news 日々憤怒 - 2006年07月
「悪人は殺したっていい」と山本玄峰が弁護         一人一殺 46 (2006年07月29日)
死刑求刑4人 被告14人は静かに  一人一殺 45 (2006年07月27日)
破壊だけを考えた日召 4人に死刑求刑 一人一殺 44 (2006年07月26日)
テロルを、国民が熱狂的に支持。   一人一殺 43 (2006年07月25日)
藤井の顔に導かれて。      一人一殺 42 (2006年07月23日)
小沼の母は、火の向こうで涙を拭いた。 一人一殺 41 (2006年07月21日)
日召と四元、陸軍を見切る。    一人一殺  40 (2006年07月21日)
殺った後で、自殺はするな。     一人一殺  39 (2006年07月19日)
政府高官の売勲汚職でテロを決意  一人一殺 38 (2006年07月18日)
天城山中 河津七滝に行ってきた。 (2006年07月17日)
浅草の上人が考えた大殺戮   一人一殺 37 (2006年07月15日)
支配階級の6000人を殺せ    一人一殺 36 (2006年07月14日)
「神兵隊事件」の被告44人、刑を免除 一人一殺 35 (2006年07月13日)
神兵隊事件 壮大なクーデター計画   一人一殺 34 (2006年07月12日)
日召奪還へ大クーデター計画     一人一殺  33 (2006年07月11日)
裁判長忌避 被告の意思が通る     一人一殺 32 (2006年07月10日)
5.15事件がらみで密室裁判に    一人一殺 31 (2006年07月09日)
大学生たちはなぜテロリストに?   一人一殺 30 (2006年07月06日)
日召がいなければ起きなかった血盟団事件       一人一殺  29 (2006年07月05日)
1930年暮れにファシズム始まる    一人一殺  28 (2006年07月04日)

「悪人は殺したっていい」と山本玄峰が弁護         一人一殺 46

2006年07月29日

 他者に害を与える悪い者たちは、殺したっていい。
罪にならない。

 玉音放送(敗戦の詔勅)の有名な一節を、
この時から11年後に生み出した、静岡県三島市の龍沢寺の住職で臨済宗の僧侶、山本玄峰(68歳、1866―1961)=写真下=が、

山本玄峰1.jpg
晩年の玄峰
(写真をクリック)


 1934年(昭和9)9月15日、東京地裁であった血盟団事件の弁論で、被告井上日召の特別弁護に立って言った。
 山本玄峰(やまもとげんぽう)は、禅に親しむ人々の多くが今でも敬愛する、名僧。井上日召の「魂の父」だった、という。

 玉音放送とは、日本敗戦を天皇が国民に伝えた1945年(昭和20)8月15日のNHKのラジオ放送。

 「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて……」

 玄峰は当時の総理大臣・鈴木貫太郎の相談役で、
この一節を、手紙に書いて鈴木に伝えていた、という。

 東京地裁には、早朝から、淀橋の関東女学校生徒や傍聴希望者が詰めかけ、定刻前に傍聴席は満員になった。日召の妻とし子さんもその中にいた。

 午前9時過ぎ、山本玄峰は弁護士らに案内されて入廷、法服姿の弁護士の中に着席した。
 やがて池袋被告を先頭にして須田、古内…、と地階の仮監獄から階段を上がってくる。

 玄峰はけげんそうな表情。
 輝く目、さっぱりと剃られた頭に、墨染めの衣、金襴の袈裟を着ている。
 被告1人1人と会釈する。
 7人目に井上日召が上がってくる。
 判事も検察官も弁護士も、傍聴人も、
いずれもの視線が、この魂の父と、囚われた弟子との対面に注がれた。
 玄峰は、やはり同じ会釈。日召もまた一礼して各被告に交じってつかつかと右端の自分の被告席に着いた。

 物々しい看守の囲いの中に、被告14人は着席する。
 玄峰は、高い位置の弁護士席から一目見渡して、また、平静なうつむき加減の姿に戻った。

 山本玄峰は、戦前武装共産党委員長で、獄中で転向し、戦後、政界のフィクサーとされた田中清玄や、
 血盟団の被告、四元義隆など大物右翼たちからも師と慕われ、薫陶を与えたという。

 傑僧だった。
 伝記などによると、
 和歌山県本宮町生まれ。四国88カ所の霊場巡りの時、高知の雪渓寺の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、その養子になった。
10代で、飲む、打つ、買う、の道楽を覚えた。後に結婚して家督を譲り受けるが、若い頃の女遊びが原因で、性病のため目を患い、盲目となった。

 離婚して家督を弟に譲り、目が見えるようになるようにと、願を立て、四国八十八ヶ所の霊場めぐりを8度すると誓った。
盲目。しかも裸足での霊場参りだ。並大抵の苦労ではなかっただろう。
 8度目の巡礼の途中で、かすかに目が見えるようになる。玄峰はこれを機に霊場の一つである禅寺に入って修行を始めた。

 目が見えるようになったといっても強い弱視だった。
小僧たちに教わって、漢字の読み方から習い始め、夜、人が眠っている間にも座禅を組み、「線香に火をともして」読書をした。
 こうして、一心不乱に禅を組み、公案を解き、心を鍛え上げて、「白隠禅師の再来」と言われる存在となった。数々の寺院を再興した後、禅宗妙心寺派の管長になった。奇跡といっていいだろう。

 後に龍沢寺の住職となった。
 文字を多くは知らなかった。豪傑として知られ、その姿を見た剣の達人は、

 「あの人は斬れない。心と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」
 と周囲に洩らしたという。

 玄峰の修行の眼目は、

 「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」

 北条時頼の歌に感銘を受けていた。

 心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな
という和歌だ。
 禅の奥義がここにあると思った。

 静岡県田方郡北上村、禅宗龍澤寺と、名古屋市の日邏寺の住職、山本玄峰(68)は、この日午前11時10分、証人席に立った。

 「法理上のことは明鏡を胸に掛けてご審理くださる法官閣下あり。またその解釈については弁護の任に当たられる弁護士各位があります。
わたしが被告のために弁ずることは、あまり、一般皆さんに分からぬ真理。いや、心地(ここち)です。きょう、被告の心について、お話しさせていただきたい」

 玄峰はまず、こう断った。

 「第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、
本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している」
 と大声で言った。

 次に玄峰は、
 人、乾(けん)、坤(こん)――宇宙の本体のあらわれが我が国体であると、指摘し、

 「仏教信者がなぜかかることをなしたか? 仏は和合を旨とし、四恩を基としている。136の地獄があるが、悪をもってすれば蟻一匹殺しても地獄行きとなる。
 和合を破り、国家国体に害を及ぼすものは、たとえ善人といわれるとも、殺しても罪はない、と仏は言う。


 仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない。道ばたの地蔵菩薩でさえ、小便をかけられても、黙々としてこれを受けているが、やはり手には槍を持っている」

ゲンポウ.jpg
写真はこの日の玄峰。記者たちから取材されている
(写真をクリック)


 玄峰は、それまでの日召の修養の様子を語り、
日召は、真の仏心をようやく自分のものとした。万物と自己とが同一体であるという心境になってきた、
と、たたえた。そして、

 「法は大海の如く、ようやく入ればいよいよ深い。
日召が真の仕事をするのはこれからと思う。万一死刑となって死し、虚空は尽きても、その願は尽きぬ。

 日本全体、有色人を生かすも殺すも日本精神ひとつである。これを知らぬ者は一人もないはずだ」

 玄峰は、数十通の激励の手紙があったことを披露して、この日ここで特別弁護に立つことを決めた理由を話した。

 そして最後に、
 「胸に迫ってこれ以上申し上げられぬが、鏡と鏡、仏と仏との心にかえって、なにとぞお裁き願います」
と言って合掌した。

 玄峰の語ったことを翻訳すれば、

 人々の調和を乱し、国民に害を与える者たちは、
たとえ「善人」と評価されていようと、殺したって罪はない、と日召ら被告たちの行為を弁護している。

 その証拠に、
阿弥陀如来を除いてすべての仏像が剣や槍をもっているではないか、
とも言っている。

 玄峰の特別弁論は26分間続いた。閉廷したのは午前11時40分。
14被告は、再び編み笠をかぶって退廷したが、
いずれも、玄峰に丁寧に会釈して地下道へ消えた。
 傍聴人の中で、日召の妻、とし子さん、娘の涼子ちゃん(9つ)が涙を浮かべて見送った。

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死刑求刑4人 被告14人は静かに  一人一殺 45

2006年07月27日

 1934年(昭和9)8月28日午前9時15分から、
東京地裁であった血盟団事件被告14人に対する1時間半の論告求刑。その法廷の様子を伝える記事が新聞社会面に載っている。
 人々の姿を的確に伝える、描写力のある記事だ。

求刑社会面の記事.jpg
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 血盟団事件は、いわゆる昭和維新の先駆として5.15事件に先行し、直接行動の先駆を切った。しかし、裁判長忌避、神兵隊事件などのために審理が延期され、
 5.15事件より1年遅れで求刑となった。

 5.15事件の被告たちは一部を除き同年春、判決が言い渡され、全部服罪。皇太子(現天皇)誕生で恩赦もあって、陸軍側被告はすでに刑期の3分の1を終えていた。

 こうした背景から、血盟団被告14人への求刑内容がどうなるのか、国民の注目が集まっていて、公判開廷前から無気味な緊張の空気が漂っていた。

 傍聴者たちは、前夜から裁判所門前で待っていた。
 午前7時半の開門と同時にどっとなだれ込んだ。
 1人1人が、警戒の丸の内署員から身体検査と氏名の点呼を受ける。

 14人の被告たちは、午前8時過ぎから武装看守、警官たちが厳戒する中で、同8時半に裁判所に護送され、
 構内地下室の仮監房で開廷を静かに待った。

 9時になると、まず弁護士、特別傍聴人が入廷を許され、
ついで9時5分、法廷正面入り口から、藤井裁判長、陪席判事に続き、
 この日の立役者、木内検事が痩身を黒の法服に包んで、緊張の面持ちで着席。一瞬の沈黙の後、
 被告入り口の地下道から、小太りの小沼正が真っ先に、
数人おいて、井上日召、菱沼五郎らが、いずれも黒紋付き、羽織袴姿で、足音を立てて入廷した。

 傍聴席が落ち着くのを待った後、9時15分、藤井裁判長が開廷を宣言した。
 型どおりの氏名点呼の後、

 裁判長 「それでは、検事の事実ならびに、法律的適用についての意見をうかがいます」

 木内検事は、満廷の耳目を一身に集めつつ、立ってまず、コップの水で唇を潤し、被告席を一瞥して、

 検事 「これよりまず、検事の公訴事実を開陳いたします」
 と口を切り、歯切れのいい口調で、どうどうと犯罪事実の論述を進めた。

 この朝、曇っていた空は、この頃から次第に照り始め、
法定内は、室(むろ)のような温気と、重苦しい緊張の沈黙とに息苦しいばかり。
 しかも、被告席傍聴席とも身じろぎしない。

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 ちょうど午前10時に、事実関係の朗読を終わり、情状論に入ると、
 木内検事の論調は、一段と熱を帯び、この事件を流れる思想、背景、動機等を鋭く指摘し、声を一段張り上げ、

 検事 「被告らの取った態度は誠に遺憾であり、またその見方も、時相に対し、適正とは言えない。いわんや、
 自己の主張を貫徹するため、暗殺行為にいづるがごときは、絶対に排撃すべきで、国法の命ずるところに従って、厳重処断すべきである……」

