牧野伸顕内大臣(大久保利通の次男)、
唯一の元老、西園寺公望・元首相が、
一人一殺の標的になっていたことが、血盟団事件捜査の進展で明らかになった。
二人は、天皇の手足となって、天皇の意向を政界で実現するパイプ役を果たし、天皇制支配の支えだった。
その手足をもぎ取ろうとしたのだ。
これは、天皇が絶対権力をもつ明治憲法下で、あってはならない最大のタブー(禁忌)だった。知られるだけで天皇の権威を傷つける衝撃があったから。
「天皇は、日本社会の差別の根源」という指摘は古くからあるが、
それに、反権力の鋭い刃が向けられたのは、
怒りが、矛盾の本質をすっくとえぐり出す、自然な成り行きだったのだろう。
「天皇制は、無知蒙昧な人々をコントロールするための政治的方便として保持されている敬虔な詐欺である」
と、1912年版「日本事物誌」の著者、バジル・ホール・チェンバレンは述べている。
エジプト駐在カナダ大使をつとめた、日本研究者ハーバート・ノーマンは、
「天皇制は、反動の側に方向づける一種の偏向性を日本の国家機構に与えずには置かなかった」と指摘した。
ノーマンは、マッカーサーに信頼され、占領政策の形成に影響をもった日本研究者だった。
警視庁の調べによると、
故大久保利通の次男で、文部、農商務、外務大臣などを務め、昭和天皇の信頼厚かった牧野伸顕内大臣・伯爵(1861―1949)=写真上=の暗殺を企てていたのは、東大法学部生、四元義隆(25)、
天皇に内閣総理大臣を推薦する補佐役で総理大臣を2回務めた「皇室の藩塀」、最後の元老、西園寺公望・公爵(1849―1940)=写真下=を暗殺しようとしていたのは、元東大生池袋正八郎(28)。
さらに、血盟団参謀格の元小学校教員古内英司(32)は、
「ドル買いで国内の不況をいっそうひどくした元凶」と非難された、三井財閥の最高責任者、池田成彬(1867―1950)=写真下=を、
一人一殺しようと狙っていた。
牧野伸顕は1871年、10歳の時、岩倉使節団に父の大久保利通に連れられて加わり渡米、フィラデルフィアの中学に入学。東大中退後の1880年、外務省に入った。
伊藤博文と、その後継者の西園寺公望に近い官僚政治家になり、対外協調的、リベラルな政治姿勢で、薩摩閥によって宮中と通じたといわれる。
1921年、西園寺の意向で宮内大臣に、1925年には内大臣に就任。牧野への昭和天皇の信頼は厚く、1935年に退任する際には、
天皇は、惜しんで涙を流した。
西園寺公望は、藤原房前を始祖とする藤原北家の血筋で、藤原氏の末裔だったから、「皇室の藩塀」(皇室を守る砦)であるという意識が強かった。
1871年にフランスへ官費留学して、フランス首相のクレマンソーとつきあい、パリ・コミューンを間近に見た経験などから、自由民権運動に親近感が深かった。
大正天皇即位で元老の1人に任命され、1926年12月28日、昭和天皇は、「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」を与え、西園寺が、唯一の元老として総理大臣推薦の任務につくことになった。
西園寺は1940年、米内光政首相まで、首班指名に関与し続けた、という。
警視庁の捜査の結果、
血盟団が暗殺を計画していた政財界の大立て者は、合計で約20人にのぼった
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「人間の運命というものは、不可思議なものだ。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない池田成彬が助かり、
そう早くは行かぬだろうと思った團琢磨が案外あっけなく殺されている。
池田を狙ったのは古内英司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。
古内は謹厳そのものの人物で、これが寝食を忘れて付いていたのだ。池田の別荘、本邸、それをいちいち突き止めて、吸盤のように吸い付いていたのだ。しかも本人は、麻布一連隊の営内に居住する大蔵中尉のところで寝起きしている。
警察の手の絶対届かぬ場所に潜んで、寝食を忘れてつけねらっても、ダメな時にはダメなのだ」
と、井上日召は「血盟団秘話」の中で、
人の運命の不思議さをしみじみと語っている。
古内(32)と日召(43)の関係は、1927年(昭和2)1月、日召が茨城県祝町の山林に護国堂曼陀羅寺を建てた頃から始まった。
茨城県結城小学校に勤めていた時に肋膜を患って休職になった古内は、力強いものを求めていて、日召を崇拝し、社会制度の欠陥、政党の腐敗などを互いに論じて深くなったらしい。
