news 日々憤怒 - 2006年09月

千社札 築地から消えゆく。

2006年09月28日

 東京の魚河岸、築地には、
昔の、粋なしきたりの痕跡が残っている。
 千社札(せんじゃふだ)=写真下=は、そのひとつに数えてもいいんじゃないか。

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 千社札とは、ふつう、千社詣でをする人が、自分の名・屋号・住所などを趣向を凝らして刷った記念の小さな紙札で、社寺の柱などに貼りつけるが、
築地の千社札は、趣がちょっと違う。
 長さ30a、幅10aぐらいの木の板に名前が彫り込んである。

 新たに開店する料理屋などに、出入りの卸業者、友人、隣近所の人々が祝って贈り、店内に飾ってもらったのだ。紙の千社札が発展した感じだ。
 戦後しばらくの頃までこの風習は残っていたが、
今ではすっかりなくなってしまった、という。

 ここの千社札は、職人技とすぐに分かる見事な彫りである=写真下
 それもそのはず、彫り師は、浅草寺の観音堂の額をも彫ったことのある、名のある人だった。

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 この千社札100枚近くを店内にずらりと飾った、
「味の・いし辰」=写真下 築地場外 築地4丁目交差点、共栄ビル地階=が30日に閉店する。
で、これらの千社札も店と共に消えゆくことになりそうだ。

「味の・いし辰」は、やがて築地場外の地上に新規開店する予定で、場所を探しているところだというが、
「店のスペースもあるし、また飾れることになっても全部は無理でしょうね」
と、店のお内儀さんが話した。

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安部・新総理大臣誕生。間違えてごめんね。

2006年09月25日

 間違えちゃった。ごめんね。
 5月7日の「日々憤怒」に、次の総理大臣は福田康夫だ、って書いた。
題は、「福田さんです。次の総理は」
 断定しちゃったんだ。

 予測記事でこういう断定がどれだけ危険で、割に合わない行いであるか、よく知ってる。
 知ってるからやったんです。
 面白いから。
 謝る。

 福田康夫があんな根性なしとは思わなかった。
 だって、自分からさっさと降りちゃうんだもの。たくさんの人々が総理大臣に押し上げようとしてたのに。

 福田の人柄に詳しい人に聞いてみると、
 周りの人々が周到に準備して、後は自分さえ動けば思い通りになるという絶対安全状況が出来なければ「ウン」とは言わない、
 非力のくせにわがままな、京都の公家のような男だっていうじゃないか。
何様かねえ。ったく…。

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 お詫びに、安部晋三(1954年9月21日生、52歳)=写真上=のことを少し書こう。

 腸が弱い。激務は合わない。
 遊び上手。
 かつて銀座のバー「ジュン」で、よくピアノなんか弾いたりしてみせた。 父親の安部晋太郎(元外相)の秘書だった頃のことだ。
 父親がこういう遊びが好きで、見習っちゃったんだな。
 この「ジュン」には、佐川急便の渡辺正康がしょっちゅう来てた。

 ハンサムで人当たりがいいから、
人が群がるけど、信頼できる人がいない。
 ここが問題。

 以上は、自民党に深く関わってきた政界フィクサー福本邦雄(79歳 第二次共産党の理論的指導者で党中央委員だった、福本和夫の長男で元産経新聞記者)が、
 テレビ界のコワモテ幇間(たいこもち)、田原総一郎に、「オフレコ!」という雑誌(ムック)の第3号(2006年9月8日発行、¥780)で話している。ただし、腸の問題の出所は福本からではない。

 東京の私立成蹊中学・高校から政経大学法学部政治学科へ。
 1977年3月に卒業し、同4月、神戸製鋼所入社。
 1982年11月まで、5年8ヶ月勤めた。

 この、社会人の時、
友人と横断歩道を渡っていた安部が、前から来た暴走族風の男たちの1人の体と、すれ違いざま接触した。

 振り向いて、いちゃもんをつけかけた男に、
 「君の方からぶつかってきたんじゃないか」
 と安部は言い、にらみ合って引かなかった。
 しばらく続いたが、
「気をつけろ」と男は言い、去っていった。