 秋霜烈日の言葉。
論告は、その最高潮に達し、人々のとがり切った神経を鋭く刺激した。

 最後に検事は、1933年(昭和8)12月の、浜口・元首相狙撃事件の佐郷屋留雄に対する大審院の判決理由を引用し、準拠を明らかにし、
10時40分、1時間半にわたる大論告を終わった。

 その瞬間の法定内は、嵐の前の静けさだ。
 次の一瞬、
 真っ先に、日召に対する「死刑」、
 次いで、古内も、小沼、菱沼も。死刑4人。
 無期懲役1人。

 この求刑内容に、
 弁護士席、傍聴席にざわめきが起こり、
「重い」「重い」とのささやきが湧く。

 しかし、被告席は粛然として静かで、
14人の被告は、一斉に、判事に黙礼をした後、
いつもの公判のように、弁護士たちと黙礼をかわし、
一同共に、静かに退廷した。
 10時45分だった。

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破壊だけを考えた日召 4人に死刑求刑 一人一殺 44

2006年07月26日

求刑(罪名 殺人および殺人幇助)

死刑    井上 昭 (48)=日召
死刑    古内 栄司(33)
無期懲役  四元 義隆(26)
懲役15年 池袋正八郎(29)
懲役10年 久木田祐弘(24)
懲役10年 須田 太郎(26)
懲役10年 田中 邦雄(25)
懲役10年 田倉 利之(26)
懲役 6年 星子  毅(26)
懲役 8年 森  憲二(23)
死刑    小沼  正(23)
死刑    菱沼 五郎(22)
懲役 8年 黒澤 大二(24)
懲役 7年 伊藤  廣(46)

 1934年(昭和9)8月28日午前9時15分、
東京地裁(藤井裁判長)で開かれた第63回公判で論告求刑があり、
木内検事が1時間半にわたって、峻厳の中に情味の交じった大論告を行い、上記のように求刑した=下の写真参照

求刑 いちらんひょう.jpg
(写真をクリック)


 検察側が、死刑相当と断定したのは、

 血盟団首領の井上日召(48)、参謀格古内栄司(33)、前蔵相・井上準之助を暗殺した小沼正(23)、三井合名理事長・團琢磨を暗殺した菱沼五郎(22)の4人。

 大学生たちの中心人物だった四元義隆(26)には無期懲役、池袋正八郎(29)には懲役15年がそれぞれ求刑された。

 論告求刑とは、
 刑事裁判の審理で証拠調べが終わった後、事件捜査を担当した検察官が、被告の罪の内容や重さを説明し、
 法律に照らして、それに相当する判決(処罰)を裁判長に要求する裁判上の手続き。もっとも厳しい指摘が行われる。

 これに対し、その後の法廷では、
弁護士が立って被告を弁護し、検察側が求める処罰(求刑)を軽くする判決(罰)を、裁判長に要請するという展開になる。

 木内検事が行った論告の中で、
東京地検が総力をかけた捜査で調べ上げ、確かめた、
血盟団事件被告たちの「本件事犯の原因動機並びにその目的」(第3節)には、次のように書かれている。(用語の一部を手直し)

 被告人らが当公判廷において本件事犯を決行するに至りたる原因動機について、縷々(るる)陳述したるところを約言すれば、

 いわゆる○○事件並びに○○事件(○○は伏せ字)に端を発し、支配階級たる政党財閥並びに特権階級が相互結託し、私利私欲のみに没頭して、国家を紊(みだ)り、ためにことごとに国策を誤り、外においては外交に失敗し、内においては国家存立の本をなす農村の疲弊を捨てて顧みず、ひいては国民思想の悪化を招き、

 我が国の現状はいまや思想の動揺、経済の逼迫、外交の不振、その極に達し、このまま放置したら、国家を危機に頻せしむるに至ること火を見るよりも明らかにして、これを救う途を講ずるは、因循姑息な合法手段をもってしては、とうてい、その急に応じるあたわず

 ただ一途、捨て石となり、支配階級たる政党財閥並びに特権階級に対し、非合法手段たる直接行動により、一挙革新の烽火をあげる外なしというにあり、
 その目的とするところは、非常手段たる直接行動を決行することにより、政党財閥特権階級はもちろん、一般国民の覚醒を促し、国家の革新を期するにあったのであります。

 要するに、

 支配階級である政党、財閥や特権階級が結託して利己的なことを繰り返して私利私欲を満たしているから、農村など国民が貧困にあえぐようになってしまった。

 血盟団の被告たちは、
合法的な手段では生ぬるい。
すぐ正すことが出来そうにないと判断し、
捨て石になって、非合法の直接行動で暗殺を行い、国家の間違いを直そうとした、
と言っている。

今日 論告求刑記事.jpg
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 次に、盟主井上日召の、血盟団事件に及ぼした思想的影響。

 「第2章 事実関係」の「第1節 井上昭の本件事犯に及ぼしたる思想的影響」の部分に述べられている。

 井上昭はかねてより、大慈悲心即破壊なりとの信念の下に、国家革新にはまず非常手段により現状を打破することをもって第一義とし、

 破壊担当者が自己の手において同時にこれが建設までも考ふることは、むしろ国家革新運動の精神的堕落なりとの思想を抱き、自ら、暴力的革新の担当者をもって任じおり、
 古内栄司ら茨城組ならびに四元義隆ら学生組、古賀清志ら海軍側同志もまた従来それぞれ国家の現状に対する不満と懊悩より、国家革新の志を抱きおりたるより、

 井上のこの破壊思想に共鳴し、国家革新運動の同志となりたるものにして、本件事犯が井上を盟主とし同人の指揮統制のもとに各自捨て石となり、決行せられたる事実より見るも、井上の本件事犯の上に与えたる思想的影響のいかに甚大かつ深刻なりやは、推測に難からざるところであります。

 ここでは、日召が、国家革新にはまず現状の打破が大事だと考え、
 破壊だけを担当して、後は捨て石になり、
次の建設は、後から来る人々に任せよう
という、
清廉で、潔い心映えをもっていて、それに、古内、四元、古賀らが共鳴し、血盟団テロルに馳せ参じたことが書かれている。

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 次に、他の思想家の事件との影響関係。
 大川周明は、
 被告人らとは交際はなかった。大川から直接、指導ないし、思想的感化を受けた事実はなかった。だが、血盟団事件は、大川が係わった、三月事件、○○事件に刺激され決行された。

 北一輝は、
 直接は関係なかった。しかし、北の著書「日本改造法案大綱」は被告人らが耽読していた。直接行動を是認する内容だから、この点で北も、影響を与えた。

 権藤成卿。
 一君万民農本自治を主張し、被告人四元義隆ら学生組が権藤の教えを受けたことがあるが、決行には、直接の影響はなかった。

 橘孝三郎。
 配下の愛郷塾生を率いて5.15事件に参加し、変電所襲撃を担当したが、
 橘は、持論として、いわゆる国民共同体王道国家の建設を主唱し、農本主義の下に国民は相互に兄弟愛をもって相提携し各自の天職使命を果たすべきものなりとの思想を抱きおりて、元来破壊思想を抱懐しおりたるものにあらざるが故に、橘の思想は、この事件に影響はなかった。

 これらが、長文の論告の中で注目された部分だ。

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テロルを、国民が熱狂的に支持。   一人一殺 43

2006年07月25日

 血盟団首領、井上日召の人物像を、

 「一見食えない人物だが奥ゆかしさもあり、実行力にも富んでいる。海軍部内にも信用を博していた」

と、
 5.15事件の海軍側関係者、林正義(28)が、
 1934年(昭和9)8月23日の公判で証言する。

 その後、証人台に立った、「思想並びに友人関係人」の木島完之(47)も、

 「井上君は国家改造を志していても忠君愛国の信念の強い人で国体問題には、実にしっかりした考えを、もっていた。井上君が世間から誤解される点があるとすれば、彼は左顧右眄せずに、傍若無人なところだろうと思う」
 と述べた。

求刑 きじ.jpg
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 林正義(28)は、海軍基地のある佐世保で、5.15事件の海軍側中心人物、藤井斉や、三上卓を通じて、日召や四元義隆と知り合った。

 被告日召の罪を軽くするために弁護する証言だったから、
日召の実像をありのままに述べているとは考えられない。
 おそらく、過剰に褒めている。
 話半分ぐらいに考えた方がいいだろうが、

 日召に、実行力に富んだ指導者として人望が集まっていたことは間違いないようだ。

 同年3月27日から、東京地裁刑事一部藤井裁判長(陪席 居森、伊能両判事)、木内、岸本両検事係りで審理された、
 盟主日召こと井上昭(あきら・48歳)ほか13人にかかる殺人ならびに殺人幇助の裁判は、

 この日、すなわち1934年(昭和9)8月23日の公判で事実審理と証人調べを終わった。
論告求刑は、同年8月28日に予定された。

 最初のうち、「国賊」と蔑まれていた小沼正や菱沼五郎らは、このころになると国士と呼ばれるようになった。

 国士とは、
 「身をかえりみず、国家のことを心配して行動する人物。憂国の士」という意味で、
 ヒーローみたいなものだ。

 5.15事件の裁判が、血盟団事件の裁判と同時平行して、審理されていた。
 これら二つの裁判の様子を伝える新聞記事は、当時としては膨大で、

 両裁判の被告たちの、国家改造運動の真意が、国民に広く明らかになった。

 その背景として、

 血盟団事件の裁判が始まってすぐ、
天野辰夫弁護士が、裁判長忌避などの裁判闘争を主導して成功させ、
裁判長が途中で交代した。

 その直後に、天野辰夫弁護士は、日召ら被告たちを救おうと、「神兵隊事件」まで起こし、
 テロルへの国民の関心がひどく高まった。

 そして、その後のやり直し裁判の法廷で、
井上日召ら14被告は求めるままに法廷証言が出来ることになった。
 こうした流れが大きかっただろう。

 この結果、

 国民30万人から、血盟団事件の減刑を求める「減刑嘆願書」が東京地裁の法廷に提出された。

 5.15事件の法廷(地裁、軍法会議)へは、100万人を超えた。

 日本の人口は1932年に7000万人を突破したばかりで、
いまより6000万人近く少なかった。
 メディアは、新聞のほかは、ラジオ放送が1925年(大正14)に始まっていたが、東京と名古屋にラジオ局が、それぞれひとつずつあるだけだった。

 人口約1億2600万人で、テレビ、パソコン(インターネット利用)が国民の隅々まで行き渡った現在に換算すれば、

 血盟団の30万人は、1000万人、
5.15事件の100万人は3500万人ぐらいと考えてもいいのではないか。
 「国民的人気がある」といわれる小泉首相も、足元にも及ばないほどの、熱狂的な支持である。

 国民全体へ広がったこうしたテロルへの爆発的ともいえる共感が、
次の2.26事件(1936年)につながった、
 といってもいい。

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 血盟団事件の公判回数は、開廷後6ヶ月で計62回。裁判長交代で更新される前の12回を合計すると計74回になった。

 酒巻裁判長忌避事件があったこともあって、
裁判長交代後の更新裁判では、被告たちの陳述を希望通りに許したため、14被告は法廷証言が、したいだけできた。
 
 陳述回数は、小沼正が16回、日召が9回と、まれに見る多さだった、
 と、同年8月24日の新聞は書いている。

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藤井の顔に導かれて。      一人一殺 42

2006年07月23日

 血盟団の海軍側の中心人物、
 藤井斉中尉=写真下=は、上海事変に出征直後の1932年(昭和7)2月5日、爆撃機に乗って偵察に出かけ、墜落炎上して死んだ。

藤井斉.jpg
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 その最後の様子が血盟団事件裁判の最終弁論で明らかにされた。

