news 日々憤怒 - 2006年11月

唐さんおめでとう。明治大学特別功労賞

2006年11月25日

 天皇がくれることになっていた紫綬褒章を、昨年9月、2週間かけて考えた末に、
 「もらわないのが、お客さんへの礼儀だと思います」と丁重に断った劇団唐組の首魁、唐十郎さん(66)=写真下=に24日夕、
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 出身校の明治大学(東京・神田駿河台)が、「明治大学特別功労賞」を贈った=写真下
「よろこんでいただきます。ありがとうございました」。さわやかにいった唐さんの笑顔に、リバティホールを埋めた400人が大きな拍手であたたかく祝った。

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 「唐さんが負けずに生き延びるとは思わなかった人もいるのではないか。唐さんを明治大学の誇りとしたい。いろんな意味でその名を残すことと思う」
 と、学長(唐さんの1年先輩)が祝辞を述べた。

 「明治大学特別功労賞」は、社会に出た後、いい仕事をして明治大学の評価をおおいに高めた卒業生に与えられる。
 ちょっとやそっとの功績ではもらえない。

 唐さんは毎年春秋の2回、血の色をした暗赤色の紅テントを、新宿・花園神社など全国各地の空き地に張って公演することで知られている=写真下。テントは団員たちがトラックで運ぶ。

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 1994年に、演劇評論家の国際的な組織「国際演劇評論家協会(AICT)・日本センター」が行った、日本の劇評家やジャーナリストへの、現代劇作家の創造力を評価する調査(回答54人)で、唐さんは、故三島由紀夫、井上ひさし(各55票で同票の首位)に次ぎ、2位(50票)になった。

 唐さんの戯曲は、哲学的な表現やメタファー(暗喩)、笑いの場面が多用されるシュール・レアリスム(超現実主義)の作風で、同じ芝居であっても一、二度見ただけでは分かるのが困難だが、気がつくとなぜか深く感動していたという観客が多いことで知られる。
 これに対し、1位になった故三島由紀夫や井上ひさしの芝居のいいものは、well−madeで、だれもが一度でほとんど完全に理解できるといっていい、どちらかといえばより大衆的な作風だ。

 こうした事情から、平均的な芝居ファンが敬遠しがちな、難解な芝居を公演し続ける唐さんが、この調査で50票を集めて2位に入ったのは、きわめて異例なことだった。

 紅テントの芝居が、いつも日本で最高水準の質になっていることは、あらゆる演劇関係者や演劇ファンたちが認めている。
 それなのに、料金は今年、当日券で1人3600円。劇場で公演するほかの劇団と比べると4割以上は安かった。
 テントの収容人員は、約300人。

 唐さんは、
 1962年、文学部文学科演劇学専攻を卒業。翌年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げした。
 1970年、「少女仮面」で1969年度第15回岸田國士戯曲賞を受賞。1978年11月、小説「海星・河童 少年小説」で第6回泉鏡花文学賞受賞。
 1983年1月、小説「佐川君からの手紙」で第88回芥川賞受賞。
 1989年、2年間休止していた紅テント公演を復活させた。
 1997年、横浜国立大学教授就任。2004年、「泥人形」で、第38回紀伊國屋演劇賞、第7回鶴屋南北戯曲賞、第55回讀賣文学賞、第11回讀賣演劇大賞優秀演出家賞を受賞。2005年4月、近畿大学客員教授就任。
 2006年2月、第13回讀賣演劇大賞芸術栄誉賞受賞した。

 明治大学が配布した略年譜を見ると、唐さんの功績の大きなものは以上だ。
 だが、大事なのは偉業と偉業の間の行間だ。行間にこそ唐さんの生の実相がある。

 贈呈式の後のステージで、唐さんは、弟子の俳優、佐野史郎さん(1980年〜1984年秋まで状況劇場在籍)を相手に1時間半余り記念対談した=写真下

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 唐さんは、卒業の翌年の1963年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げしたが、
 貧乏だったため3年余り、「暗黒舞踏」の故土方巽に従い、北海道から九州までキャバレーなどを巡って、全身に金粉を塗って踊る舞踏ショーをした。たとえば、夜7時から11時まで3ステージ踊った。体を酷使した。

 戯曲を書き始めたのは24歳。
 ほかの人に頼んだのだが、書けなかったり、途中で筆を折ったりした。劇団に戯曲がないとやることがなくなり、しまいには団員がばらばらになって解散してしまう。だから自分で書き始めるしかなかった。

 いつも主題と題材がない。お先真っ暗だ。
 書いている内に、
 「このペン先をだれが連れてってくれるのかなー」
 と思う。書き進めている戯曲の中で、自分が演じる役がどれになるのか、半分書くまで分からない。

 故寺山修司のラジオドラマ「血は立ったまま眠っている」が、戯曲との出会いだった。電車に傘を忘れて駅に取りに行くと忘れ物の傘がいっぱい集められていて、自分の傘がどれなのか分からなくてついに迷子のようになってしまうという話だった。

 母校、鶯谷・坂本小学校(今はない)の担任は、滝沢という女性の先生で2階の理科室に住んでいた。夜には豹柄の服を着ていた。
 滝沢先生は「6年生まで同じクラスを担任したい」と校長に希望したが、ダメだった。先生は、不忍池のハスが見える下宿に引きこもった。唐さんが懐かしくて会いに行くと、
 会ったとたんに、
 「あ、よっちゃん(唐さんの本名は大鶴義英)、帰んな」と言った。
先生の下宿の畳に30分間座っていた。悲しかった。
 滝沢先生の名前とイメージは、後に「黄金バット」という芝居に使わせてもらった。

 実家があった下谷万年町の長屋には80人のおかまが住んでいた。午後には一列になってぞろぞろ歩いて銭湯へ行く。紙芝居を見ていた子供たちの1人が「おかまっ!」と叫んだ。行列は後戻りして来て子供たちを取り囲み、
 「『おかまさん』だろう。『さん』がなかったな。呼んだのはだれだっ!」と問いつめた。
 紙芝居屋が止めに入ると、怒ったおかまたちは紙芝居道具が載る自転車をでんぐりかえした。こぼれたソースの臭いが長屋中に臭った。この臭いの記憶が今も残る。

 戯曲は芝居の背骨(土台)だ。
 役者は戯曲に殉じたらだめだ。

 「あのさ」
 「ナニナニだな」
 唐さんは打ち解けていた。いい感じだった。

 麦焼酎をいつも飲み過ぎるのが心配なんだなあ。
 酒量、減らせないんでしょうかね?
 唐さん。

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posted by Jiraux at 01:28 | Comment(0) | TrackBack(1) | news 日々憤怒

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