茨城出身の青年2人に拳銃で相次いで殺されたに過ぎなかった連続暗殺事件は、
帝大生田倉、田中の逮捕がきっかけで、
水面下に隠されていた巨大な暗部が、さらされることになった。
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後でぞろぞろと出てくるんだが、とりあえず3月16日時点で判明した暗殺計画は、
若槻礼二郎・前首相 暗殺担当=京大学生、田倉利之
床次竹二郎・前鉄道相 暗殺担当=東大学生、田中邦雄
郷誠之助男爵 暗殺担当=黒澤大二
井上準之助・前蔵相 暗殺担当=小沼正(既遂)
團琢磨・三井合名理事長 暗殺担当=菱沼五郎(既遂)
1932年(昭和7)3月17日付けの記事によると、
「財閥関係の人物は、小沼、菱沼、黒澤など無知な者が担当、政界関係は、学生側のインテリが受け持つこととなっていた」
東京地方検事局木内検事の取り調べに対し、
小沼や菱沼は驚くほど口が堅かった。
そこで、木内検事は、比較的インテリな、元小学校訓導古内英司を責めれば必ず口が割れる、と狙いを定め、全力で取り調べた。
果たして、古内から田倉、田中両帝大生の存在が明らかになったのだった。
「広野にはびこる巨木のため、可憐なる草木は実も花も結べない。巨木の討伐は信念からだ」
と、両帝大生は、暗殺に駆り立てられた動機を語った。
小沼、菱沼、田倉、田中の4人は、ブローニングの短銃を1丁ずつ渡され、古内が総指揮をとっていた。
4人のうち、小沼が一番激しく、
自分が先鞭をつければ他の者も決行するだろう、と第一陣を引き受け、井上・前蔵相を殺ったのだった。
しかし、「インテリ」と一目置かれた学生側は、決行が鈍り、
田倉は、若槻・前首相が関西に選挙演説で行った際に後をつけながら果たさず、
東大法科学生、田中邦雄=写真下=もピストルを持っているだけで恐ろしくなって、預け先を3度も替え、最後には西巣鴨の親戚の家に預けていた。
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「銃剣道をやり喧嘩に強い」という田中への人物評=壱拾弐の写真に見出し=は、まったく当たっていなかったように見える。
田中は、「東大七生社」、田倉は「京大猶興学会」のメンバーだった。両会とも、右翼団体だったようだ。
おそらく前途がまったく見えなかった茨城の青年、小沼、菱沼の鮮やかな実行ぶりに対し、
前途の可能性が見えなくもなかったに違いない、京大生田倉、東大生田中の、情けないしくじりぶり。
決意が鈍ったんだな、退路があった帝大生たちは。
これらの結末に、人間不偏の真理が見える。
田倉、田中両帝大生が、
井上、古内、小沼、菱沼と同志になったきっかけは、
1931年末から、権藤成卿の「自治学舎」に出入りしたこと。
しかし、「血盟5人組暗殺団」が、権藤の「自治学舎」で結成されたことはなく、
たまたま、1931年4月に右翼団体「生産党」の日協前衛隊員19人が、世田谷の松陰神社で血盟し、その隊員たちの中から、今度の一味が現れてきたことがはっきりして来た。
これがため、井上日召、権藤成卿氏がどの程度まで彼らと密接な関係が結ばれていたかが追及されている。
と、記事には書いてある。
「世田谷の松陰神社で血盟」の記事は、3月16日の新聞にでている。
血盟の物証となったのは、19人が血判で連書した巻物で、小沼、菱沼、黒澤も最後尾に名を連ねていた。
警視庁が、3月15日夜、右翼団体「日協前衛隊」の狩野敏隊長宅を家宅捜索した結果、見つけ、証拠品として押収していた。