 藤井の僚機を操縦していたパイロット、井口大尉が、藤井戦死のすぐ後、屍を戦場に探していたとき、1人の支那人が、土饅頭(土盛り)の前で脱帽して拝礼しているのを見つけた。
聞きただすと、

「この土饅頭は、非常に偉い日本人の魂を祀っている。群がる支那軍の頭上に、ただ1機で飛んできて、150bぐらいの低空飛行をしながら爆弾を投げかけ、支那軍を壊走させたが、

 支那軍が撃った大砲の弾丸が当たって、遂に墜落した。その強さに感動して、軍の神として、支那軍で祀ることにした」と答えた。

 井口がクワを借りて掘ってみると、半ば焼け朽ちた藤井の遺骸が、軍服姿で出てきた。
 藤井の戦死は、2月7日の新聞で大きく報じられ、血盟団の同志たちにショックを与えた。
 そして、メンバーたちの多くは決起の際、藤井の写真を身につけて、テロルに動いた。そのうちの一人に、5.15事件で首相官邸を襲った村山格之少尉がいる。

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 藤井の戦死の4日後に、血盟団最初のテロル、井上準之助・前蔵相暗殺を成功させた小沼正=写真上=にも、エピソードがある。
小沼の著書「一殺多生」に出ている。

 藤井が戦死する前の時期に、小沼は決行に備えて身辺整理をしていた。
 兄の家に行き、預けてあった物を調べると、写真の束があった。中に、藤井の霞ヶ浦時代の写真が一枚あった。証拠を残すまいと、マッチで火を点けた。

「ああ、藤井が燃える」
思わずつぶやく私の側で、小学生の甥が面白そうに見ていた。兄嫁が気づいて、
「七郎さん。写真は燃やすものじゃありませんよ。縁起でもない」
と強く注意した。

 私がはっとした時、写真の藤井は上半身を少し残しているだけだった。
あわてて燃え残りを、私は、灰の中に突っ込んで消した。その時、嫌な物が心のカスとなって残った。

 後になって分かったことだが、ちょうどその時刻に、上海郊外の真如上空で、藤井大尉の操縦する戦闘機は、地上からの十字砲火を浴びて墜落炎上、彼は、武人として壮烈な死を遂げていたのである。
「藤井は自分の戦死を私に教えてくれたのだ」としか思いようのない出来事だった。

ザグラダ 近景.jpg
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 暗殺当日の1932年(昭和7)2月9日、
 決行を数時間後に控えて、小沼はお経をあげた。

 私はそれから数珠を持ち直し、今は亡き父に不幸の罪を詫びた。つづいて同志、藤井の菩提を弔った。

「貴様が多年、苦心し計画して来た、われわれの日本革命運動の火ぶたは、今晩ただいまから、この小沼によって切って落とされようとしている。在天の同志、藤井よ。霊あらば来たり、しこうしてみそなわし、それによって心おきなく成仏したまえ。今晩これから使用するピストルは、きさまが去年の夏、大連から苦労してあがなってきたもののひとつ。

 このピストルこそ、貴様の一念がこもり宿されているものと信じている。同志藤井の霊魂よ、安かれ。“南無妙法蓮華経”」

 私は将棋盤の上のピストルを、やおら握った。
「藤井、いよいよ今夜は、約束通り、貴様と二人で実行するんだぞ、いいな。」
 こう心に念じながら、藤井に言い聞かせるように、かちっと引き金を引いた。

 演説会場の、駒本小学校の門前で井上を待っている時に、藤井はもう一度現れる。

 眼をつぶり、静かに下腹に力を入れ、できるだけ気持ちを落ち着けながら、機会を待った。
突如藤井の顔がぽっかり私の前に現れた。

「おうっ、藤井っ」
 叫んだつもりが、声にはならなかった。
 その藤井の顔が、にこっと笑って、すうっと消えた。
 そのとたん、私の目の前が急に、ぱあっと明るくなった。
 はっとして眼を見開くと、一台の黒塗りの高級自動車が流れるように入って来て、エンジンの音も軽やかに、静かに止まった。

「藤井が井上準之助の来ることを私に知らせたと思います。藤井がにこにこ笑ってすっと消えたと思ったら、自動車がやって来た。藤井の霊がやっぱりこもっておったと感じた。

 これを警視庁の警部に言ったら、警部は、お化けみたいなことを言うな、
 と冷やかした」

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小沼の母は、火の向こうで涙を拭いた。 一人一殺 41

2006年07月21日

 血盟団の最初のテロル、すなわち、
 1932年(昭和7)2月9日午後8時4分、小沼正(21)=写真下=が、井上準之助・前蔵相=写真下の下=をブローニング拳銃で暗殺した最初の事件は、

小沼正 別P.jpg
(写真をクリック)


 同年1月9日夜、代々木上原の制度学者、権藤成卿宅隣の空き家「骨霊堂」であった会合で、

 「大事即決。2月11日の紀元節当日に、
一挙に革新の実を挙げよう


 と、夜10時頃から翌朝にかけ、悲壮な話し合いを続けて決めた方針に基づき実行された。
 会合参加者は、井上日召、古内英司、四元義隆ら民間側、伊東、大庭、古賀、中村ら海軍側の計10余人。

井上準之助.jpg
(井上準之助)

 昭和6年から7年にかけて、
 「国内情勢がもはや黙視するに忍びなくなった。ただ断である」と全員が覚悟を決めていたのだった。これは、1934年(昭和9)5月22日の公判で、四元が証言した。

 「国内情勢がもはや黙視するに忍びなくなった」とは、満州事変(1931年)で、農家の働き手だった若い男たちが兵士として出征させられ、働き手を失った農家が、窮乏をいっそう深めたとか、
 そのあたりのことを指しているのだろうか?

 5月23日付けの記事に書いていないから、想像するしかない。

記事 小沼変装 7.20 002.jpg
(写真をクリック)


 井上・前蔵相暗殺の前後について、
 暗殺者の小沼正(23)が、1934年(昭和9)8月7日の第56回公判で証言している。

 それによると、
 小沼はまず、1932年(昭和7)2月5日夜、西神田小学校に選挙応援演説にきた井上氏の顔をとくと確かめ記憶した。

 翌6日、日召からブローニング拳銃と弾丸25発を受け取り、郷里の茨城・磯浜海岸で試射をした。
 「時はあたかも旧正月だったが、百姓は、いたるところで愚痴をいっぱいこぼしていた」と話した。

 小沼は、今生の見納めに、実母に会いに行き、不幸の罪を詫びる。

 「お母さんは、無学文盲の百姓ではあったけれども、順逆の道をよく心得ていて、私の将来を戒めてくれました」
 と、心の中で、泣いて言い、外には現さなかった。

 けれども、母は、薪を焚く煙に、やがて静かに涙を拭いた。
 この場面を小沼が話すと、法廷内はしんみりした、

 と記事に書かれている。
 小沼の心の中で言った言葉が、母に通じたのだろうか。

 小沼は、
9日朝、日本大学付近に貼ってあったポスターで、同夜、井上・前蔵相が本郷駒本小学校に出演することを知り、
猛る心を静めつつ、古内と一緒に、近くの映画館で、坂下門事変の映画を見て帰宅した後、

 服装を商人風に整えて線香を焚いて経文を読み、故藤井斉少佐の霊を弔い、
 遙かに母に別れを告げ、
 これからやる暗殺決行の成り行きについて自ら、占った。

 「この瞬間には、傍にいた古内さんも、まったく路傍の人でした」と、小沼は語っている。

 駒本小学校に向かったのは午後7時半。
 井上がまだ見えなかったので、通用門前で待っているところへ、井上が自動車から下車した。

 つづけざまに3発を放って、井上を暗殺した。
 自殺しようとしたが阻まれた。
 小沼の証言だ。

 小沼は、この暗殺の時の心の中の様子を、
自著「一殺多生」に書いている。
 次回で紹介する。

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日召と四元、陸軍を見切る。    一人一殺  40

2006年07月21日

 「軍閥の中には、幹部級に私心の濃厚な者がいる。陸軍に同志を求めることは、もはや駄目だ」

 と、井上日召(1886―1967)と四元義隆(1908―2004)が、

 血盟団のテロルへ乗り出す前に、陸軍の軍人たちに見切りをつけていた。
その事実が、1934年(昭和9)5月19日、東京地裁であった血盟団事件の続行公判で明らかにされた。

 記事 侍従長も 7.20 001.jpg
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 また、天皇および皇后の、側近として仕える、侍従・女官・侍医など侍従職の長だった鈴木貫太郎侍従長(1868−1948、後の敗戦時に総理大臣)を、
古内英司と山岸中尉が暗殺しようとしていたことが、この日の法廷証言で初めて分かった。

 鈴木侍従長は、天皇が選んだ一番のお気に入りで、天皇が任用を決めた認証官だった。
 つまり、血盟団は、牧野伸顕内大臣はじめ、天皇の周囲の高官たちをすべて殺戮し、天皇を丸裸にしようとしていたのだった。
 革命と紙一重のところにいたといえる。

 日召にもっとも深い関係をもっていた、と見なされた四元義隆が、
 「○○○○(伏せ字 十月事件か?)によって改革が成就されるとは信じられなかった。陸軍も、覚醒されなければならないことがだんだん分かってきた」と述べ、

 「陸軍において、同志を求めることはもはや駄目だ」と諦め、
 いよいよ、民間側同志が一致してやることになった経緯を証言した。

 次いで、日召が立ち、

 「陸軍側も、海軍側も青年士官の純真さに遜色はない。
ただ、その純真さのあまり、老巧な人の言に乗りやすいから、
国家の本質論からではなく、現実的認識から憤慨する者が多い」と指摘し、

 軍閥(当時の陸軍の、皇道派のことか?)の中にも、幹部級には、私心の濃厚な者があることを指摘。

 最後に、
 「西田氏(西田税=1901―1937。2.26事件の後、叛乱罪・首魁で銃殺される)の心裏を早くから見抜いていたのに、なおかつ、国家革新運動の提携を策していたのは、その道の先輩であり、陸海軍同志たちとも連絡していたからだ」と述べ、

 十月事件、血盟団事件の裏側を暴露した。

 日召の法廷証言にある、
 「現実的認識から憤慨する者が多い」
とは、陸軍内部の、皇道派と統制派の派閥抗争や、人事など表層的問題での 不満などを指しているのであろう。

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 井上日召、四元義隆は、
 1483人の下士兵(内訳は、近衛歩兵第3連隊50数名、歩兵第1連隊400数十名、歩兵第3連隊は900数十名、野戦重砲兵第7連隊十数名)が叛乱部隊に参加し、高橋是清蔵相、斎藤実内相らを殺害、鈴木貫太郎侍従長らに重傷を与えた、大クーデター未遂事件、

 2.26事件より1年9ヶ月前のこの段階で、
 真崎甚三郎、荒木貞夫大将ら、事件に背後で係わったとされた陸軍皇道派幹部級の人々の、「濃厚な私心」が、
 国家改革運動をやがて失敗させることを予告していたことが見て取れる。

 日召たちは、
現実に対して、解像度が極めて強力な眼を持っていた、と言っていいと思う


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殺った後で、自殺はするな。     一人一殺  39

2006年07月19日

 初めは一体だったテロリストたちが二つの集団に分離し、
 一方は「血盟団事件」を起こし、もう一方が2ヶ月余り後に「5.15事件」を起こすことになった分岐点は、

 1932年(昭和7)1月31日に、東京・代々木上原の制度学者、権藤成卿方空き家であった話し合いだった。

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 1934年(昭和9)4月10日に東京地裁であった血盟団事件第6回公判で、
この真相が明らかになった。

