「怪空家 数名の青年が常に出入り」の見出し付きで、
古内が潜伏していた家のことを書いた記事がある=写真下。
(写真をクリック)
それは、小田急沿線の代々木上原1186、国学者権藤成卿宅の隣りにあり、権藤が管理する家だった。
120坪の荒れ果てた敷地に建坪約30坪の平屋建てで、1931年(昭和6)9月から空き家になっていた。部屋は13畳半の広さで、三方がガラス窓だが、雨戸を開けたことはほとんどなく、部屋には大机2脚があり、その上に漢詩集などが乱雑に積まれていた。
表門は釘付け。裏口から、裏庭経由で隣りの権藤氏の家に自由に出入り出来た。
この「怪空家」に、1931年秋から、20歳前後の学生風や40歳ぐらいの男たち7、8人が寝泊まりしていた。
深夜になると、セダン型のシボレーが、権藤家との間の、塀で囲われた空き地によく止まっていた。
「妙な学生さんたちだと思っていましたが、夕方一緒に連れ立って、権藤さんのほうから出てきて、湯屋に行く姿を毎日見ました。気味の悪い所なので2、3日中に移転します」
との、近所の人の談話が出ている。
男たちは、「制度学者」、権藤成卿(1867―1937)を慕って集まっていたのだった。
(写真をクリック)
権藤=写真上=は、背が低く、色の黒い痩せた人で、この時、65歳。
庭で、和服の尻を端折って、宗匠頭巾のようなものを被り、木バサミをもって、よく植木を切っていた。
訪れる客があると、話し込む。
話題は、昔の事から現代まで。
日本から中国、ロシア、魚釣りから料理、各国のうわさ話など話題は転々として滞ることがなく、刀剣、陶器の鑑定は玄人の域で、その博識多趣味には、皆が驚いた。
人物について問うと、独特の筑後訛と漢語混じりで、辛辣な口調で話すから、何がなんだか分からぬままに帰る人も多かった、という。
権藤は、久留米の郷士、松門氏の長男として生まれ、25歳の時から朝鮮、中国、ロシアなどに17年間旅を繰り返し、各国の鋭敏な学者たちと交流した。そして、父祖から伝わる、家学を継いだ。
明治33年(1900)に上京。「自治学館」「成章学苑」などと呼ばれた私塾を開く。「日本震災凶饉考」「自治民範」「南淵書」「皇民自治本義」「八隣通聘考」などの著書があった。
政党の腐敗に、極度の憎悪に近い、憤怒をもっていた。
政党の腐敗は、政治家が大衆から選ばれながら、大衆とかけ離れた存在になってしまう、
官僚化に原因があると指摘した。
「民衆とかけ離れてしまったために、政党はひとつの利己的団体になり、朋党になった。彼らは政党ではなく、日本には本当の政党は存在しない。政党は利己団体だから、同じ性質をもった財閥、官僚、……とも結託するのは当然である」
と、権藤は指摘した。
「ローマやニューヨークや江戸や東京の繁栄の裏には、幾多の民族や民衆や農民が飢えに泣いているが、これは自治から見れば退歩である。東北のもっとも貧しい農民の生活が向上したとき、それは進歩という。……均(ひと)しく安らかになることを目標とする」
とも、権藤は著書などで語った。
権藤の「制度学」とは、
日本古代の政治制度や生活を研究し、日本人に一番合った政治制度とはどういうものかを考え、その実現をめざすもので、
中央集権の明治官治主義をひどく嫌い、農本自治主義の立場を取った。
「社稷(しゃしょく)」、つまり自然に生成した集落などが、土地と五穀を中心にして、自然自治によっておのずと治まる社会を理想とし、国家を軽く見る立場だった。経済的には、農本自治が日本本来の姿だ、との見解だった。
明治国家の官治主義を激しく憎悪する反権力主義の立場だ。
このため、権藤成卿はファシスト、または国家主義のイデオローグだ、と見る専門家がある一方で、
日本主義的アナーキスト、反国体主義者と位置づける人々(雑誌「改造」昭和12年1月号など)も多かった、という。
つまり、どちらにも、くっきり分類できない正体不明の、おおきなところがあったようだ。
荘子や老子の匂いもする。
道教(Taoism)の流れが、権藤成卿の中に入っているような気がするんだが、
わたしは、権藤の本を、まだ読んでいないので、この勘が、正しいかどうかはまだ分からない。
