1週間断食できた者だけがテロリストに   一人一殺          25

2006年06月26日

 一人一殺のテロルの源は、
血盟暗殺団一味13人の首領、井上日召(1886-1967)であった、
と東京地検は数十枚の長文の起訴状で断定した。

 一味13人を調べて報告した調書や聴取書のページ数が数千枚になったことに、捜査当局が事件をいかに重大視していたかが現れている。

「社会変革的性質を帯びたおおげさなものであった点、その根底の根強さと用意の周到さの諸点で当局を極度に狼狽せしめ、右翼運動に対する検察的見地を一変せしめたものである」と、
 一味13人の起訴を予告する1932年3月28日付けの新聞は書いている。

起訴の記事 6.26用.jpg
(写真をクリック)


 血盟団による連続暗殺事件の、東京地裁刑事第一部(酒巻裁判長)での第1回公判は、1933年(昭和8)6月29日。
 東京地方検察庁が13人を起訴した1932年(昭和7)3月28日から、1年3ヶ月後だった。

起訴から初公判まで、1年3ヶ月もかかったのはなぜだったのか?

 当時の血盟団事件の新聞切り抜き帳には、その理由を知らせる記事は残されていない。
ただ、起訴を予告する1932年3月28日付けの記事のすぐ後に、1933年(昭和8)6月29日付けの初公判を知らせる記事が続くだけだ。

初公判までに、これほど時間がかかったのには理由があった。

1932年(昭和7年)5月15日夕に発生した五・一五事件で、犬養毅首相が暗殺されたことと深い関係があったはずだ、というのは誰もが抱く推理だろう。

五・一五事件が、血盟団の連続暗殺事件の第二波として計画されていて、
二つの事件のテロリストたちの多くが同じ集団に属していたことが分かったために、
政財界・政府関係者に衝撃が走り、
警視庁や東京地方検察庁、東京憲兵隊本部に、事件の再捜査などの必要が生じたためではなかったか。

当時の新聞には、血盟団の連続暗殺事件と、五・一五事件事件の暗殺者たちが親しい仲間で、
「腐敗している」と、彼らが見なした政財界の大物たちを、
暗殺によって一掃しようとしていた、
と報じた記事はなかった。

この詳しい事実が国民に知らされたのは、1945年8月の敗戦の後であった。

 血盟団の連続暗殺事件のあらすじを示した、
東京地方検察庁の起訴を報じた1932年3月28日の記事を見てみる。
それによると、

 一味は、共産主義に対して台頭してきた国家社会主義的な、いわゆるファッショに刺激され、極端に反動化し血をもって一切を解決せんとするに至ったもので、

 その首領となったのは、怪僧井上日召であった。

 井上日召はまず、茨城県でその行動隊を養成することにつとめ、次いで、国家主義鼓吹者で「自治民範」の著者、権藤成卿氏に接近し、

 同氏のもとに集まる若者の中から行動隊員を物色し、茨城時代以来、参謀役となった古内英司と共に資金の調達、ピストルの入手、友誼団体との連絡に暗躍し、昨年末に至り、準備一切がなったので、ここに暗殺すべき人物を選定し、総選挙を期して、決行する指令を発したのであった。

 と書いている。

ルイ・ヴィトン 6.26you.jpg
(写真をクリック)

 「同氏のもとに集まる若者の中から行動隊員を物色し」
という部分については、
日召自身が、特異な物色方法を後に書いた。

 「これは」と目を付けた若者たちに、
1週間の断食を提案したのだ。
1週間というもの、水が飲めるだけで、何も食べられない。
この断食を成し遂げられた者たちだけが、暗殺者としての資格があると、日召自身が暗黙の内に認め、懐に引き入れた。

日召によると、断食は、始めて3,4日目が一番苦しく、これを乗り切れずに脱落する者が多い。
3、4日目を乗り切ると、頭がすっきりして身が軽くなり、1週間の断食達成は、それほど不可能ではなくなるのだ、
という。

日召によると、血盟暗殺団に加わった若者たちは、いずれも1週間の断食を成し遂げた、骨のある者たちだった、という。


posted by Jiraux at 22:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒
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