血盟団首領、被告井上日召のための特別弁護は、
1934年(昭和9)9月18日にも東京地裁であり、
「大日本皇政会」と「神宮奉斎会」の会長だった、今泉定助(71歳)という人が弁論をした、という記事が出ている。
白い長髭、紋付きの羽織を着て弁護士席に立つ翁は、
「昭和6年春から日召と交流があった」といい、厳父という印象だったそうで、
皇道、すなわち、天皇の行う治政の道について、
「3000年の国史」から論じ、
「宇宙萬有生成化育の原理より、わが国家がその宇宙の真理を発顕したものである」と断じ、国体の本質を述べた。
20分間の休憩の後、
「いつの世でも、地主、小作人、金持ち、労働者はある。しかし皇道国家には階級闘争はなかった。
それが今日のごとき習慣をつくったのは、人倫の根本である親心をもって心としない上部に立つ者の責任であって、このままであれば、いくら民心作興とか、教化総動員とか、自力更生とか唱えても、なんの役にも立たぬ」
と指摘して、
利己、享楽、黄金主義の唯物教育を排し、現今教育制度に論及し、
さらに法律問題に触れ、転じて、
日召ら14被告の行為について、
「いずれも一点の私心なし」として、
「一殺が目的ではなく、萬生がその念願である」と述べ、
「菱沼五郎が、團男爵をやる前に、明治神宮に参拝し、わが目的もしも不善ならば、これを遂げさせぬように、と祈願し、小沼が、井上準之助を暗殺して後、
私怨なくただ、その冥福を祈っていると承っているが……」
と涙をぬぐった。
最後に、今泉翁は、
「社会国家の反省を促し、井上準之助、團琢磨氏らを犬死にさせるな」と叫び、
「殺人罪が不当である」と説き、
「法一点張りの形式に陥らずに、その精神を汲み、神の境地から裁け」
と、二時間半にわたる弁論を終えた。
神道信奉者らしい今泉翁の発言には、
違和感を書いておかなければいけない。
「3000年の国史」とはどういう意味なのだろう。
この年、1934年から3000年さかのぼると、
それは、紀元前1066年だ。
そのころ、日本もしくは大和(古名)という国が、この日本列島にあったというのか?
その頃、日本に文字はなく、記述された歴史もなかった。
したがって、日本がどういう状態にあったのか、知る手懸かりはない。
日本が、文字の歴史に登場するのは、
福岡市のあたりにあった「奴国」に、中国の皇帝が贈った、金印(漢倭奴国王印)の話(紀元57年頃)ではなかったか?
そうだ、中国の史書に、
「倭人は、全身に入れ墨をしていて、魚を捕るのが上手で、魚をよく食う」なんて書かれたのもありましたな。
これも、ほとんど、同時期の記述だったはずだ。
研究によると、紀元5世紀ぐらいまでは、
日本は、列島の四方から流入した原住民が住んで、多数の部族が割拠する植民地のようなものだったんだろう。
中国側の認識だと、倭の国は植民地で、朝鮮半島に派遣した地方官吏を通じて植民地支配をしていることになっていた。
そして、江上波夫の「騎馬民族説」などによれば、
これらの原住民たちは、朝鮮半島から渡来した騎馬民族の武力によって支配された。その王が、今の皇室の先祖である、
ということになっているのではないか。
つまり、これらの説によると、
天皇の祖先は、朝鮮出身だったのだ。
血盟団事件の14被告の東京地裁での公判は、
1934年(昭和9)10月18日に結審した。公判の回数は、1933年(昭和8)年6月の第1回公判以来、これで91回目。
結審の法廷には、林弁護士から、さまざまな団体からの数千の上申書や決議、また、日召の長女、涼子さんへ、一
女性からの金一封が提出された。
林弁護士は、最後の弁論で、
「血盟団と社会情勢との必然的関係を力説し、法律問題に論及。共同正犯説に反論し、殺人罪援用が不当であると批判し、佐郷屋事件(浜口首相襲撃事件)の判例を引いて、行刑に判例なし」
と、訴えた。
藤井裁判長は、14被告に、
「何か最後に申し述べることはないか?」
とていねいに尋ねる。
日召ら全被告は、
「何も申し上げることはございません」と答え、
これで、最終訊問を終わった。
次いで中川博士(どういう人物なんだろう? 突然記事に登場する)が立って、
「この公判が無事に結審して感謝に堪えない」と挨拶を述べ、
和やかな気分のうちに、裁判長は、
「判決期日は、追って指定する」と宣告し、閉廷した。
法廷での審理が終わると、
弁護士一行は、午前11時半、日召の妻とし子さん、日召の親友、木島完之さん、今泉定助翁と共に、明治神宮に参拝し、
林、奥山弁護士ら6人は、さらに青山の故井上準之助、故犬養毅、および護国寺の故團琢磨男爵の墓に参った、
と記事に書いてある。
91回の公判で結審 一人一殺 47 | 2006年08月01日 |
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