 暗殺目標として、はじめ弱年の住友吉左衛門が話題になっていたが、
 「われわれは個人的に彼らと対立し敵として憎んでいるのではないから、あんな年少の者はやめろ」
 と、井上日召(1886-1967)が中止させていた。

 1932年(昭和7)1月31日に、権藤方空き家であった話し合いには、海軍側からも大庭、中村、古賀の3将校が参加した。

 直前に起きた上海事変で、藤井斉少佐ら海軍側参加予定者たちが召集を受けて応召し、

 テロル要員たちが、櫛の歯が抜けたように手薄になったため、井上日召が、
 「海軍側は後に残り、陸軍、民間の残党と共に、再挙をはかれ」と力説し、この結果、血盟団グループと5.15事件グループの二つに分離した。
日召は、暗殺決行後の態度についても注意を与えている。

 それは、

1 自殺するな
2 官憲を傷つけるな
3 あくまで、目的のあるところを社会に訴え、覚醒を促せ
4 特権階級、政党等に反省を求めよ

 そして目的遂行の段階とその中心人物は
▽ 第1段階――日召、藤井少佐
▽ 第2段階――四元、三上中尉
▽ 第3段階――小沼、伊東少尉
となっていた。

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 日召は、1月31日に最後の酒宴を張った場面を述べた後、
「何事も私が中心となってやっていたために、もし私が中途で倒れたなら……という心配が大きかったが、5.15事件なども私がいたらあんなことにならなかったろうに……」
と、自信に満ちた感じで話した。

日召は、
小沼、菱沼の暗殺目標選定の様子について、

 「小沼は井上準之助をやろうかと言ったようです。菱沼は、どうせ知らない人ばかりだから、誰をやっても同じだが、そんならこれでもやろうか、と言って、団琢磨を選んだようです」

 上京した京都の同志、田倉、星子、森3人について、
 「牧野内大臣をやるのに、四元一人では困る。誰か、応援して、自動車にでもひかれたら、その隙に乗ずるのがもっともよいと言っていたので、田倉が共にやることとなった。森は、犬養首相をやることに、星には未定だった」
 と述べた。

同志選択の基準は、

 1 純真であること
 2 実行力のあること

 この2点を基準にして、同志を選択した、と語った。


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政府高官の売勲汚職でテロを決意  一人一殺 38

2006年07月18日

 裁判長忌避問題で中断していた血盟団事件の裁判は、
1934年(昭和9)3月27日午前9時、東京地方裁判所(藤井裁判長)で、8ヶ月ぶりに開かれ、


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 井上日召(1886-1967)=写真上=が、
「支配階級一人一殺」の決意を固めることになった理由を述べた。

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(写真をクリック)

 決定的な影響を受けたのは、1929年(昭和4)に発覚した「売勲事件」と、政府の失政に苦しむ農民たちの姿だった。

 日召は、
 「もうこれでは、日本の支配階級というのものには絶対に信頼を置くことが出来ない。また、現在の国民もあまりに弱すぎる」
 と思い、自ら改革の捨て石になり支配階級一人一殺の、根本決意を固めるに至った、と述べた。

 「売勲事件」とは、1929年(昭和4)、田中義一内閣時代の賞勲局総裁だった天岡直嘉が財界人から金をもらい、職権によって勲章を濫発した汚職事件だった。

 「失政に苦しむ農民たち」は、日召が郷里・群馬県に帰った際に知った。
 農民の一人が御大典記念の滞納税整理に遭い、作物を競売され、不平を漏らしているのを聞き、その内容の悲惨さにがく然とした。
 役人たちの失政に気づき、これを改革すると同時に、農民を善導する必要を痛感した、という。
(この農民の苦しみについては、もっと正確に鮮烈に書いてほしかったな=筆者注)

裁判長 「被告の国家意識は?」

日召 「支那から帰朝し、身延山に籠もった頃から、世界とはすなわち日本、との日蓮上人の言葉を深く味わい、わが日本国の精神は、天照大神によって伝えられた大宇宙の精神に外ならぬことを悟り、動かすべからざる国家意識を持つにいたったもので、この点、ほかの日本主義者等とは全く違っています」と、
 青年時代からの懐疑を打ち破った日召哲学を述べた。

 次に、手段について。
 最初は自己の体得した宗教的信念を基礎とした啓蒙運動によろうとし、
まず、自分と生死を共にする5人男を選び、朝に農民の手助けをしながら、夕に教化を説き、1人が、1月に1人の新しい同志を獲得する、ねずみ算式の倍加運動を考え、これで、無抵抗的に東京を、議会を、包囲し、平和の内に事を運ぼうと、古内、小沼の2人を得るまでにいたったが、
 たまたま、霞ヶ浦航空隊付きの藤井(1932年2月5日、上海事変で戦死し、海軍少佐に。5.15事件とも関係が深い)、鈴木両中尉と相知り、

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 特に、藤井斉中尉=写真上=から、
 「和尚(日召のこと)は寺にいて、お経ばかりを読んでいるから、そんなのんきなことをいうのだ」
 と、火を吐くような舌鋒で、直接行動を主張される事態になり、
日召は、時局認識の必要を痛感、すぐに上京して、いろいろの状況を見て、藤井の説に深く同意するにことになり、
 ここに、啓蒙運動を捨て、直接行動を決意することになった。
 などと述べた。
 
 1934年(昭和8)3月28日付けの記事によると、
 血盟団事件に続いて起きた5.15事件の裁判が、一足先に既に確定したこともあってか、空気は落ち着いた感じ。傍聴人は定員約50人だったが、争奪の騒ぎもなく、厳重な警戒だけがいたずらに物々しかった。

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 法廷は午前9時に開かれ、裁判官、判事、弁護士らが着席した後で、
地下道から、編み笠姿の元京大生、田倉を先頭に、黒紋服の被告14人がいずれも元気な足取りで入廷。

 日召は引き締まった顔。古内は頭髪をオールバックにし、口ひげを生やしていた。
 小沼1人が病気のため看守に守られて遅れて入廷した。

 検事席前の訊問席に立った日召は、
前回とはうってかわってすこぶる歯切れのいい口調で、神兵隊事件で逮捕され病死した山口三郎・海軍予備中佐と不思議な関係をもった、海軍軍人の亡兄のこと、

 侠客、大前田英五郎の縄張りに、侠気の父親に育てられた幼少期、
深く決心して、東洋協会学校に支那語を学び、明治43年から渡支して諜報活動勤務につき、
 何度か生死の境をくぐり、また、辛辣な手段で、数十万の富をも築いたが、
結局人生に対する深刻な悩みをいかんとも出来ず、大正末期にすべてをなげうって、帰国したという、波瀾万丈の懐旧談を熱弁し、満廷を傾聴させた。
と書いている。

 1934年(昭和8)3月28日付け社会面の記事の中に、次のくだりがある。

 裁判長は、帰朝後、水戸大洗海岸の修養所「護国堂」に閉じ籠もったのに、再転し、国家改革運動に投ずるに至った事情を質した。

これに対し、日召は、

 しみじみ当時の内心の煩悶を物語り、○○○○(伏せ字、十月事件か?)を契機とし、次第に維新の捨て石たらんとの考えを固めるに至った心の動き、
 特に関東大震災後の支配階級の悪辣ぶりに刺激された点などを打ち明け、珍しくうち解けた陳述ぶりに小沼、菱沼らの同志の猛者連も耳を傾ける。

 かくて日召は、さかのぼって支那時代からの親友、前田虎雄(神兵隊事件首謀者の一人)、本間憲一郎(5.15事件被告)らと交わり、啓蒙運動を起こそうと、水戸の高井徳次郎(田中光顕氏秘書)らと提携し、
 前田の薦めで建国会の創設委員にもなったが、故上杉慎吉博士(元東大憲法学教授)と衝突し、結局、また人物を磨かねばと、静岡県原町の禅寺に籠もった経緯などを話した。

 この日午後1時5分に再開された法廷傍聴席では、
病気の小沼正が熱で真っ赤になって氷嚢を抱えて席に着き、日召の陳述を聞いた。

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天城山中 河津七滝に行ってきた。

2006年07月17日

 37度、85%(湿度)の猛暑にうんざりして、
伊豆半島南部の、標高3、400bの山中にある、河津七滝へ行った。

 「大滝」へ、小道を降りてゆく。
 強い日差しに射られて、緑に染まった広葉樹の葉群や枝々の間から、4、50bもの谷底に、
 岩のある所で白い波頭をつくって下ってゆく、速い、澄んだ清流が見える。
 大量の水が30bの高みから落ちて水面を打つ音。低く絶え間なく腹に轟く。

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 大滝の全景が見える場所に着くと、
冷気が風になって押し寄せてきて、炎天下を歩いて熱くなった顔をなでた。 風には、滝壷で絶え間なく生まれる霧が乗って届く。

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 滝壺近くの川に下りて、足をつけると、だいぶ冷たい。
 そうだな、冷蔵庫で冷やしたビールぐらいな感じ。

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 いっきに滝壺の方へ歩いてみた。
水面上を伝ってくる霧がどっと押し寄せてきて気管に入り、息ができない。後ろ向きになってしのぐ。

 水面が絶え間なく激しく波立ち、なんだか不穏だ。
足が支えを失い、服を着たまま沈んだ。顎までつかった。
慌てて足を蹴って泳いだ。
川床が、滝壺近くで急に深くなっている。

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 右足ふくらはぎに、何かがしつこくぶつかってくる。
何だ? 流木か? 水面に顔をつけてみると、
30a以上はありそうな魚が、またふくらはぎにぶつかろうとしているところだ。
 滝壺に上がった鱒だったらしい。

 川にはまったのは、2、3分だったろう。
川岸によろよろと帰り着いたとき、寒くて両腕は鳥肌立ち、
全身ががたがたと震えた。頭の芯が、かき氷を食べたときのようにツーンとした。

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 天城山の深い森林が蓄えた水は、清らかで豊かだ。
 滝のある谷には、あちこちで、澄み切った水がふんだんに噴き出している。

 河津七滝は、天城峠の南側の、河津川とその支流にある。
峠の北側には、カラオケで人気の演歌に歌いこまれた「浄蓮の滝」がある。

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「現在地」と赤で書かれたあたりに、河津七滝がある。
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浅草の上人が考えた大殺戮   一人一殺 37

2006年07月15日

 日本の支配階級、ならびに準支配階級、6000人を、いっきょに殺戮する。

 すさまじい計画だった。

 考えたのは、日召が尊敬する浅草妙教寺の豪傑僧、野口日主上人。
 「時に井上君、かねてのこの案をこの際実行したいが、喋ったり書いたり、気運をつくるほうは、我々老人が当るから、君はまげて実施を引き受けてもらいたい」と頼まれた。

 で、井上日召(1886-1967)は、実は非合法には反対だったが、敬愛する上人に実行力を見込まれたため、いやおうなく承諾した。日主上人は、右翼玄洋社の頭山満や大連の金子雪斎翁と肝胆相照らした仲で、以前から国家革新の志をもっていた。

 前後のいきさつは、
 日召が、浅草妙教寺の豪傑僧、野口日主上人を、訪問すると、そこには、雪斎翁もいて、期せずして三人の旧知が一堂に会し、いろいろな世間話をした。その後で日召は2人からそのように頼まれたのだった。

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 日本の支配階級・準支配階級6000人を、いっきょに殺戮して国家改造をするというすさまじい構想は、

 「人1人の命は、地球よりも重い」という、
 19世紀以来の、人命重視のヒューマニズム(人道主義)が常識になっている現代人からすれば、
ナチスドイツの妄想か、漫画の世界の話に見えてしまう。
顰蹙する人も多いだろう。

 「両翁は手軽に言うが、その内容は大変なのだ。かねての案というのは、日主上人と雪斎翁が長い間練り上げた、国家改造の具体案で、純然たる非合法である」
 と、日召が「血盟団秘話」の中で愚痴るのも無理はなかった。日召の中のヒューマニズムがそのように悩ませている。

 仏教修行を長年積み、智徳を備え、誰からも敬愛を集めていたはずの高僧、野口日主上人が、
6000人殺戮を、真剣に考えていたのである。
 何という逆説。

 仏教で修行を積む僧侶たちは、生死についてより深く考えている人々といえるのだろうか。
 その一人が、
 「支配階級の6000人を一挙に殺せ」といったのだから。禅問答のようなわからなさがある。

 禅に、
 「父母未生(ぶも・みしょう)以前の汝の面目はいずこにあるか?」という公案がある。

 あなたのお父さんお母さんが生まれる前のあなたのありさまは、どんなだったの?