 その後で、
 「あんなチンピラと喧嘩してやられたらどうするんだ?」
と聞かれた安部は、
 「だって向こうが悪いんじゃないか」と答えた。
 引かない性格だ。

 これは、当時、安部と一緒にいた同僚のテレビでの証言で、
 テレビ番組司会者は、
 安易なのか何なのか、
 「引かない人柄ですねぇ。骨がありますねぇ」風なことを言っていた。

 吉祥寺にある私立成蹊大学が、それほど有名じゃないせいか、

 評判の良くない「2チャンネル」というネットのスレッド(コーナー)で、
 パソコンオタクのクダラン奴らが、

 「日本政治史上、知的レベルが一番低い総理大臣」
 などの罵詈雑言を浴びせている。
 (パソコンオタクは、学歴コンプレックスで権利意識強く、隠花植物みたいにジトーッとして、女にもてない奴が多いみたいだよ。見てると。気にする必要ないね)

 彼らの根拠はきっと次のようなことなんだろう。

 例えば、
 1880年に設立された米国・西海岸最古の私立大学で、日本の政治家では二階堂進、三木武夫、ハリウッド映画のジョージ・ルーカス監督らが卒業した南カリフォルニア大学(USC=University of Southern California、ロス・アンジェルス)に留学したが、卒業出来なかった。

 2002年2月、大学での講演で「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言。
 講演後の国会答弁で、資料を見ながら「TNT火薬」を「NTT火薬」と間違い読みした。(TNT火薬は、火薬の代表。核爆弾の威力を示すために、『TNT総量』という単位が設定され、使われている)

 安部総理大臣は、one issue内閣でいいんじゃないか。
 one issueすなわち、一つの問題だけを解決する内閣である。

 そのone issueとは何か?
 言わずと知れた、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致問題である。

 安部は、外相だった父の秘書時代から真相究明に積極的で、
後に、中山恭子内閣参与(当時)とともに拉致被害者と政府の信頼関係を築き、対北朝鮮外交で強硬路線を主張した。そして、2003年9月小泉純一郎により自民党幹事長に抜擢された。

 なにをどうすればいいのか?
 米国、中国と協力して北朝鮮への経済制裁を有効に働かせ、キム・ジョンイルを北朝鮮の独裁者の座から引きずり降ろし、拉致問題解決へつなげるのだ。
 これが成功すれば、長期政権だって転がり込んでくるだろう。

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 高級官僚てぇものは、エリート意識が強く、東大を出ていない他者を見下す鼻持ちならない奴が多いから、
 いずれ、これら官僚たちから、安部を馬鹿扱いする小話やアングラ情報がマスコミを通じてたくさん流れてくるだろう。

 前々首相の森喜朗を、
 「鮫の脳みそをもつ首相」なんて、
面白いが無礼な見方を、勉強しない記者たちに教えて流行らせたのは、首相に接する機会がある各省庁の審議官や次官など高級官僚たちだったからね。

 ちょっとしくじると、そんな皮肉のアネクドートがたくさん流れ出すだろう。覚悟しといたほうがいいね。

posted by Jiraux at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

秋のハチミツを下田で搾った。

2006年09月20日

 ハチミツを搾った。
 伊豆・下田市に住む両親を手伝って。
 親父(82)が趣味で飼っている。
 年2回搾る。前回は、6月20日だったから、3ヶ月ぶりだ。

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 2群飼っている。
 1群のハチ数は25、000匹で、働きバチの寿命は2〜3週間だが、女王バチが絶え間なく産み続けるから、各群の働きバチの総数はいつも変わらない。
 計5万匹の働きバチが、雨の降らない日にせっせと集めた蜜である。
 前回は2斗(36g)だった。
 今度はこれより多いかどうかが関心の的だった。

 巣から半径2キロの円内のテリトリーの中にある花々から集めている。朝から晩まで、巣と花々をひっきりなしに往復して集めるのだが、1匹の働きバチが集める蜜の総量は、2〜3週間の生涯で茶さじ1杯分だという。

 1群25、000匹の家は、1棟の巣箱だ。
 1棟は、巣箱が3段重ね。
 箱の中には、巣礎(すそ)が10枚ずつ入っている。
 巣礎とは、ハチが巣を作りやすいように用意された巣の基礎。上の2段の箱の中の巣礎がハチミツ貯蔵用、下の1段は、女王の産室用である。

