暗闇の底に築かれた巨大なたくらみの、ほんの一部に過ぎなかった。
巻物の連判状に19人が血判を押して血盟し、重臣の西園寺公望公爵、牧野伸顕伯爵、犬養毅首相ら政財界の要人20人を一人一殺して「昭和維新」の社会変革を実現しようとした「血盟団事件」が、そのたくらみの全貌だ。
政府財界の大立者20人に、暗殺担当者を1人ずつあててつけ狙わせ、時間をかけて端から殺してゆく計画だったが、
2人を暗殺しただけで崩れた。
捜査が進んでいたさなかの1932年5月15日に、陸海軍の軍人9人が首相官邸に犬養毅首相を襲って射殺する「五・一五事件」が起き、
ふたつの事件は、底でつながっていて、
先行した血盟団の暗殺2つが刺激になって「五・一五事件」が起きたらしいことが、やがてわかったから、
もの凄い衝撃が当時の支配層に走ったに違いない。
震え上がった人々が数多くいただろう。
1995年3月20日朝、東京の地下鉄の5列車で、毒ガスのサリン散布で計12人の死者と3596人の被害者を発生させた、宗教団体オウム真理教による「地下鉄サリン事件」、
または、3000人以上の犠牲者を生んだ、イスラム系国際テロリスト集団アルカイダによる2001年9月11日の、「アメリカ同時多発テロ 9.11事件」クラスのショックで、人々を深く激しく揺すぶった事件だったのではないか。
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しかし「血盟団事件」は、はじめは、二つの事件のような激しい顔は見せず、氷山が、全体像のほんの一部だけを海面の上に見せているような、
比較的静かな感じで姿を現した。
その危険な全貌は、捜査の進展に従ってゆっくりと現れたのだった。
1932年(昭和7)3月7日付けの新聞記事には、
團琢磨暗殺の翌日の1932年3月6日午前11時半、警視庁刑事部特別室で、木内検事はじめ土屋、石森両課長、清水、中村両主任警部らが、菱沼五郎に厳重な尋問を開始した。
夜7時頃になって、
菱沼の供述から有力なるヒントを得て、にわかに色めきたち、刑事たちが各方面へ出動し物々しく活動を始め、
○○○○党関係につき端なくも重大なる手懸かりを得たので、松本刑事部長は午後9時、大野総監を官舎に訪い約1時間にわたり密議をこらし、警視庁に引き揚げ、直ちに石森、土屋両課長を自室に召集、捜査上の秘策を授け徹夜の活動を続けた。
と書いてある。
だが、なんのことなのかよく分からない。
たぶん、菱沼への拷問による厳しい取り調べを続けた結果、7時間が過ぎた頃になって、やっと決定的に有力な供述が得られたのではなかったのか。
同じ7日付けの紙面には、先行する記事に脈絡をつけず唐突に、
「暗殺団を操る黒幕等を大捜査」の見出しが立てられ、
その脇に、
満州浪人で、茨城県茨城郡祝町、日蓮宗曼荼羅寺布教師、井上日召こと井上四郎(42)と、
栃木県生まれで、前濱小学校の元代用教員、古内栄司(31)の顔写真2枚が、縦組みで掲載され、2人の経歴が書かれている=写真。
その唐突さに、含みが感じられる。
菱沼の供述から、この2人の存在が浮かび上がったのではなかったかという推理を誘う。
井上日召(写真上)、古内栄司
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そして、
「血盟5人組は、菱沼、小沼、川崎、黒澤、古内の5名であるといわれたが、新たに、捜査の結果、古内は頭領で古内の他に5名あることが判明した。しかして新たなる1名は川崎長光と親戚の間柄なる川崎長二であって……なお彼らが血をもって決死隊を組織したのは郷里においてではなく、古内が昨年10月過ぎ上京してから某所で会合のうえ行ったものであるといはれている」
とも書いてある。