 または、

 あなたのお父さんお母さんが生まれる前にあなたはどこにいたの?
というのが質問の意味。

 家庭や職場、社会の中で相対的な存在にすぎない自己という立場を離れ、絶対・普遍的な真理としての「あなた」とは何なのか?
と尋ねている。

 公案というのは、禅宗で、修行者に悟りを開かせるために、研究課題として与えられる問題のこと。優れた修行者の言葉や出来事から取られており、日常的思考を超えた世界に修行者を導くものだという。

 この公案の中には、すでに回答へのヒントが含まれているのではないか。

 父母が生まれる前に、父母の子どもである私が存在するはずはない。
だから、この公案は、祖父母、父母、そしてあなた(私)へと延々とつながってきたものへ、修行者が、思いを巡らせるように導く仕掛けが組み込まれているように見える。

 その仕掛けが導く答えは、
自然の中で続いてきた命の連続というあたり、ではないのか。

 この公案は、さらに難しい段階へ私たちを誘う。
それは、「私」とは何なのか? 
 という問題だ。

 気が付いたら、この世にすでに生まれていて、父母がいた。
 父母は、子どもの肉体は生んだが、その子どもの「私」(心、精神)を生んだわけではない。

 「私」には名前がついている。
 その名前がついた私が私である、と解釈して、納得できれば幸せなんだが、その名前が付いた「私」を「私」と思っているこの意識とは何か?

 個人の名前は、父母か誰かがつけた仮のもの、記号に過ぎないからね。

 そこを考えていくと、
 「私」を「私」と思っている意識は、誰でもない、非人称の意識。
 表現を変えれば、
 私はすべてである、
ともいえる、のかもしれない。

 こういうことを修行を通して考えているせいかどうか知らないが、
 お寺の坊さんは、人の命について、ドライなのではないだろうか。

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 筆者は禅寺へ座禅に通ったことがある。

 座禅が済んだ後の、老師との座談で、老師が、
 「人の命というものは、水面に浮かぶ泡のようなものです。泡がはじけて消えても悲しむ人はいないでしょう」

 とか、

 「みなさんは、自分の前方(未来)に向かって時間が流れていると考えているかも知れませんが、それは錯覚です。人にはあるという絶対的な現在、つまり今しかないんです。今、ある、です」
 などというのを聞いたことがある。

 仏教修行者のこういう、修行の末のドライさと、
 「支配階級の6000人を一挙に殺せ」
 という考えがどこかでつながっているのかどうか?
 新たな公案だ。

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支配階級の6000人を殺せ    一人一殺 36

2006年07月14日

1932年(昭和7年)7月11日時点の、
日本の政界のリーダーや大立て者を皆殺しにして、
天皇親政の政府を樹立し、国家改造をただちに実現する、

 という、創造力に満ちた、華麗な大クーデター計画「神兵隊事件」は、
東大憲法学教授上杉慎吉の一番弟子で、右翼イデオローグ、天野辰夫弁護士=写真下=のオリジナルではなく、

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 血盟団事件の井上日召(1886-1967) =写真下=が抱いていたもので、
 日召が、自分の弁護活動をしてくれるやり手の天野弁護士への信頼感から、

 公判対策への打ち合わせが進む中で密かに打ち明け、
「それなら私が……」と、天野が引き継いで、
この大クーデター計画実行の首謀者になった経緯があった。

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 日召が打ち明けて、天野が設計図を引いた、「神兵隊事件」のクーデター計画の内容を、再現してみる。すなわち、

 陸軍、海軍、民間右翼が連合して、
首相官邸を襲い、斎藤実首相以下牧野伸顕内大臣ら全閣僚を殺害し、
鈴木喜三郎政友会総裁、若槻礼次郎民政党総裁、山本権兵衛元首相なども、私邸または政党本部に襲って殺害、

 警視庁も襲撃して、警視総監を殺害するとともに、占拠して、神兵隊本部にする。裁判所を襲撃して、井上日召など血盟団事件の被告たちを奪還する。

 これらを予定通り実現するために、
 横須賀の海軍基地の同志たちが、ここから飛行機を飛ばし、官邸、警視庁に爆弾を落とす。
 警視庁を占拠した本隊は、ここに立てこもり、戒厳令が発動されるまで頑張る。

 この間に政治工作を進め、東久邇宮または別の皇族に頼んで、皇族を首班にする臨時政府をつくり、国家改造を速やかに進める。

 「財閥と癒着し、金まみれの」腐敗した政界の大物たちを皆殺しにするというのは、過激である。
 「実現していたら、2.26事件以上に凄いことになっていた筈だ」
と、立花隆も「天皇と東大」に書いた、

 この大クーデター計画が、日召の心に像を結ぶ前の、
 出発点の光景がある。
 井上日召自身が、「血盟団秘話」の題で、
 1954年(昭和29)7月の文藝春秋臨時増刊号の特集「昭和メモ」に書いた文章だ。
 引用してみる。

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 私は七歳の時にお盆の秋草を採っていて、「桔梗は紫で女郎花(おみなえし)は黄色い、
 なぜだろう」ということに疑問をおこして以来三十年、あらゆる天地間の現象に懐疑をいだき、

無限の闇黒世界を彷徨した。人生の真とは何か、善とは何か、これの解決に死以上の難行苦行をつづけたのであった。

 大正十年の春、中国の革命運動から、ほとんど日本に亡命するような恰好で帰国し、郷里の群馬県川場村の三徳庵で修行中、十三年の五月、はからずも開悟(かいご)の機縁に恵まれ、

 三十年の疑問を一瞬に氷釈(ひょうしゃく)しえたのである。
 その年の七月、私は天の声をきいた。「九月五日を期して東南に向かって進め」というのである。これが私の日本革新運動に起ち上がる、第一歩だ。三徳庵から東南は、東京に当る。

 浅草妙教寺に野口日主上人という、豪傑僧がいた。頭山満翁や大連の金子雪斎翁と肝胆相照らした仲で、かねて国家革新の志をもっていた。ある日、野口上人を訪問すると、雪斎翁も上京して、期せずして三人の旧知が一堂に会した。

 その時、いろいろな話の後で、
 「時に井上君、かねての案をこのさい実行したいが、喋ったり書いたり、気運をつくるほうは、我々老人が当るから、君はまげて実施を引き受けてもらいたい」という。

 両翁は手軽に言うが、その内容は大変なのだ。かねての案というのは、日主上人と雪斎翁が長い間練り上げた、国家改造の具体案で、純然たる非合法である。その中に、日本の支配階級、ならびに準支配階級、六千人の殺戮なんという、すさまじい項目があるのだ。

 私は二人に見込まれて、いやおうなく承諾したが、実は非合法には反対だった。私は当時、同志倍加運動で革新ができると信じていた。それはつまり五人の同志が毎月一人ずつの同志を獲得し、新しい同志がまた毎月一人ずつの同志を獲得するという行き方で、無血革命を成就しようとするものだった。

 しかし、この考えは甘かった。
 それはともかく、私は革新を引き受けたのである。引き受けた以上は実行しなければならぬ。

 さて、何から始めるか? ついでに言っておくが、国家革新というと、誰でも、その源流として、北一輝や大川周明や満川亀太郎らを思い出す。しかし、それらの錦旗(きんき)革命派の他に、

 金子、野口両翁の革新計画があったのだ。それを世間の人は知っていない。金子翁の振東学舎の幹部だった、本間憲一郎すらもこれを知らなかった。

 さて、革新だ革命だと騒いでみても、決してできるものではない。根本は人だ、人間だ。私はまず私の計画を実行するに堪える人間から造ってゆかねばだめだと思った。

 昭和の初めに私は茨城の大洗に近い、立正護国堂を本拠として、青年の練成に余念がなかった。集った者は、主として茨城の青年で、古内栄司、菱沼五郎、小沼正ら二十余名であった。これに海軍の藤井斎、古賀清志らが合流し、後には安岡正篤や大川周明、西田税らによって養成された陸海軍将校や民間青年が、みんな周囲に集まって来た。

 安岡や大川や西田はさかんに革新を説いて、青年を煽動するけれども、決して先頭に立ってやろうとはしない。そこで和尚ならやるだろうというので、みんな寄って来たわけである。

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「神兵隊事件」の被告44人、刑を免除 一人一殺 35

2006年07月13日

 弁護士、天野辰夫は=写真下=、優秀ではあったが、横紙破りで軽率な人物だったようだ。

天野辰夫.jpg
(写真をクリック)


 「横紙破り」とは、国語辞典によると、

 〔和紙は漉き目が縦になっていて、横には破りにくいことから〕
 自分の意見を無理に押し通すこと。常識や習慣にはずれたことを平気ですること。また、そのような人。

 法廷で、罪人であった、井上日召や、5.15事件の被告たちを弁護するのが仕事だったのに、
 その仕事の枠を乗り越えて、天皇親政の政府実現や、日召たちを救うため、ついに、大クーデター計画「神兵隊事件」の首謀者になって、逮捕されてしまった。

 立場をわきまえない、エキセントリックな(ひどく風変わりな、あるいは、奇矯な)人、
 という人物評がどこからか聞こえてきそうだ。

 天野は、血盟団事件の裁判闘争で、被告11人に裁判長の忌避を指導して、酒巻貞一郎裁判長を追い詰め、ついに辞職に追い込んだばかりか、
自分の裁判でも、鋭い姿勢で闘い、裁判長や陪席判事たちをたじたじさせ、
最終的に、無罪に均しい「刑の免除」を勝ち取った。

 自らを裁く法廷で、天野は、
自分たちをただの刑法犯として扱わず、国士として扱ってもらいたいとして、内乱罪として立件されることを求めた。

 この結果、天野辰夫ら被告44人は、殺人予備、放火予備、そして爆発物取締罰則違反の罪名でいったん東京刑事地方裁判所に起訴されたが、
その後、訴因が内乱予備罪に変更され、大審院の特別裁判部に回されて審理された。

 一方、被告グループ内部では考えが分かれて法廷はもめ続け、
一部が分離裁判になるなどして、大審院で公判が開かれるまで4年かかった。昭和12年である。

 神兵隊事件の裁判は結局、7年半あまり続いた。

 その結果、
 1941年(昭和16)3月15日の、第160回目の公判で、内乱予備罪は構成しないと判断され、
「刑の免除」で刑務所に入らなくていいよ、
 という意外な結果になった。