 人間がこのように、上の2段だけをハチミツ貯蔵用に限定できるのは、働きバチの2倍以上の体をもつ、大きな女王バチが上の2段に移動するのを防止する仕切りを、1段目と2段目の間に、設置しているからだ。
 女王バチは、上に移動できないから、下の1段の中に置かれた巣礎だけに子を生み付ける。
 人間の悪知恵である。
 女王バチは上に移動できるなら、上にも生み付ける成り行きになるのだ。
上の写真の、鉄線が、その仕切り

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 網をかぶり、煙霧器(えんむき)で煙を蜂たちに吹きつけつつ、蜜が貯蔵された巣礎を引き出す=写真上。巣礎に築きあげられた巣にはびっしりと蜜が貯蔵されて重く、巣の表面は蝋で蓋がされている。
 ミツバチは、煙を吹きかけられると、沈静化され攻撃的でなくなる。煙霧器の煙は、ケヤキの青葉を燃やしてつくる。

 巣箱から引き出された巣礎は計40枚。
 ハチミツが貯まった巣礎の巣の、裏表の表面をふさぐ蝋を包丁で切り取る=写真下。そして遠心分離器に入れる。遠心分離器には、1回につき6枚の巣礎を入れられる。

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 遠心分離器=写真下=は高さ1.2b、直径1bで鉄製。手で回す。
手回し作業は、もちろんオレの役割だ。
 最初に右回し。思いっきり回す。ついで左回し。これも思いっきり。
 遠心分離器を回す時間は、1回あたりおよそ10分間くらい。これを7回繰り返した。

 絞り集めた蜜は、網で濾す。
こうして集めた蜜の量は、2斗2升、約40g。3ヶ月前より4g多かった。
 朝10時から働き詰めで午後2時までかかった。

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 今年の蜜は、ありきたりなメノウ色で、昨年に比べ色が薄い。
 ブドウ色をしていた昨年の秋蜜と大きな違いだ。
 これは、今年はクリが不作で、クリの花が少なかったため。

 「今年はいい蜜だ」と、人差し指ですくって味わった親父は喜んだ。
 いい蜜には違いなかったが、オレはすこし落胆した。
 オレはクリの花の蜜が入った秋蜜が、味わいが深くて好きなんだ。
 だれもが評価する、花の香りに満ちた6月の蜜よりも、クリで味わいが深い秋蜜の方がいい。

 「ミツバチはかわいい」と、母親(78)はよく言う。
 わずか2〜3週間の生涯に、時間を惜しむようにして花蜜を集め続けるその姿が、いとおしいらしい。

 収穫した蜜は、毎回、近所や親類に配るんだが、
 「料理の味付けに使った」、なんてえ話を聴くと、
 母親は、
 「あそこには、もうくれないことにしよう」と怒る。

 大事に味わって欲しいのだ。
 ハチがかわいいからね。
 もらった蜜をどう使ったかは、ウチの母親には言わないでほしい。

posted by Jiraux at 17:29 | Comment(1) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

暗殺へ、急転換   一人一殺 53

2006年09月16日

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 「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)は、
初めから暗殺をやろうとしたわけではなかった。

 「わが国家は、すでに単なる論説によっては救われない。実践あるのみだ」
 と思ってはいたが、最初考えた方法は、穏健だった。

 まず宗教的に育成された4人の同志をつくる。
 この4人と一緒に農村に入って住み着き、農作業の手伝いをしながら、日本精神を農民たちに説き、日本精神に目覚めてもらう。
 そして国家革新が必要であることを説いて賛同してもらう。

 1ヶ月に、1人がこうした同志1人をつくる。
 この方法でネズミ算式に倍加運動をやっていけば、3年後には巨万の同志を獲得できる。
 やがてこれらの同志を集めて上京し、政府や議会などに対して革新の実行を迫る。
 というものだった。

 同志の採用基準は厳しかった。
@社会運動に係わったことがない真面目な人物
A宗教的信仰をもつ者、あるいは、宗教的鍛錬を経験した者、または、革新運動について宗教的な熱意を持つ者

