東京・永田町の内閣総理大臣官邸表玄関に乗り入れた自動車から、若い武装軍人9人が下車、内玄関から屋内に侵入し、犬養毅首相(1855―1932)=写真下=を短銃で撃った。
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軍人たちは車で逃げ、警視庁と日本銀行に回って、手榴弾を投げ込んだ後、東京憲兵隊本部に自首した。
軍人9人は、
三上卓海軍中尉ら海軍の青年将校4人(うち1人は予備役)と、陸軍士官学校本科生5人。
当時の資料(原田日記など)によると、
9人の犬養襲撃の理由は、
満州の軍閥、張作霖の長男として父と共に大日本帝国に協力した、張学良の倉庫の中から見つかった日本の政党のボスや高官たちの署名のある現金領収書の中に、犬養総理のものも混じっていたため、
だった。
押し入った士官たちは、総理を拳銃で脅しつつこのことを非難した。
犬養総理は、
「その話なら、話せばわかるからこっちに来い」といった。士官たちが土足のままあがろうとしたので、
犬養は
「他人の家に靴履きで上がるとはなにごとか」
と一喝。
士官らは、それに反応して、
「われわれが何をしにきたかわかるだろう、言いたいことがあれば言え」
と言い放った。
犬養が身を乗り出して議論しようとした瞬間、
「問答無用、撃て!」
の一言に反応して短銃が発砲され、老首相は倒れた。
軍人たちはそのまま立ち去り、
犬養は
「もう一度あれらを呼んでこい、判るように話してやる」
と言ったが、
翌日、死去した。
五・一五事件だ。
茨城・大洗の立正護国堂で、井上日召の周りに集まっていた、古賀清史・海軍中尉ら、陸海軍の青年将校らが、
血盟団の「一人一殺」に呼応して行動を起こしたのだった。
1931年(昭和6)10月、「桜会」のメンバーらが軍部独裁政権樹立を目指したが、不発に終わった。
「10月事件」と呼ばれる。
この頃、井上日召には陸海軍、民間の40数人の同志がいた。
これらの同志が、10月事件の軍人たちの様子を見て、「おれたちがやる」とまなじりを決して立ち上がったのが、
血盟団事件だった。
五.一五事件は、その第2波として計画されていた。
五・一五事件の、ほかの襲撃目標は、
古賀清志・海軍中尉らの第二組が牧野伸顕内大臣邸。警官一人が負傷しただけで、牧野伸顕内大臣は無事だった。
第三組が麹町区内山下町(現在の内幸町一丁目)の立憲政友会本部。午後5時半ごろ、政友曾本部南に自動車を止め、下車して本部内に入り、玄関へ手榴弾1つを投げたが爆発しなかった。
第四組が、麹町区丸ノ内二の三菱銀行本店。
銀行裏から手榴弾1つを構内に投げ、同行裏門近くで爆発させた。
また、別動隊が帝都の混乱を狙って変電所六ヶ所を襲撃したが、ほとんど損害を与えずに終わった。
五・一五事件で、殺傷されたのは、暗殺された犬養毅首相、牧野内大臣邸の警官1人の負傷のほか、
北一輝と行動を共にしていた西田悦だった。
5月7日付け朝刊に、、
「血盟団の川崎に西田退役中尉撃る 五発命中生命危急」
の見出がついている。
内容は、
「十五日午後七時半府下代々幡町代々木山谷一四四退役陸軍中尉中西悦方へそうかんが現れ折から在宅した西田氏が応接すると突然ピストルをだして同氏をめがけて連続六発発射。昏倒するのをみて逃走した。犯人は血盟事件の……」とある。西田は重傷だったが助かった。
この事件で印象的なのは、襲撃参加者たちの奇妙な、
礼儀正しさ。
予定された目標への襲撃を終えると、全員が、東京憲兵隊本部などへ出頭した。
犯人たちは、目標を襲撃した後は、東郷平八郎(日露海戦の英雄、元帥)を参内させ、軍政府を樹立させれば、
頭山満たちの右翼などがこれに世論の支持をあたえてくれるだろうというもくろみだったらしいが、これは成功しなかった。