 つまり、無罪ではないが、受刑する義務はなく、被告たちは放免という、
訳の分からない玉虫色の判決である。

 宇野裁判長の言い渡しは、
「内乱罪を構成せず刑法第201条殺人予備同第113条放火予備罪に照らし刑を免除する」

 その判決理由が、3月16日付けの紙面に出ている。
どうも腑に落ちない判決なので引用する。

銀座 ビル2.jpg
(写真をクリック)


 すなわち、

 検事は、本件暴動計画は、政治の中枢たる政府を転覆し、その他憲法および、諸般の制度を根本的に不法に変革せんことを目的としてなされたるものなるが故に内乱予備罪を構成する旨主張するをもって、案ずるに、内乱罪の成立には朝憲紊乱の目的あるを要す。

 しかして、刑法にいわゆる朝憲紊乱とは、皇国の政治的基本組織を不法に変革することをいうものにして、
 朝憲紊乱の一として刑法に例示せらるる政府の転覆もまたこの意義に解すべく、従って単に時の閣僚を殺害して内閣の更迭を目的とするにとどまり、

 暴動によりて直接に内閣制度その他の朝憲を不法に変革することを目的とするものにあらざる時は、朝憲紊乱の目的なきものとして内乱罪を構成せざるものと解すべきこと。先に当院の判例とせるところなり。

 これでもなんだかよく分からないが、
左翼革命と違って、「右翼革命」をめざした神兵隊事件の君たち44人には、天皇制をなくしてしまおうとするつもりはなかったようだから、
許しちゃうよ、
ってえことらしいな、どうも。

 天野弁護士のことは、
立花隆「天皇と東大 」の第35章「日本中を右傾化させた 5.15事件と神兵隊事件」などに詳しい。
 これによると、

 天野は、1892年(明治25)、島根県生まれ。
非常に厳格な家庭に育った。
 「米のご飯をいただいては天子様と同じになると、いつも麦飯を食べ、
 「三度三度ご飯をいただく際、その都度臣民たることの反省」をさせられて幼少期を過ごした。

 警察官・郡長を務めた父の勤務の関係で、中学校まで広島・神奈川などを転々とし、1910年(明治43)、名古屋の第8高等学校に進んだ。1913年(大正2)、東大法学部に入学。
 希代の天皇中心主義者、天皇の権力絶対主義者だった、
憲法学教授、上杉慎吉と深い師弟関係が生まれた。
 「天皇機関説の撲滅」「国体の明徴」を目指して国歌改造運動をするようになり、東大に右翼の学生団体「木曜会」、これを母体に「興国同志会」を結成した(1918年)。

 天野は、1919年大学を卒業し、弁護士になったが、右翼的政治活動は続けていた、という。

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神兵隊事件 壮大なクーデター計画   一人一殺 34

2006年07月12日

 1933年(昭和8)7月10日深夜、
 神宮外苑参道橋際の神宮講会館に集合した後で
総動員された警視庁特高課員たちによって缶詰めにされ、最終的に逮捕された右翼団体代表等49人の出身地の内訳は、

 兵庫県7人、大阪府15人、京都府8人、東京8人、奈良1人、徳島1人、
 それに、茨城方面から9日夜、11人が上京して下谷車坂の霞館に宿泊、他の17人が10日午前3時ごろ、大型バスで乗り付けたが、警察の動きを知り、会館には入らず引き返した。

証拠品など発見2.jpg
(写真をクリック)


 参加者たちは、全国各地から動員されていた。

 事態を重く見た警視庁は、
檄を飛ばしてこれらの参加者を集めた、大日本生産党を捜査した。
この結果、11日午後になって、「驚くべき陰謀」の存在が明らかになり、急進分子のアジトが、渋谷区若木町28にあることが分かった。
 同夜8時半、特高課の藤井警部ら捜査員たちがアジトを捜査したところ、
 日本刀3口、短刀1振、木剣1本、揮発油を入れた水筒18個、ライター8個、スローガンを大書したのぼりざお10本の他に、
 警視庁庁舎の見取り図があった。
 ほかにも、行動完了後に散布する予定だったと見られる、激越な内容の檄文、
「一死報国」と書かれた文字の下に、
同党青年部中央常任委員影山正治、愛国勤労党幹部長代秀之ら4人の名を書いたもの、菊水の紋章が入った手ぬぐい10数本などもあり、これらは、かれらが行動するときに使う積もりだったらしい=上の写真の記事参照

 16日早朝には、
渋谷区穏田町2の72、古物商田所兼次郎方から日本刀41本を押収した。
 7月22日までに、ほぼすべての参加者を検挙、または逮捕、武器を押収している。

日本刀41本 4.jpg
(写真をクリック)


 その内容は、
 検挙・逮捕者が、東京、茨城、栃木、群馬、大阪、京都で、大日本生産党員を中心に右翼の急進分子120余人。
 押収された武器は、襲撃用の日本刀97本、モーゼル、ローヤル、回転式各3丁ずつのピストル計9丁、弾丸518発、放火用の揮発油、文書などだった。

 捜査の進展に伴い、事件の壮大な全貌が明らかになった。

 それによると、
 陸軍、海軍、民間右翼が連合して、
一隊60人は、首相官邸を襲い、斎藤実首相以下全閣僚を殺害する。
別の一隊40人は、牧野伸顕内大臣、鈴木喜三郎政友会総裁、若槻礼次郎民政党総裁、山本権兵衛元首相などを、私邸または政党本部に襲って殺害する。
 別の一隊200人は、警視庁を襲撃して、警視総監を殺害するとともに、占拠して、神兵隊本部にする。

 裁判所を襲撃して、井上日召など血盟団事件の被告たちを奪還する。

 これらを予定通り実現するために、
横須賀の海軍基地の同志たちが、ここから飛行機を飛ばし、官邸、警視庁に爆弾を落とす。
警視庁を占拠した本隊は、ここに立てこもり、戒厳令が発動されるまで頑張る。
 この間に政治工作を進め、東久邇宮または別の皇族に頼んで、皇族を首班にする臨時政府をつくり、国家改造を速やかに進める。

 「神兵隊事件」を要約すると、

「 日本の危機的状況を救う」ために、
皇族を首班とする非常時内閣を作って、一挙に国家改造を断行し、
昭和維新を実現しようというような感じのものだったらしい。

 構想の点からいうなら、
 後の、2.26事件よりもはるかに壮大なクーデター計画だった、といえる。

 天野辰夫=前回の写真参照=は、この計画の総帥になり、指揮することになっていた。
決起日は7月11日、つまり、
神宮外苑参道橋際の神宮講会館に続々集合した49人が、警視庁特高課に缶詰めにされて逮捕された日(10日深夜)の翌日に設定されていた。

 天野らは、2ヶ月前の5月から、武器弾薬の入手、動員計画、襲撃場所の下見など準備に入っていた、という。

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日召奪還へ大クーデター計画     一人一殺  33

2006年07月11日

 井上日召ら血盟団事件の被告14人を裁く、東京地裁刑事一部の裁判が、
被告側のペースにはまってしまった背景には、それなりの事情があった。それは、当時の新聞記事には書かれてはいないが、
先鋭な右翼思想をもつ、有能な弁護士がリードする裁判闘争が背景にあったのである。

 5.15事件がらみで公判が初めて公開禁止になった、小沼正の陳述を報じる1933年(昭和8)7月22日の記事=写真下=に、その背景の事情がちらりとのぞく、
次のくだりがある。

裁判記事  公開禁止.jpg
(写真をクリック)


 「訊問に先立ち奥山弁護人から第二回公判廷で問題となった尾後貫判事の件につき、天野弁護士の質問は調書に載っているか、とただしたが裁判長答えず、直に前回の後を受け、小沼正の………」

 このくだりに出てくる「裁判長」は、井上日召ら11被告の裁判長忌避によって、
 「健康」を理由に、4ヶ月余り後の同年12月9日に辞職した酒巻貞一郎裁判長。
 そして、「天野弁護士」とは、天野辰夫=写真下=である。

天野辰夫.jpg
(写真をクリック)


 5.15事件の弁護士団の一人であり、
 1933年(昭和8)6月30日の、血盟団事件の第二回公判の時点では、日召ら被告14人の、約30人の弁護士団の中の一人でもあった。

 天野辰夫は、弁護士という職業の枠内にとどまり続けるには、抱える感情の分量が大きすぎる人物だったようだ。

 血盟団裁判、5.15事件裁判の弁護活動を続ける内に、実現されなかった右翼団体がらみの、大クーデター計画を知り、
 自らが首謀者になって、この大クーデターを実行しようと動いたのである。

 すなわち。
 それは1933年(昭和8)7月10日に発覚したクーデター未遂事件、
「神兵隊事件」だ。

 目的は、血盟団の井上日召の奪還。
 公判中に裁判所を襲撃し、日召奪還をきっかけにして、一戦を交えるため、
あらかじめ5万人の同志を得ようとしていた、という。

 同年7月12日付け夕刊に、この事件の第一報が出ている。
 ドキュメンタリー風の書き方になっていて面白い。
 紹介したい。
 それによると、

 かねてから、日本生産党中央常任理事鈴木善一等の名で、
「国難打開」「国防祈願」のためと称して、同党各地方支部や各右翼団体に檄が飛び、
 全国から同志を集めて積極的行動に出ようとする情報があり、
これとともにいろいろな不穏な情報があったため、警視庁が厳重な警戒をしていたところ、

 7月7日に、鈴木善一の名で、各支部に、「上京せよ」との指令が出たので、
 警視庁は緊張して監視していたところ、この日は集合は取りやめになった。

 引き続き警戒していたところ、
 10日になって、生産党はじめ、各右翼代表が密かに上京、神宮外苑参道橋際の神宮講会館に続々集合しつつあるという情報が入り、

 警視庁特高課が同深夜、安部特高部長、毛利課長指揮の下に、課員を総動員して同会館に差し向け、
 同会館に集合していた右翼団体代表等49人を中に缶詰めにし、

 手分けして各人の取り調べをした結果、
 生産党員の石井脅、小野義雄、小松崎茂、片岡俊、影山正治、愛国勤労党幹部、前田虎雄、村岡清蔵ら8人を逮捕した。

 11日午前3時には、この右翼の会合に参加するため、「愛郷塾」の流れを組む、北相馬郡布川町長小池銀次郎ほか10人が、10日夜7時に水戸を出発し、会館間近にさしかかったが、警官の警戒が厳重なため、そのまま引き返していた。

 これらの情報に、警視庁は、11日未明、警備課員を動員し、首相官邸、各大臣官邸、その他、要路の名士邸の警備員を倍加し、不測事態に備えた=下の写真の記事参照

神兵隊 端緒1.jpg
(写真をクリック)

 水戸から、右翼団体「愛郷塾」の流れを組む民間右翼の17人が、11日午前3時に、この右翼クーデターに戦闘員として参加しようと、
バスで神宮外苑の会館付近に着いたが、事件発覚を知り、あわてて引き返していたのだ。

 首謀者、天野弁護士の名前は、この時点、つまり、1933年(昭和8)7月11日段階では出ていない。
 捜査の進展に伴い、3ヶ月余り後の同年10月13日になって、

 のちに「神兵隊事件」と呼ばれるこの事件の全被告63人の中心人物として、殺人、放火予備罪の共同正犯で水上署が逮捕した。
 天野弁護士は、右翼団体「愛国勤労党中央委員」だった。
 天野弁護士の訴因は、後に、内乱予備罪に変更された。

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裁判長忌避 被告の意思が通る     一人一殺 32

2006年07月10日

 「裁判長には、私たちが、なぜこうした事件を起こそうと思い立ったのかという一番大事な点。
つまり、血盟団事件のテロリストたちの、やむにやまれぬ動機や原因を、十分に聞こうとする姿勢がない」
 として、
 井上日召ら血盟団事件の被告11人が、担当の酒巻貞一郎裁判長の忌避を申し立て=写真下=