B以上のような条件を持たなくても、人間として素質が純真な人
C革新運動に身命を惜しまない確固たる信念をもつ人

D人々から喝采されて褒められるのを喜ぶような弁論の人でないこと
E自活できる人

Fほかの思想団体や政治団体と関係をもっていない人
G兄弟が少なく、一家の責任が軽いか、または、それを超越した者

 これらの条件にかなっていれば、
その人の抱く考えの中味は問題にせずに採用することにし、

 昭和3年(1928)暮れごろから昭和5年(1930)9月ごろまでの間に、「血盟団」裁判の被告人になった、
 古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二や、
被告人にはならなかった照沼操、堀川秀雄、黒澤金吉、川崎長光らを同志に得て、
いわゆる「茨城組」を作り上げた。

 日召は、昭和4年(1929)12月ごろ、
国家革新の志を抱いて海軍部内で熱心に運動していた、霞ヶ浦海軍飛行学校の学生、藤井斉・海軍中尉と知り合い、肝胆相照らす同志になった。
 そして、昭和5年(1930)初めごろから9月ごろまでの間に、藤井斉に啓蒙された、海軍少尉の古賀清志、海軍少尉候補生伊東亀城、同大庭春雄、同村山格之ら、海軍側同志を得た。

 この間、日召は、藤井斉から数回にわたり、
 「ロンドン海軍条約締結の結果、対外関係の危機が迫り、1936年ごろ、我が国は未曾有の難局に遭う。挙国一致でこの難局に立ち向かうため国家革新が急務だ」
 と力説された。

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 日召は、社会情勢を足で調べる必要を感じて、昭和5年(1930)8月ごろ、群馬、栃木、東京などを回って人々の生活ぶりを見て回り、識者の意見を聞いた。

 この結果、国家の危機が急迫し、民衆の生活は苦悩に満ち、深刻で、革新を願う声が全国に満ちている。すでに論議している暇はなく、すぐに革新を断行すべきであると判断した。

 つまり、それまでの倍加運動では時間がかかり過ぎてこの情勢に対応できないばかりか、
 たとえ倍加運動が実現しても、大衆運動の結果として大衆と官憲との衝突が起き、大きな流血の事態になる危険性が高いだろうと考えた。

 大規模な流血が引き起こす社会の混乱は、日召の革命精神に反する。
 だから、時間がかかり危険な倍加運動は放棄し、代わりに、現状打破のため、同志たちとともに非合法手段に訴え、革命の捨て石になろうと決意した。

 日召は、
現状打破の具体的方法、決行時期の決定、同志間の連絡、国家革新運動についての情報収集を、海軍同志の代表、藤井斉から任された。
 そこで、昭和5年(1930)10月ごろ、茨城・大洗海岸の立正護国堂を去って上京した。

 その後のことは、これまで、この「一人一殺」で書いてきた通りだ。

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橘孝三郎写真をクリック

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた日召に対する判決理由書には、
 農本主義者で「愛郷塾」長だった橘孝三郎(1893―1974)=写真上=のことも出ている。

 橘は、農業を通じて共同体的な理想社会を実現しようとして、1915年に一高を中退、郷里の茨城で農業生活に入った。1920年、農業機械を導入した近代農業をめざし兄弟村を建設したが病気になり4年近く闘病生活を送った。

 1929年、「愛郷者」の強固な団結と荒廃した農村での新生活の創造を求め、一種の協同組合「愛郷会」を結成し運営した。農民教育へも活動を広げ、自営的農村勤労学校「愛郷塾」を運営していた。主著は「農村学前篇」(1930年発行)。戦後は右翼の大物の一人とされた。

 日召は、橘孝三郎と市内某所で会見し、橘の人格識見に深く傾倒した。
そして昭和維新成就の後の新制度建設に有用欠くべからざる人物と判断、橘に、
 「破壊の完成後の建設を担当してほしい」と要請し、

 非合法破壊運動に引き込む対象人物から外すことを、心ひそかに決めた、という。

 橘孝三郎は、評論家立花隆の遠い親類だという。
 立花が、著書「天皇と東大 上」の743nに書いている。
 「橘孝三郎は私の父の従兄という親戚筋にあたり、私も子供のときに会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかない」

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まず破壊を、と考えた日召 一人一殺 52

2006年09月14日

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 人間は、一見ばらばらで、それぞれ対立しているように見えるが、実は、宇宙を構成する一部分で、本質的に宇宙と合体していてひとつなんだ。

