この中から、副頭領古内栄司、暗殺犯小沼正、菱沼五郎、学生側の責任者だった四元義隆、池袋正八郎の部分を引用しておこう。
古内栄司は、
栃木県芳賀郡中川村の農業哲太郎の長男に生まれた。
神を敬い祖先を大切にする家風だった。
16歳の時に、農村の疲弊で家が倒産し、家族は水戸に移住した。古内は働いて家計を助けながら、
准教員養成講習会を出て、茨城県東茨城郡の吉田小学校に准教員として勤めた。
大正8年(1919)、茨城県立師範学校に入学し、大正12年(1923)3月に卒業。同県結城郡石下尋常高等小、結城尋常高等小などに訓導として勤めた。
教育の実態や自己について、次第に疑問を抱くようになった。
「苦難の道を歩んで人生を極め尽くそう」と決意し、全力を挙げて努力した、という。
病気になって訓導を一時退職。静養中に、日蓮主義などの宗教書をいろいろ読み、一筋の光明を感じた。
昭和3年(1928)10月ごろ、同県那珂郡前濱尋常小学校訓導に復職。同年12月、父が死んだ。
父の死で、貧富の差から生じる社会的矛盾を痛感した。
ちょうどこの頃、立正護国堂で井上日召を知り、
数回会って指導を受けながら、法華題目の修行に専念した。
日召の人格や思想に共鳴、
「教育勅語は、真に宇宙の真理、すなわちわが国体をそのまま表現したもので、この勅語の精神に適合しない現在の国家組織制度を改革し、永遠の皇運を助けるのは天皇の赤子であるものの責務だ」
と思い、日召から「日栄」という居士号をもらう。同志になった。
昭和5年(1930)ごろから、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二ら「茨城組」の青年を集めて、題目修行を主唱、指導した。そして、これらの青年たちを井上日召に紹介して同志に加えた。
昭和6年(1931)3月頃、同郡八里尋常高等小学校に転勤。八、九月頃まで数回にわたり、愛郷塾長橘孝三郎を訪問し、橘を通じて愛郷塾生から同志を得ようとした。
さらに橘と井上日召を会見させた。
同10月初旬、井上日召に命じられて教師を辞め、「革命の捨て石になろう」と決意し、上京した。
小沼正は、
茨城県那珂郡平磯町で漁業梅吉の五男に生まれ、
郷土の、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
大正15年(1926)3月、同郡平磯尋常高等小学校を卒業後すぐに大工の徒弟になり、その後、東京市内などで店員になったが、
「社会人心が退廃し、尊皇の心が日々薄らいで行く」実情を見聞きする一方で、
強大な資本をもつ人々がいろいろな特権を独占して、弱小な起業者を極度に圧迫したために小中商工業者の間に生じた多くの悲惨な出来事を体験、社会や人生に疑惑を抱いた。
その後病気になり、昭和4年(1929)6月ごろ帰郷していた。
菱沼五郎は、
茨城県那珂郡前渡村で農業徳松の三男に生まれ、平和な家庭で、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
昭和4年(1929)10月、岩倉鐵道学校業務科を卒業したが、翌昭和5年(1930)5月頃、東上線池袋駅に就職しようとしたところ、紅緑色盲で鉄道業務に致命的であると判断されて就職出来なかった。
父母の期待を裏切ったと落胆し、将来への希望を失った。
さらに、このような致命的欠陥をもつ者を入学させた学校当局の無責任さに憤慨。
「営利主義もきわまった」と判断し、社会や人生に対して疑惑と煩悶を抱き、郷里へ帰った。
四元義隆は、
鹿児島市南林寺で会社員嘉平次の二男に生まれた。先祖に明治維新の勤王家がいた。
池袋正八郎は、
宮崎県都城市姫城町で農業清次の長男に生まれた。
二人はいずれも、郷土の気風から、武士道精神を教えられて成長、ともに、大正14年(1925)4月、第七高等学校造士館に入学した。
二人は、在校生たちが「赤化無気力功利的な気風」であること、教育内容に権威がないことにがっかりした。
そこで、
日本精神を養い、伸ばすことを目的に「七高敬天会」を組織して活動した。
昭和3年(1928)4月、
四元義隆は、東京帝国大学法学部に入学、
池袋正八郎も、教育家になって教育界を改善しようと、同大文学部に入学した。
二人は相次いで、国粋主義者として有名だった、法学博士、上杉慎吉主宰の、日本主義を標榜する「七生社」の同人になった。
上杉博士の死後は、安岡正篤が経営する金鶏学院に入り、安岡の指導で修養に努めた。
四元は、昭和6年(1931)2月頃、福岡で九州帝大教授河村幹雄と話し合った。この結果、我が国はその本質上、不滅ではあるが、不滅にできるのは、自分の努力の結果によるのだ、との確信を得て、ますます国家革新の決意を強くした。
池袋は、この頃、一死報国を決意した以上、学校に行く必要はないと判断して退学した。
「支配階級のもっとも尊重する彼ら自身の生命に脅威を与え、ともに現状の破壊に倒れ、これによって支配階級に自衛上やむを得ず反省し、革新の挙に出ざるを得ないようにし、愛国諸団体の自覚結束奮起、および国民大衆の覚醒を促し、昭和維新の気運を促進させるべきだ」
というのが、彼らの共通の決意だった、
などと、判決理由書に書いてある。