 裁判長が交代するという出来事が、1933年(昭和8)夏から、12月13日にかけての5ヶ月の間に起きた。この間、裁判はストップ。結果として、日召らの主張が受け入れられ、血盟団事件の裁判は、これ以後、明らかに被告側有利に動き出す。

裁判長忌避 棄却.jpg
(写真をクリック)


 1933年(昭和8)9月1日の記事中には、
 「裁判長の日召訪問問題」という表現が出ている。酒巻裁判長が、拘置所の日召を訪問していたらしい。理由は、日召による裁判長忌避申し立てを打開するためだったのだろうか。今となっては、推測するしかない。

 記事によると、波乱を重ねた、日召らの裁判長忌避申し立ては、「訴訟遅延を狙っている」として、酒巻裁判長が却下。
 日召ら11被告は即時抗告し、この抗告事件は、東京控訴院刑事三部の吉田裁判長係りでさらに審理された。

 日召らの抗告は、8月29日に棄却された。
 「審理は、動機原因を先にする場合も、また後にする場合もあるから、審理が終わらないうちは、直ちに偏った裁判をする恐れがあるとは言い難い」というのが、東京控訴院の吉田裁判長が示した抗告棄却決定の理由だった。

 日召らの裁判長忌避問題は、これでいったん落ち着いたかに見えたが、
強い姿勢を見せていた酒巻貞一郎裁判長が、やがて辞表を出し、人々に大きな衝撃を与えた。

 表向きの理由は、
 「最近の酒巻裁判長は、血盟団事件のみならず、ほかの裁判もなしえない程、健康を害して、今やいつ再起できるか予定しえない状態に陥った」(小原東京控訴院長)から。

 小原東京控訴院長は、宇野・東京地方裁判所長と協議、
12月9日付けで酒巻に、退職の辞令を出した。

 酒巻が辞表を出した本当の理由は、
血盟団裁判が紛糾したことに責任を取ろうとしたためだったようだ。

 12月9日付けの記事に書いている=写真下

記事 裁判長ォ職.jpg
(写真をクリック)


 「公判紛糾の責任を負うて酒巻裁判長が辞すのでは、司法部の威信問題にも関するから、絶対かかる理由で辞任せしむべきでない……」
というのが、小原東京控訴院長の考えだった。

 ところが、酒巻氏が、裁判紛糾問題に悩んで精神的にも不調になった。
そこで、小原東京控訴院長は、辞表受理の理由を、健康上の心の不調問題に転じ、

 裁判紛糾問題が理由ではなかったことにして、酒巻氏の辞職を受け入れた、ということだったらしい。持って回った、いかにも役人的なやり方だ。

 小原東京控訴院長の談話が出ている。

 「自分は酒巻君が裁判長としての責任問題で辞職することは絶対に反対し、常々べんたつしてきたのであったが、ああいう風に当人から言い出されては何とも致しかたない。
……どうも近ごろは、共産党事件にしても五私鉄疑獄にしても、被告が冷静な判断を下すべき裁判所に向かって楯をつく傾向が非常に著しくなったようで……
裁判所もこれに対しては相当強くなければならぬと感じ、自分は常に判事たちにこのことを話していたのだが…」

 血盟団事件を審理する東京地裁刑事一部の新たな裁判長は、1933年(昭和8)12月13日、
同九部の裁判長、藤井五一郎に決定し、審理を初めからやり直すことに決まった。陪席判事も全員を入れ替え、
 それまで藤井裁判長の陪席だった、居森義知、伊能幹一、両判事と決定した。
 血盟団事件を審理する判事が、総入れ替えされた訳である。

 判事総入れ替えについて、当時の東京地裁の宇野所長が話している。

 「藤井君は、事件のえり好みはしませんと、血盟団事件の審理を快諾してくれた。今度は是非この公判を円満に進行させたいと、私も念願してやまない。陪席判事を替えたのは、別に深い理由はない。
……この際、血盟団事件は新規まき直しにしようということになっただけで、刑事一部の新陪席は、長く藤井裁判長のもとにいた人のほうが調子がそろいそうなので、従来九部にいた陪席をそのまま藤井君の一部に回したのである」

 東京地裁トップの所長が、
「今度は是非この公判を円満に進行させたいと、私も念願してやまない」と言った。
 部下であった藤井判事には、プレッシャーであったことだろう。円滑に進行させるためには、日召ら被告たちの心象を悪くするわけにはいかないから。

 こうして、裁判は、血盟団首領井上日召側のペースにはまってしまった、といえるのではなかったか。

 やり直し裁判は、3ヶ月後の、
1934年昭和9)3月頃に第1回公判が開かれる予定だ、
と12月15日付け記事には書いてある。

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5.15事件がらみで密室裁判に    一人一殺 31

2006年07月09日

 「自分たちの行為は、単純な殺人行為ではない」
と、井上準之助・元蔵相を暗殺した小沼正被告=写真下=

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(22歳)が、1933年7月21日の第9回目の公判で、
思うことのすべてを証言しようとしたところ、
裁判官が合議し、
 「これからの陳述は安寧秩序を害する恐れありと認め、公開を禁止する」
 と宣言して、裁判を初めて公開禁止にしてしまった。

 血盟団事件と五・一五事件が同根のメンバーたちによる事件で、
政財界の腐敗ぶりに激しく怒った若者たちが、
やむにやまれぬ思いで、実行行動を起こしたことが、ニュースとなって全国民に知られることを恐れたのであろう。
 国民に、熱い共感が広まることは目に見えていたのだ。

 公判では、酒巻判事が、小沼に陳述を促したところ、
小沼はまず、

 ○○事件▽愛郷塾頭橘孝三郎との関係▽茨城の海水浴場における謀議の内容▽8月会合以前の西田税との関係▽8月会合前後の模様▽○○○○の概要
(○○部分は伏せ字で意味不明)
 などの項目を列挙して、次のように陳述した。
小沼 「自分らの行為が単なる殺人行為であるかないかは、自分のこれらの陳述によって明らかにされる。
これを誤解されては、五・一五事件にも影響が及ぶから是非十分了解されたい。
 この事件を一の列車にたとえれば、井上日召は、機関手で、自分と菱沼とは車輪である。
 そして、五・一五事件はこの機関車に導かれる一連の列車にほかならぬ。
この見地から、自分は井上日召らが述べ得なかった深いところまで突っ込んで述べたい」

 この発言に、裁判長は、小沼が述べようとしている内容が、禁止事項に触れる恐れがあると考え、
陪席判事と打ち合わせた。
 ついで、木内検事の意見も聞いたところ、検事は、
「もし差し止めの内容に触れるようなら禁止を要する」と指摘した。

 この検事発言に、小沼は、一瞬ためらったが、
弁護士席の山口弁護士が
「言うことは全部言ってしまわないといけない」
と注意を与えたため、

 小沼もその気に戻った。

 そこで裁判長は、再び判事たちと合議した結果、
「これからの陳述は、安寧秩序を害する恐れありと認め、公開を禁止する」と宣言。

 午前9時45分、9回目の公判廷で初めて、傍聴禁止を宣言して、新聞記者や傍聴人を退出させ、
非公開にして、再び小沼に陳述を求めた。

 文字通りの、
密室裁判である。

 第9回目の法廷は、午後零時5分に閉廷した、
と記事に出ている。

裁判記事  公開禁止.jpg
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 記事には3段見出しがつき、分量は49行。
 それまで記事に比べてひどく短い。秘密会で、審理内容を取材出来なかったために、書くことがなかったのだろう。

 小沼はどんなことを証言したのだろうか?
 記事には書かれていない。
 密室裁判の法廷にいた、弁護士や検察官たちに、終わった後で、取材するという方法もあったはずなのだが……。

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大学生たちはなぜテロリストに?   一人一殺 30

2006年07月06日

 1933年(昭和8)6月29、30日、東京地裁陪審2号法廷で開かれた1、2回公判では、
 安岡正篤の金鶏学院や、制度学者権藤成卿を通じて、井上日召と知り合い、血盟団のテロリストになった学生たちが、
 いかにしてテロリストになったかの経緯を語っている。

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 まず東大法学部学生、四元義隆(25歳)。四元は学生組の中心人物と断定されていた。
「学校は七高(鹿児島)から、東大法科(のち政治学科)に入った。私の七高卒業間際に各学校に日本主義の運動が起こり、私は池袋らと敬天会を起こした。当時、東大に上杉博士の七生社があり、これと連絡を取った」

 上杉は、「国家は最高の権威なり」といい、国家を信奉せよと説いた。
 裁判長がこれを問うと、

四元 「上杉先生はそう言われました。しかし、先生もしまいには、社会は根底から改造せねばならぬと、その実行運動に入ろうとされたようです。上杉先生は亡くなられる少し前、社会の根本的改革の必要を力説する論文を雑誌に出され、以来私も実行運動を考えるようになった。
すると大学へ何のために入ったかも分からなくなり、昭和5年(1930)春、金鶏学院に入った。同年11月、同学院の生徒が千葉に旅行し、その車中、一行の者から、私と池袋は、井上に紹介され、先方に着いてから古内に紹介された。
当時私はまだ、何も実行運動のことは知らなかった」

 その後、井上の言う「革命」とは、四元の考えていた国家改造と意味が同じと分かり、互いに往来するようになった、と陳述した。(6月30日)

 そして、7月3日の第3回公判では、
 「革命は観念や理論でなく、実行でなくてはならぬと思っていた。実行はまず暗殺であり、より良きものの建設のためには国法を無視した破壊暗殺もやむを得ないと信じて何ら迷いはなかった」とも述べた。

 次に、元東大生、池袋正八郎(28歳)。
池袋は七高出身で、剣道の有段者だった。
 「私の七高時代は、学生の8割までが、左傾向で、これらの人々が将来、行政官となり司法官となるのだと考えた時、私は慄然とした。
一方、政治が腐敗するのは組織制度の問題もあろうが、それよりもまず人の問題だ。しかも責任は、かかる政治家を選出する一般選挙民にある。
かく考えて私は、国家を救うのは教育以外ないから、教育家になろうと決心していた。しかしロンドン条約その他に刺激されて、この決心に迷いが生じて、教えを金鶏学院に求めた。
私たちの目的は、国民の邪魔者を除いて、本来の政道に改めることにあったから、この意味で革命といえる共産党は常に革命を叫んでいるが、
われわれは共産党が革命を起こす前に、右翼革命をやるべきだと考えていた」
 といい、井上日召との接触から、いよいよ実行運動に入ったことを説いた。

 さらに、東大文学部学生、久木田祐弘(23歳)。
久木田は、七高時代、共産党事件、疑獄の続発、ロンドン(軍縮)条約などから思想的に悩み、
菅波陸軍中尉や四元義隆と交わるようになって
 「自己を生かすにはまず、国家を生かさねばならぬ」
と考え出した。

久木田 「共産党はけしからぬものであるが、一方、支配階級も腐っている。
今の共産党検挙は、便所を設けてハエを追うようなものである。そこで、今の支配階級を革正除去する必要を痛感するに至った」

 久木田は、七生社時代の交友関係などを通じて、井上日召ら被告たちと結ばれることになった、
とも述べた。

 京大文学部学生、田倉利之(25歳)。
 田倉の七高、京大時代は、マルクス主義が学生間に流行していたが、厳格な教育者の父の感化で、田倉には、皇室中心主義の信念が根深く植え付けられていた。
 鹿児島市の城山公園での自動車道建設問題で、
利権屋の1市議糾弾をしていた菅波中尉と知り合い、以来国家改造について、暴力肯定論者になった、と詳しく話した。