 だから、自分のことだけに執着するような利己的な生活はいいかげんでやめて、自分が大衆の一人であることを自覚し、大衆と苦楽をともにする大きな生活、
 すなわち菩薩道 (悟りに到る道、菩薩の修行の道) に立った感謝の生活を、早く送るようにしたほうがいい。

 これが「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)の宇宙人生観だった。
 次に国家観。

 わが日本の国体(国家体制)は、宇宙の真理そのもので、天地とともに窮まりない。

 なぜなら、国祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が子孫に与えた三種の神器は、大神(おおみかみ)の精神である人類最高の智・徳・武、すなわち宇宙の真理をあらわしている。
 歴代天皇は、この三種の神器を天照大神のお告げである神勅とともに受け継ぎ、大神の精神を継いで、唯一絶対の君主として国家の中心にあり国民と一体であるうえに、国民の大親である現人神(あらひとがみ)として存在しているからだ。

 国民は、天皇の子どもで宝だ。
 天皇の精神を自分の本質とし、君民一体一国一家の理想の国家体制を作っている。日本の国家体制は、天皇と国民の間に何者が存在するのも許さず、国民は天皇の下に一人としてその所を得ざる者はない。
 国民は、その地位を守り未完成を恐れずに理想国家の実現を願うべきだ。
やがて理想社会を実現し、それを全世界に行き渡らせ、世界人類の平和を実現するのが日本精神だ。

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 次は、当時(1931、2年ごろ)の日本社会に対する日召の見方。

 支配階級である政党、財閥、特権階級は腐敗堕落し、国家観念に乏しく、結託して私利私欲に走り、天皇と国民の間を引き裂き、目前の権勢の維持に努め、
 ことごとく国策を誤り、このために内治外交に失敗し、なかんずく、農村の疲弊、都市中小商工業者や労働者の困窮を見捨てて顧みることなく、疑獄事件を相次いで起こしている。

 国民への教育は、根本を個人主義に置き、国体の絶対性を教えることなく、知育偏重に流れ、徳育を忘れている。
この結果、国民の思想を悪化させるなど、政治・経済・思想・教育・外交などさまざまな方面で極端な行き詰まりを招き、このまま放置すれば日本は滅亡するしかない。

 この深刻な行き詰まりの原因は、
明治維新以来の支配階級が、建国の本義を忘れ、西洋文明に酔って模倣しよ うとして、
 西欧の個人主義を基本にする資本主義のような、宇宙の真理に反する差別相対の原理を、国民生活や国家組織制度の指導原理にしたからだ。

 資本主義の矛盾や欠陥は我が国の本質を覆って、道義は衰え、混乱紛糾は大きくなり、ついに、
 昭和維新を願う国民の声が大きくなった。

 ところが、学者や宗教家には気概がなく、この現状を目にしながら支配階級にゴマをすって、自分の利害や打算に一生懸命であるか、または、なにもしようともしないで傍観している。
 このため、このごろ資本主義を修正するものとして登場してきた社会民主主義、国家社会主義、あるいは共産主義が、支配階級と対立抗争をもっぱら行い、かえって混乱を助長している。行き詰まりを打開出来ない。

 この行き詰まりを解決し国運を伸ばすためには、宇宙の真理そのままの日本精神を指導原理にして、支配階級を日本精神に目覚めさせ、我が国の組織制度を改革し、発展力を強化する必要がある。

 旧制度を破壊することなくして建設はあり得ない。

 革命をやろうとする者は、
自己を深く内省して、まず日本精神に目覚め、
 国民の幸福を幸福と感じ、苦悩を自分の苦悩と感じる大慈悲心をもっていなければいけない。
 また、天皇の赤子として、天皇が治める国が唯一絶対であると自覚し、

 間違っても、

 革命を、生きるための手段、または事業であるかのように思ったり、革命によって権勢や地位、名誉を期待したりしてはいけない。

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 以上が、1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた判決理由書に書かれていた井上日召の思想の核心だ。

 判決理由書は、計91回の公判での証拠調べなど審理の末に3人の裁判官が理解し突き止めた「血盟団事件」の厳格な核心であり、渾身の力作だったと考えていいだろう。

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超国家主義を発火させた日召   一人一殺 51

2006年09月05日

 1945年(昭和20)8月15日の敗戦で終焉するまで13年余の間に、2000万人のアジア人を殺戮した日本の超国家主義(軍国主義)を発火させた、
 「血盟団」頭領の井上日召(1886―1967)=写真下=は、

