特急「つばめ」が午前9時に発車するプラットフォームは、乗客や見送りの人々で混雑していた。
8時58分、左側に2人、右側に1人の護衛に守られ、「つばめ」脇を歩いてきたダークスーツの男が、
ボッという低い音がして、立ちすくんだ。
両腕で腹部を強く押さえ、両目をつむる。顔色が白くなり、倒れかかる。傍にいた男が抱きとめた。
フラッシュの音、と誰もが思った。
カメラマンが、撮影のためマグネシウムの粉を燃やし、フラッシュを焚いたと思ったのだ。
3b前方に、木綿茶縞の羽織に袴をはいた小男が、何かを構えていた。
拳銃だった。薄く煙が出ていた。この男が撃ったのだ。
列車の下に潜り込もうとする男の、
拳銃をもつ右腕に、護衛の1人が抱きつく。2人が雑踏から飛び出して左腕を捕らえ、組み敷き、手首と足に無数の真っ白な捕縄をかけた。
撃たれた男は、フォームに崩れるように座り込む。
特急「つばめ」6両目、1等車の5b手前だった。
撃たれたのは、浜口雄幸首相(60)。
顔立ちからライオン首相とあだ名されていた民政党の政治家だ。重厚、誠実な人柄で信望を集めていた、という。
「男子の本懐である。時間は何時だ?」
と、浜口は、応急手当をした丸の内鉄道病院の医師に聴いた。
(浜口雄幸)
浜口のへそ下1aのあたりに、人差し指大の穴が開いていた。東大病院での手術で開腹されると、体内には血液があふれていた。
佐郷屋の撃ったモーゼル6連発短銃の弾丸(直径7_、長さ12_)は、腹部に入った後、小腸、結腸など7カ所を貫いて左臀部骨盤の股関節の中で留まっていて、摘出できなかった。
小腸52aが切除された。
浜口は、いったんは回復し、公務に戻ったが、回復は思わしくなく、9ヶ月余り後の翌1931年8月26日に死去した。
襲ったのは右翼「愛国社」社員、佐郷屋留雄(23)。
「一人一殺」
の鮮烈なコピーで衝撃を与えた「血盟団事件」、海軍軍人らによる「5.15事件」、陸軍軍人らの「2.26事件」へとつづく、
昭和初期のテロルの序幕だった。
佐郷屋は、身長5尺1寸9分(155a)、体重57`。
長崎県北松浦郡大島村(当時)出身で芸者をしていた母と土木作業員との間に生まれた。
(写真をクリック)
朝鮮ソウルの小学校を卒業後、満州で暮らし、20歳になって上京、いくつかの右翼団体に出入りし、5ヶ月前の1930年6月に、愛國社員になっていた。
酒は飲まないが、荒っぽい性質で、29年1月3日と30年8月15日に喧嘩し、傷害罪で有罪になり、3ヶ月の執行猶予中だった。
警察の調べに対し、佐郷屋は、
「浜口首相は経済政策に失敗し、統帥権を干犯したからやった」
と供述したが、
「統帥権とは何か?」と刑事から聴かれると、
「何だか分からない」と答えた、という。
時代は米国ウォール街の株価暴落から始まった世界恐慌のまっただ中にあった。
1930年3月には、株式・商品市場が暴落し、生糸、鉄鋼、農産物などの価格が急落。貿易額は輸出入とも40%以上減少した。
製糸業などの中小企業が相次いで倒産、銀行が休業し、独占資本に吸収される。三井・三菱・住友・安田・渋沢などの財閥が、工業、金融、商業から農業までをも支配下におさめてゆく。
政界・財界への不信感が深く広がっていた。
佐郷屋は、この時には、「血盟団」との深いつながりはなかったらしい。
だが、腐敗した政財界への憤りという、共通する気分の中にあった。
憤りを、知らぬうちに分かち合っていたのだった。
殺人未遂罪で起訴され、死刑判決を受けた。後に減刑されて出所。
戦後は、全国のおもな右翼団体40を中心に120余団体に呼びかけて1959年、全愛会議を結成し、右翼の大立者になった。右翼団体「護国団」の副団長になり、60年安保でも動いた。
恐喝や、暴力行為などでたびたび逮捕され、1972年4月、肝硬変のため死去した。65歳だった。