 「国家改造の捨て石」になる考えを抱くことになった理由について、

田倉 「明治維新は、薩長土肥の決起によって起こったとのみ考えていたが、
防波堤を見て、防波堤は、海面に浮いているのでなく、下には捨て石が積まれているのを知り、山縣大貳時代から考えねばならぬと思った」
 と陳述した。

 7月5日の第4回公判で、國學院大學神道部学生、須田太郎(25歳)が、印象的な国家観を話している。
 すなわち、
「マルクスの資本論一冊をバイブルにして日本の改造は出来ない。また、われわれは、ナチスでもファッショでもない。
われわれの運動は、古事記、万葉集に培われた国民的情緒に発した、日本主義である。
そのおつもりで御審理願いたい」

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日召がいなければ起きなかった血盟団事件       一人一殺  29

2006年07月05日

 「この井上がいなければ、この事件(血盟団事件)も五・一五事件も起こらなかったかも知れなかったという事を、裁判長はよく知っておいていただきたい」

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 井上日召=写真上=が、1933年(昭和8)6月30日午前9時に、東京地裁陪審2号法廷で、前日に引き続き開かれた第二回公判で、開廷と共に立ち上がり発言した。
 この日も一般傍聴席は右翼団体の人々が大半を占めていた。法廷は、血盟団参謀格、古内英司の尋問に入る予定だったのだ。

 「前回、大切なことを沢山言い落とした。しかるに本日すぐ古内の尋問に入られては困る」と前置きした日召は、
 次のように発言した。

 「自分は政党政治を否認した。しかし、今日まで、一党の総裁を倒しても、これに代わる者が出てくるのが例だ。
そこで政民両党とも、犬養、若槻のほか、次に首相になりそうな人物をも倒すことにして、3名あて暗殺する人を決めたのである。
しかしわれわれは殺すのが終局の目的ではなく、暗殺は手段でした。それが単なる殺人罪に問われたのは、私には分からない。
私は、同志の人たちに対してもっとも責任がある。それを、同志の人々は私をかばわんと務める傾向があるが、
この井上がいなければ、この事件(血盟団事件)も五・一五事件も起こらなかったかも知れなかったという事を、裁判長はよく知っておいていただきたい」

 と一気に言った。さらに、

 「だいたい雑誌を少々出したり、ビラまきくらいやってすましている右翼は、何をしているのか話にならぬ。われわれは、理屈よりも実行だと信じている」

 と、前回とは違って、大きな声で述べた、という。
 裁判長は、権藤成卿の思想と、井上の思想が一致するのか尋ねる。

日召 「権藤の著書は全部読んでいるが、私とは考えが違う」と言い、権藤系の、綱島弁護士の弁護を断ったことなども述べた。

 日召は、進んで「自分が事件の最大責任者である」と言っている。前日の第1回公判が済んだ後に、拘置所の独房でひとり、裁判に対して取るべき自らの姿勢をじっくりと考え、再確認したらしい様子が見てとれる。
日召の発言にウソはなかったと考えてもいいのではないか。勘違いや誇張はあったかも知れないが……。

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(写真をクリック)


 法廷は、日召に続いて、血盟団参謀格、古内英司への問いかけに入った。
古内は、大正12年(1923)春、茨城県立師範を卒業、昭和6年(1931)秋、茨城県那珂郡八里村小舟分教場主任をしたまでの経歴を述べた。

古内 「私は、師範卒業の前後から個人主義の幅をきかす社会に疑いをもち、最後には、国家改造には、流血もやむを得ないと考えた。
國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ、との教育勅語を拝してなかなか決心がつかなかった。しかし、結局死をもってこれにおわびしようと決心した」とはっきり話した。

裁判長 「日召を知ったのは?」

古内 「昭和4年(1929)末、前渡小学校から水戸の自宅へ帰る途中、大洗に日蓮宗の堂が新たに設けられていたのを見て、人に聴くと、立正護国堂といい、偉い人がいるとのことで、教えを乞いに行った」

 と、前日井上の陳述にもあった、日召から一喝されて弟子入りした事情などを話し、その後、
 昭和5年(1930)10月、井上が護国堂を去り、6年(1931)10月には、自分も教職を捨てて上京し、四元らと知り合ったことを述べ、
 1931年12月25日、権藤氏宅、同31日、下高井戸の松濤閣での各忘年会の様子を述べ、翌1932年1月9日に、四元を九州に派遣した経緯を話した。

古内 「井上、四元、池袋、私の4人が、権藤方付近の空き家でこたつにあたっていると、四元が急に九州に行くと言い出した。
この時には、民間だけでことを起こそうという気になってきている時なので、長崎・大村にいた藤井大尉(故少佐)に四元が了解を得ることになっていた。

 それが、四元の帰りが遅いので、1932年1月31日、
その空き家10畳の間で、井上、池袋、私、その他ここにいる同志数名、(四元、小沼、菱沼などは除く)が集まり、
あらかじめ私が選んでおいた政界、財界、特権階級の代表的人物20名を暗殺することに決した。で、暗殺すべき人物の担当は、権藤方の寮、6畳の間で、それぞれ井上に申し出て承認を得た」

 井上準之助・元蔵相暗殺については、

古内 「暗殺前日の2月8日、小沼と浅草へ行く途中、駒井重次選挙演説会の立て看板があり、井上準之助の名が出ているのを指さし、小沼は、おれの恋人だ、と言ったので、小沼は井上を狙っているなと知り、
翌2月9日、井上狙撃の新聞号外で、やったナと思った。
また、團男爵はよく見かけるので、菱沼に、鈴木をやめて團を撃たせたのです」と話した。

 小沼は、井上準之助を暗殺しようとしていることを、古内に知らせてはいなかったことが分かる。
 小沼と古内が、血盟団内で同格だったのと、
暗殺達成後の警察調べに備え、供述できないようにしておくため、互いに内情を知らない状態にしておいたのだろう。

 菱沼の場合は、とくにピストルの番号を潰した、と古内は証言した。

 古内は、小沼が捕まってから身の危険を感じて、代々木上原の濱中尉宅に隠れた。2月26日には警視庁刑事が濱宅に来たため、西大久保の陸軍中尉大倉栄一方に逃れた。
 3月11日には、警視庁刑事といっしょに池袋正八郎が来て、勧めたので、逮捕された、
と陳述した。

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1930年暮れにファシズム始まる    一人一殺  28

2006年07月04日

 血盟団の「国家革正」への出発点は、1930年(昭和5)末、福岡市の香椎であった、準備のための初会合だったようだ。
 長崎県大村の海軍基地に異動して間もない、
故藤井斉・海軍少佐(昭和7年2月5日、上海事変で戦闘機で爆撃中、地上からの攻撃により墜落死)=写真下=に呼ばれて、

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(写真をクリック)


 その直前の11月にあった金鶏学院の筑波旅行で知り合ったばかりの井上日召、四元義隆、田倉利之らや、
後に五・一五事件を起こす、古賀清志、三上卓、村山格之の海軍将校が集まり話し合った。

 やがて血盟団のナンバー2になる四元は、

 この夜から1年4ヶ月半後に起きる五・一五事件の中心人物になる、三上卓中尉と語り合い、
 要人暗殺への決意をはっきり固めた、という。

 血盟団事件(1932年)から、五・一五事件、二・二六事件(1936年)、日中戦争開戦(1937年)、太平洋戦争開戦(1941年)、敗戦(1945)に至る、
 超国家主義の時代の出発点である。

 福岡市の香椎(現在、福岡市東区)には、
神功皇后とその子供、仲哀天皇を祭るとされる神社、香椎宮がある。仲哀天皇は、日本武尊と妻、神功皇后の間の子供とされている。いずれも、実在しなかった記紀神話中の人物である。

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(写真をクリック)


 「福岡香椎で初会合」の事実は、1933年(昭和8)6月29日、東京地裁であった血盟團の初公判で、
井上日召が、酒巻裁判長の問いかけに答えて話した。

裁判長 「昭和5年、藤井少佐らと数名集まったか?」

日召 「さよう。昭和5年12月、大村の藤井少佐に呼ばれ、古賀清志、三上卓、村山格之(いずれも五・一五関係)の各士官に田倉利之らの学生も加わり、福岡県香椎で集まった」

 日召は、続いて、東京でも陸海軍青年将校、学生らと会って、国家革正の問題を討議したことを認め、
 昭和6年(1931)8月26日、陸軍の西田税中尉を、会合の中に加えたことを認めた。

裁判長 「それは、西田が陸軍部内に勢力をもっていると思ったために加えたのか?」

日召 「そうです。しかし会合の結果、西田はそれほど有力なものでないと分かり、また、われわれとしては直接行動を共にしないと言うことに話が決まってしまった」

裁判長 「四元は?」

日召 「四元は、西田と一緒に来た。だいたいこの会合は、西田、私、古内、小沼、菱沼、黒澤、四元のほか、
 橘孝三郎、後藤国彦、古賀、三上、村山各海軍中尉、菅波陸軍中尉など全部で約40名もあり、
 西田には遊撃隊の仕事をしてもらう手はずに決定したのです」

 昭和6年(1931)8月26日とは、明治神宮外苑青年館で会合があった日らしい。

裁判長 「被告らは一人一殺主義というが、わずか14名でなぜ20人も暗殺の相手を選んだのか?」

日召 「それは一人一殺といっても、実際にはなかなか機会がとらえにくいので、まあ、政界、財界、特権階級の中心人物20人を選んで、機会さえあれば誰が誰を殺してもよいことにしておいた。
 しかし、漫然と狙ったのでは統制がとれないのでだいたいは担当を決めたのです」

 血盟団内部の雰囲気を伝えるやりとりがある。
 酒巻裁判長が、井上準之助を暗殺した小沼正への短銃の手渡しの事実を聴いたところ、

日召 「小沼だったか菱沼だったか覚えないが、確かに渡した。
だいたい若い者が来れば、オイで通るので、いちいち名も言わず、同じような顔だから、その場合でも、誰か分からないことがある」
「満支方面を転々しただけに大陸的なことを言い」と、記者が感想を書いている。

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(写真をクリック)

 酒巻裁判長は、日召がよく使った「革命」という言葉の定義を尋ねた。

日召 「革命というのは適正な言葉が発見されない場合、つい使われているが、支配階級を覚醒せしめる革正の意味である」

裁判長 「皇室中心主義は昔から奉じているのだね?」

日召 「わたしは、何々主義という主義は持たない。しかし、憲法を重んじ議会政治も否定しない。
しかし政党はけしからぬと思っているが、国家転覆などは、もうとう思っていない」

故藤井少佐からもらったピストル8丁の試射も、茨城県大洗近くのドンドン山でしていた。

裁判長 「試射の結果は?」

日召 「私の腕では狂いはないことを確かめ得た」

 昭和7年2月9日夜、小沼正が井上準之助を暗殺した後の様子。

日召 「その夕方、雪の中を菱沼が知らせに来た。当人は帰ると言ったが、雪に足跡がついて分かると、大事決行を前にして困るので泊めた。
 すると翌朝、あの無口の四元が顔色を変え、
先生どうする? と聴くので、寝ている、と答えると、四元は、ここにいると権藤先生に迷惑がかかります、と言った」

 それで、円タク(料金1円のタクシー)で、頭山秀三(玄洋社の頭山満の長男)の家に行き、警視庁に出頭するまで滞在した、と答えている。

posted by Jiraux at 23:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

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