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 「キキョウやオミナエシはなぜあんな色をしているのか?」
 「川面の泡沫はなぜ生滅するのか?」
 と疑問を抱く懐疑的な少年で、

 「大人だって先生だって知りもせんくせに知ってるような顔をしているんだ。大人は、ウソは泥棒の始まりだ、などといいながら、自分ではウソをいったり悪いことをするじゃないか」と心ひそかに憤慨する少年でもあった。

 「血盟団」は、
 そういう懐疑心に突き上げられて中国や茨城、静岡の禅寺などで苦悩し続けた日召が、
 長い苦闘の後、やっとのことで抜け出た境地の末に、行き着いた結論でした。

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁で読み上げられた判決理由書や、日召が書いたエッセイ「梅の実」の中に、
 日召のその、心の苦闘の軌跡が描かれています。

 それらによると、
 群馬県利根郡川場村の医師、井上好人の四男に生まれた日召は、父や郷土の気風の影響で報国任侠の精神を身につけた。
 前橋中学から東洋協会専門学校(現拓殖大)に入学した。

 懐疑解決への道を、教師や先輩に求めたが、満足できるものはなく、やがて、
 「現在の教育道徳などは、すべて支配階級が無自覚な一般民衆を制して、搾取するための欺瞞的な手段にすぎない」
 と、自暴自棄になって、明治43年(1910)8月、同専門学校を2年で中退し、

 死を決意して満州に渡り、満鉄社員になりました。
 そのかたわら、陸軍参謀本部の諜報の仕事に従事しました。この頃、たまたま南満州公主嶺で曹洞宗布教師東祖心に会って教えを受け、一筋の光明を得た気がしたが、すぐ別離。

 再び懐疑の人になりました。

 大正2年(1913)、北京に行き、中国軍閥の大総統、袁世凱の軍事顧問、陸軍砲兵大佐坂西利八郎の下で諜報活動をし、第一次大戦の日独戦争では天津駐在軍付き軍事探偵として働き、功績をあげて勲八等を得ました。

 大正7年(1918)暮れごろから、天津などで貿易商をし、諜報活動もしていましたが、

 宇宙、人生などについて深刻な疑問がまたわき上がり、これを解決する安心の境地を求めて、大正9年(1920)暮れに帰国しました。
 「社会主義者の増加、支配階級の横暴無自覚はすこぶる憂慮すべきものがある。このまま放置すべきではない…」
 が、帰国した時の、日本への感想でした。

 日召は心の平安を求めて、
 大正11年(1922)春ごろ、郷里・川場村の「三徳庵」にひとりで座禅し、日夜、法華経の題目「南無妙法蓮華教」を唱えて修養に専念しました。

 訪れる人もなく、本堂に朝から晩まで座り込んで、公案を繰り返し考えました。
 米がなくなると、近くの川に生える水草、川松を採って食い、フキ、オンバコも食った。松葉、落葉松、雑木の葉…、
 毒にならぬものは何でも片端から口に入れ、水ばかり飲んで座禅修行を続けたが、
 なんの進歩も変化もなくついに心身共に疲れ切った。

 ある日、「南無妙法蓮華教」を唱えて死のうと決心し、夜となく昼となく唱え続けて疲れ果てて倒れ、起きては又唱えるということを繰り返しました。

 数十日経つと、心身に異状が出始めた。
 「ああ、自分は発狂するのだな。よし狂え。狂ったら狂い死のう。それが俺の運命だ」
 そんな捨て鉢な気持ちになって、題目を唱え続けた。

 そのうちに、何となく平和な、
 非社会的で孤立的だが、安易で明るい世界が開けて来た。

 それまで話に聞いていた、ディオゲネスや聖フランシスや、乞食桃木や、良寛やらの気持ちがはっきりと分かるような気持ちがし、
 同時に腹の底からそれらの聖者の仲間入りができるような気がしてうれしさがこみ上げてきた。
 親も家もうち捨てられるような…、
 浮世への執着のような感じが引いていった。

