1932年(昭和7)2月9日午後8時4分、小沼正(21)=写真下=が、井上準之助・前蔵相=写真下の下=をブローニング拳銃で暗殺した最初の事件は、
同年1月9日夜、代々木上原の制度学者、権藤成卿宅隣の空き家「骨霊堂」であった会合で、
「大事即決。2月11日の紀元節当日に、
一挙に革新の実を挙げよう」
と、夜10時頃から翌朝にかけ、悲壮な話し合いを続けて決めた方針に基づき実行された。
会合参加者は、井上日召、古内英司、四元義隆ら民間側、伊東、大庭、古賀、中村ら海軍側の計10余人。
(井上準之助)
昭和6年から7年にかけて、
「国内情勢がもはや黙視するに忍びなくなった。ただ断である」と全員が覚悟を決めていたのだった。これは、1934年(昭和9)5月22日の公判で、四元が証言した。
「国内情勢がもはや黙視するに忍びなくなった」とは、満州事変(1931年)で、農家の働き手だった若い男たちが兵士として出征させられ、働き手を失った農家が、窮乏をいっそう深めたとか、
そのあたりのことを指しているのだろうか?
5月23日付けの記事に書いていないから、想像するしかない。
井上・前蔵相暗殺の前後について、
暗殺者の小沼正(23)が、1934年(昭和9)8月7日の第56回公判で証言している。
それによると、
小沼はまず、1932年(昭和7)2月5日夜、西神田小学校に選挙応援演説にきた井上氏の顔をとくと確かめ記憶した。
翌6日、日召からブローニング拳銃と弾丸25発を受け取り、郷里の茨城・磯浜海岸で試射をした。
「時はあたかも旧正月だったが、百姓は、いたるところで愚痴をいっぱいこぼしていた」と話した。
小沼は、今生の見納めに、実母に会いに行き、不幸の罪を詫びる。
「お母さんは、無学文盲の百姓ではあったけれども、順逆の道をよく心得ていて、私の将来を戒めてくれました」
と、心の中で、泣いて言い、外には現さなかった。
けれども、母は、薪を焚く煙に、やがて静かに涙を拭いた。
この場面を小沼が話すと、法廷内はしんみりした、
と記事に書かれている。
小沼の心の中で言った言葉が、母に通じたのだろうか。
小沼は、
9日朝、日本大学付近に貼ってあったポスターで、同夜、井上・前蔵相が本郷駒本小学校に出演することを知り、
猛る心を静めつつ、古内と一緒に、近くの映画館で、坂下門事変の映画を見て帰宅した後、
服装を商人風に整えて線香を焚いて経文を読み、故藤井斉少佐の霊を弔い、
遙かに母に別れを告げ、
これからやる暗殺決行の成り行きについて自ら、占った。
「この瞬間には、傍にいた古内さんも、まったく路傍の人でした」と、小沼は語っている。
駒本小学校に向かったのは午後7時半。
井上がまだ見えなかったので、通用門前で待っているところへ、井上が自動車から下車した。
つづけざまに3発を放って、井上を暗殺した。
自殺しようとしたが阻まれた。
小沼の証言だ。
小沼は、この暗殺の時の心の中の様子を、
自著「一殺多生」に書いている。
次回で紹介する。
