人間 心の空洞の恥辱 辺見庸再び  日々下田A

2006年08月09日

 台風7号が接近して雨だったので8日午後、
南伊豆町下賀茂の「銀の湯温泉」会館へ行った。

 熱帯で見るような粒の大きい雨が、大風にあおられて降っていた。屋根のない露天風呂の湯面(ゆも 水面じゃないよね)にも、降り注いでいた。
で、そこに入った。

 雨滴は、湯面にぶつかって2、3a跳ね上がる。その水柱が、露天風呂の向こう岸まで、無数に続く。絶え間なく。
 両目のすぐ下まで顔を沈めて、水柱を観察した。壮観だった。ギリシャのパルテノン神殿とおんなじくらいに。

 露天風呂の周りの植え込みが、大風に煽られ揺れ続けて、葉裏を見せている。鬱蒼としてあたりに暗がりをつくる植木の幹が、雨にぬれて黒い。庭灯の黄色い明かりを反射している。

 乙だった。
 風呂にカメラを持ち込むの忘れちゃったもんだから、後悔した。今度行った時に撮って、公開しよう。

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(写真をクリック)


 芥川賞作家で、元共同通信記者の辺見 庸(へんみ・よう 61歳 )=写真上=の話を、またさせてもらう。最新刊の「いまここに在ることの 恥」(毎日新聞社、¥1200)で、刺激的なことをほかにも書いているから。

 
 それは何かってぇと、

 1942年中国山西省の陸軍病院でいつも通りに実行された生体手術演習の光景だ(エッセイ「口中の闇あるいは罪と恥辱について」)。

 日本人医師たちが、男性「患者」に手術をしようとした。
 「患者」は2人で投降者や敵への内通者とされた。
 そのうち、八路軍ふうのがっちりした体躯の男は覚悟を決めたのか、悠然と手術台に乗ったが、

 農民風の男は、恐怖のあまり後じさりを始めた。
 看護婦たちが準備する手術刀、鉗子、メス、ハサミなどの冷たい金属音が部屋に響く。軍医部長、病院長らは和やかに談笑し、いつも通り、医師がルーティンワークをこなす時の、沈着、平静、恬然とした空気が解剖室を支配していた。

 ややあって、この農民風の男が、後に証言者になる新米軍医の目の前までずるずると後じさってくる。新米軍医は、そこで何をしたか?
 その場にいれば誰でもやったであろうことをした。つまり両の手で農民風の中国人の背を手術台の方に押しやった。

 すると、日本人看護婦が進み出て、この中国人に向かって、中国語で、
 「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」
と、優しくささやきかけた。中国人はうなずき、手術台に乗って仰向いた。
 看護婦は、医師を振り返って、
 どうです、うまいものでしょう?
 と言わんばかりに笑いかけ、ぺろりと舌を出してみせた。

 医師らは、中国人に腰椎麻酔などを施してから、虫垂切除、腸管縫合、四肢切断、器官切開などを事前の計画通り次から次へと行った。

 虫垂炎でも大腸がんでもない健常な中国人にだ。この中国人は、生きたままバラバラにされ、ついに絶命し、
 衛生兵らにより、ほかにもこうして殺された中国人が埋まっている穴に放り込まれた。

 で、この元新米軍医が、約半世紀後の1993年に開かれた「戦友会」で、偶然、舌ペロリの元看護婦に再会した。彼女は70歳を超えていた筈だった。

 元軍医によると、彼女は、生体解剖というよくないことがあったくらいは漠然と覚えてはいたが、具体的な光景は、おそらく、舌ペロリも含めて忘れていたのだという。
 (吉開那津子「消せない記憶」=日中出版=、および湯浅謙氏の講演録)

 辺見は、

 ペロリと舌を出して見せた若い看護婦の口の、舌の付け根のあたりの暗がりに、秘めやかで果てしのない罪と恥ずかしさ、そして、人倫の謎を感じる。

 生体手術対象者(中国人)を取り囲む群れのどこかに私はほんとうにいなかったのだろうか。このしごく正気の殺戮シーンを、私もいならぶ軍医たちの肩越しに目撃していたのではないだろうか。恐怖で後じさってくる男と私の距離はどのくらいあったか。赤い舌をペロリと出して見せた看護婦に私はどんな笑みを返したのか。後じさってくる被験者の震える背を、私もまた両手で押し戻したのではないか。この構図の中で、もっとも深い罪は果たして那辺にひそむのか……。

 「もっとも深い罪」と「恥ずかしさ」について考えるとき、私はなぜか順当な答えをあなぐることが出来ずにいる。

 中国人への生体解剖を指示した者、システム、直接手を下した者ら、黙認したものたち……それらは言うまでもなく、自明的罪を負うのでなければならない。

 そうと知りつつ私は、あのときペロリと舌を出し、そしてその挙措をたんなる「些事」として(嘘かまことか)失念したという元看護婦に、罪ならぬ罪の底なしの深さとほとんど堪えがたい恥ずかしさ(憎しみかもしれない)を感じて、

 明白な殺戮者があまたいるというのに彼女にはなぜべっしてそう感じるのかをうまく説明できずに、ひとしきり苦しむのである。

 舌ペロリの彼女とは、私たちの「母」の一人であり、あの解剖室の外延にある「いま」の心性だからかも知れない。
 (ここまでは辺見氏のエッセイから引用

 看護婦は、職務に忠実で俊敏な働き手だったのだろう。

喫茶店.jpg
(写真をクリック)


 それで、手術室の仕事の流れを、後じさる中国人へのその中国語の一言で推し進めた。
 生体解剖という殺人に一枚加わり、自分も手を貸すことになるという罪に、はっきり気づかぬまま。

 無意識の罪だね。

 じゃ、舌ペロリは何なんだ?
 自分が中国語で話しかけた一言に中国人がうなづきベッドに乗るまでの2、3秒の間に、その一言の罪がくっきり像を結んで、つまり理解して、恥じたのか。

 罪の可能性をはっきり感知できぬまま、回転し続ける職場の論理に動かされて、なりゆきで犯してしまう。

 そして、後で自分が犯した罪に気づき、七転八倒、苦しむ。旧雪印や三菱自動車など、いまでも例は多いね。

 人間てぇのは、心にそういう空洞を抱えこんだ存在なんだ。
 無意識の領域で、知らぬうちに罪を犯してしまうことがあるのが人間というものなんだ、
 ということ、をよく教えてくれるエッセイだった。

 美しい文章だ、と思った。

posted by Jiraux at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒
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