題目「南無妙法蓮華教」を唱えて修養に専念しました。

 訪れる人もなく、本堂に朝から晩まで座り込んで、公案を繰り返し考えました。
 米がなくなると、近くの川に生える水草、川松を採って食い、フキ、オンバコも食った。松葉、落葉松、雑木の葉…、
 毒にならぬものは何でも片端から口に入れ、水ばかり飲んで座禅修行を続けたが、
 なんの進歩も変化もなくついに心身共に疲れ切った。

 ある日、「南無妙法蓮華教」を唱えて死のうと決心し、夜となく昼となく唱え続けて疲れ果てて倒れ、起きては又唱えるということを繰り返しました。

 数十日経つと、心身に異状が出始めた。
 「ああ、自分は発狂するのだな。よし狂え。狂ったら狂い死のう。それが俺の運命だ」
 そんな捨て鉢な気持ちになって、題目を唱え続けた。

 そのうちに、何となく平和な、
 非社会的で孤立的だが、安易で明るい世界が開けて来た。

 それまで話に聞いていた、ディオゲネスや聖フランシスや、乞食桃木や、良寛やらの気持ちがはっきりと分かるような気持ちがし、
 同時に腹の底からそれらの聖者の仲間入りができるような気がしてうれしさがこみ上げてきた。
 親も家もうち捨てられるような…、
 浮世への執着のような感じが引いていった。

 初夏が訪れました。
 ある朝、いつもの通り武尊(ほたか)山頂に向かって合掌し、
 「南無妙法蓮華教」を口ずさみつつ太陽が山頂に昇るのを拝んでいた。
 いつもよりはるかに大きな日輪が山頂に赤々と登り切ったその瞬間、

 一種不可思議な気持ちになって、突然、
 「ニッショウ!」と叫んだ。

 血の出るような、底力のある声だった。

 嬉しい嬉しい。
 何がなんだか意思をまったく超越した嬉しさだ。

 全身霊光に浴したように、
 四方八方見る物のことごとくが光を放っていた。

 筆にも口にも言い表せぬ喜びで、
 踊ったり跳ねたり、果ては大地を転がり歩いた。

 心が静まってから、静かに考え直してみたが誤りはない。
 過去の苦はぬぐったようにまったく晴れ、
すべてが快刀乱麻を断つように、
流れに従って舟を操るようにスムースだった。

 日召が、悟った瞬間でした。

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 13年余り続いた日本の超国家主義(軍国主義)のため殺戮されたアジア各国の2000万人のうち日本人は310万人とされています。
 統計によると、第二次世界大戦の全犠牲者数は4000〜5000万人。全世界の犠牲者の半数近くが日本の超国家主義者が起こした侵略戦争で殺されました(三省堂「戦後歴史大事典」1991年)。

 日本帝国陸海軍による中国侵略は、
 日本国内の腐敗した政治の改革を性急に求める、佐官級の若手軍人たちの暴走で、
 1931(昭和6)年9月18日に満州事変が発生、1932(昭和7)年1月28日に第一次上海事変が起き、
 すでに拡大し始めていましたが、

 当時7000万人の日本人の多くにとっては、遙かかなたの海外で起きた局地戦でよそ事みたいなものだったらしい。

 ところが、1932(昭和7)年2、3月に、前蔵相の井上準之助、三井合名理事長の團琢磨が暗殺され、

 やがて、

 「血盟団」の14人が暗殺団をひそかに作って、
これに陸海軍軍人たちも参加し、一人一殺で政財界の大物たちを根こそぎしようとしていた。
 軍人メンバーたちは、血盟団事件の捜査が進む最中の同年5月15日に、犬養毅首相を首相官邸で暗殺し、後に「5.15事件」と呼ばれる大事件を起こした、

 という、

 一連の事件の流れや背景が分かり、新聞でひんぱんに報道されると、多くの人々の心は暗殺事件に引き込まれて行ったようです。
 こうして、国民の強い関心が集まる中、
 東京地裁や陸海軍の軍事法廷で開かれた裁判では、

 日召ら被告たちが、
 天皇が与える勲章叙勲を、内閣賞勲局長が賄賂をもらって決めていた「売勲事件」など政府の腐敗や、
 政財界の癒着と腐敗ぶりを鋭く指摘し、

 腐敗の犠牲ともいえる地方の農民たちの窮乏への深い思いが血盟団の暗殺行為への動機になったことが、法廷証言を通じて新聞で報道されました。

 すると、
 被告たちへの国民の共感はいっきょに、熱く深くうねるようにして広がった。
 つまり、政財界改革運動への熱いサポーターが全国的に多数出現し、
日本の右傾化が始まったのです。

 例えば、被告たちの減刑を願う嘆願書が、全国から裁判所に郵送されてきましたが、その数は、
 血盟団事件が30万人余、5.15事件が100万人余になりました。
 前代未聞の出来事です。

 国民に広がったこの熱い共感は裁判長にも影響を与えたらしく、
 血盟団・5.15事件被告たちへの判決では、死刑判決が1人もない寛大なことになった。

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 この寛大さと国民の熱い支持、すなわち右傾化が、
 やがて、
 陸軍歩兵連隊や近衛連隊の兵士1483人が動かされて、
高橋是清・蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・陸軍教育総監を暗殺、警官6人も犠牲にした2.26事件(1936年2月26日)を誘発したといわれています。

 2.26事件以後は、
 国民の批判は、武力に萎縮して力を失い、軍人たちはやりたい放題。
 超国家主義が圧倒する時代になりました。
 1936(昭和9)年から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで9年間のことです。

posted by Jiraux at 23:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | news 日々憤怒
この記事へのコメント
血盟団事件もそうだが、なぜか戦前は日蓮主義が大きな原動力となっている。宮沢賢治も国柱会という日蓮団体に入っており、幻想的な文学とは別に、国体の改革を望んでいたようだ。やれ右だ左だといまだに思想の区分けがされるが、元々は玄洋社や板垣自民党のように今で言う右も左も渾然一体化したところから近代日本は始まっている。肝心なことは行動するのか机上の論理で終わるかの違いだろう。現在の歪んだアメリカ賛美国粋主義は所詮伊藤博文の犯した鹿鳴館外交となんら変わりないのではないだろうか。
アメリカに土下座をして国の本義が保てるのだろうか。
現在の日米同盟は、所詮明治の日英同盟の焼き直しでしかない。
方便の道具でしかないのだ。
Posted by dadada at 2007年05月23日 23:33
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