 初夏が訪れました。
 ある朝、いつもの通り武尊(ほたか)山頂に向かって合掌し、
 「南無妙法蓮華教」を口ずさみつつ太陽が山頂に昇るのを拝んでいた。
 いつもよりはるかに大きな日輪が山頂に赤々と登り切ったその瞬間、

 一種不可思議な気持ちになって、突然、
 「ニッショウ!」と叫んだ。

 血の出るような、底力のある声だった。

 嬉しい嬉しい。
 何がなんだか意思をまったく超越した嬉しさだ。

 全身霊光に浴したように、
 四方八方見る物のことごとくが光を放っていた。

 筆にも口にも言い表せぬ喜びで、
 踊ったり跳ねたり、果ては大地を転がり歩いた。

 心が静まってから、静かに考え直してみたが誤りはない。
 過去の苦はぬぐったようにまったく晴れ、
すべてが快刀乱麻を断つように、
流れに従って舟を操るようにスムースだった。

 日召が、悟った瞬間でした。

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 13年余り続いた日本の超国家主義(軍国主義)のため殺戮されたアジア各国の2000万人のうち日本人は310万人とされています。
 統計によると、第二次世界大戦の全犠牲者数は4000〜5000万人。全世界の犠牲者の半数近くが日本の超国家主義者が起こした侵略戦争で殺されました(三省堂「戦後歴史大事典」1991年)。

 日本帝国陸海軍による中国侵略は、
 日本国内の腐敗した政治の改革を性急に求める、佐官級の若手軍人たちの暴走で、
 1931(昭和6)年9月18日に満州事変が発生、1932(昭和7)年1月28日に第一次上海事変が起き、
 すでに拡大し始めていましたが、

 当時7000万人の日本人の多くにとっては、遙かかなたの海外で起きた局地戦でよそ事みたいなものだったらしい。

 ところが、1932(昭和7)年2、3月に、前蔵相の井上準之助、三井合名理事長の團琢磨が暗殺され、

 やがて、

 「血盟団」の14人が暗殺団をひそかに作って、
これに陸海軍軍人たちも参加し、一人一殺で政財界の大物たちを根こそぎしようとしていた。
 軍人メンバーたちは、血盟団事件の捜査が進む最中の同年5月15日に、犬養毅首相を首相官邸で暗殺し、後に「5.15事件」と呼ばれる大事件を起こした、

 という、

 一連の事件の流れや背景が分かり、新聞でひんぱんに報道されると、多くの人々の心は暗殺事件に引き込まれて行ったようです。
 こうして、国民の強い関心が集まる中、
 東京地裁や陸海軍の軍事法廷で開かれた裁判では、

 日召ら被告たちが、
 天皇が与える勲章叙勲を、内閣賞勲局長が賄賂をもらって決めていた「売勲事件」など政府の腐敗や、
 政財界の癒着と腐敗ぶりを鋭く指摘し、

 腐敗の犠牲ともいえる地方の農民たちの窮乏への深い思いが血盟団の暗殺行為への動機になったことが、法廷証言を通じて新聞で報道されました。

 すると、
 被告たちへの国民の共感はいっきょに、熱く深くうねるようにして広がった。
 つまり、政財界改革運動への熱いサポーターが全国的に多数出現し、
日本の右傾化が始まったのです。

 例えば、被告たちの減刑を願う嘆願書が、全国から裁判所に郵送されてきましたが、その数は、
 血盟団事件が30万人余、5.15事件が100万人余になりました。
 前代未聞の出来事です。

 国民に広がったこの熱い共感は裁判長にも影響を与えたらしく、
 血盟団・5.15事件被告たちへの判決では、死刑判決が1人もない寛大なことになった。

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(写真をクリック)


 この寛大さと国民の熱い支持、すなわち右傾化が、
 やがて、
 陸軍歩兵連隊や近衛連隊の兵士1483人が動かされて、
高橋是清・蔵相、斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・陸軍教育総監を暗殺、警官6人も犠牲にした2.26事件(1936年2月26日)を誘発したといわれています。

 2.26事件以後は、
 国民の批判は、武力に萎縮して力を失い、軍人たちはやりたい放題。
 超国家主義が圧倒する時代になりました。
 1936(昭和9)年から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで9年間のことです。

posted by Jiraux at 23:55 | Comment(1) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

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