news 日々憤怒 - 2006年06月
柳家三太楼破門 週刊ポストは不公平な記事を載せた。 (2006年06月29日)
狙われた政財界の大物たち     一人一殺  26 (2006年06月27日)
1週間断食できた者だけがテロリストに   一人一殺          25 (2006年06月26日)
五・一五事件が起きる     一人一殺   24 (2006年06月25日)
13人を殺人で起訴へ     一人一殺  23 (2006年06月25日)
四元が野村秋介に話した後で     一人一殺  22 (2006年06月23日)
裏切りの師、安岡正篤を弟子の四元が全否定                  一人一殺 21 (2006年06月22日)
革命をめざした四元たち    一人一殺 S (2006年06月21日)
四元義隆、「体制内改革者」へ    一人一殺 R (2006年06月21日)
謎の人物、四元義隆    一人一殺 Q (2006年06月19日)
付け狙ったが殺れず    一人一殺 P (2006年06月18日)
西園寺公望も狙われた    一人一殺 O (2006年06月17日)
井上日召に重大な嫌疑    一人一殺  N (2006年06月15日)
いくじなしの「インテリ」    一人一殺 M (2006年06月14日)
社会の注目度、いっそう上がる    一人一殺 L (2006年06月13日)
東大生と京大生のテロリスト    一人一殺 K (2006年06月12日)
さわやかに笑い、拳銃もらう    一人一殺 J (2006年06月11日)
行動者、日召の権藤へのいらだち    一人一殺  I (2006年06月10日)
日召は権藤成卿を嫌う     一人一殺  H (2006年06月09日)
権藤成卿 役人の統治に怒り    一人一殺  G (2006年06月08日)

柳家三太楼破門 週刊ポストは不公平な記事を載せた。

2006年06月29日

 週刊ポスト4月21日号の「柳家権太楼が涙目告白 一番弟子に殴られた!!」の記事=写真下で、

破門記事 替え 2.jpg
(写真をクリック)


 週刊ポスト編集部は、柳家権太楼(59)に会って取材し、
総領弟子、柳家三太楼(41)に「殴られた」と聞き出したが、前・三太楼には会わず、取材もしていなかった。

 利害が対立する両方の当事者から平等に話を聞いて、事実を確認するという、取材の初歩を果たさず、
 事情が聞けたのは片方だけ、という不公平を解決しないまま原稿にして、同誌4月21日号に掲載していた。

 このため、前・三太楼が本当に師匠の権太楼を殴ったのかどうなのか、
事実は依然としてはっきりしない。

 週刊ポストは、欠陥記事を垂れ流しにして、落語ファンを長い間、惑わしたまま放置している。
 こんな週刊誌は、いらない。

 この記事は、上の写真でお分かりのように、
「柳家権太楼が涙目告白 一番弟子に殴られた!! ブームの裏側に大騒動」
 の見出しがついた見開き2ページの記事で、
三太楼破門(5月6日付け)への
大きな流れをつくった。

 週刊ポスト編集部の「三浦」と名乗る人に、
 28日午後1時12分、電話して聞いた。

 それによると、師匠の権太楼に、記者2人、カメラマン1人の計3人が会って、経緯を聞いたところ、
 権太楼は、「三太楼に殴られた」といい、記事に書かれているようなやりとりがあった。
「殴られた」という事実については、
記者2人が、その場で何度も聞いて確かめた、という。

 一方の、前・三太楼については、
記者が自宅に何度か出かけたが会えず、あとで
電話したところ、前・三太楼の妻が出て、
「トラブルはあったらしいが、そっとしておいて欲しい」と言われたため、それ以上の取材はしなかった。

 しかし週刊ポスト編集部は、
前・三太楼の妻のこの願いを聞き入れず、4月21日号に、欠陥の残るままの記事を掲載して、
三太楼のイメージを劣化させ、
三太楼破門(5月6日付け)への大きな流れをつくってしまった訳だ。

噺かの名.jpg
(写真をクリック)


 師匠の権太楼が、5月28日午前11時半から池袋演芸場であった「日曜朝のおさらい会」で、
週刊ポスト4月21日号の記事の、
「柳家権太楼が、三太楼に殴られた」という事実の真偽を巡って、問題の経過を説明し、「殴られたというようなことはない」といい、
「柳家権太楼が涙目告白 一番弟子に殴られた!」と、見出しに取られた、出来事の核心部分を完全否定したことについて、

 週刊ポスト編集部の「三浦」氏は、
「三太楼が戻りにくくなるから、うまく書いて欲しい」
と、権太楼氏は取材した記者に言っていたようだから、かばうような気持ちで言ったのではないか、との解釈を示した。

 しかし、権太楼の、池袋演芸場でのこの発言は、週刊ポストに記事が出てから、1ヶ月余り後のことだ。
 かばう気持ちが本当にあったなら、最初に取材に来た週刊ポスト記者に、
「殴られてはいない」と言ったはずだ。

 権太楼の、池袋演芸場での、「殴られたというようなことはない」発言は、
その場しのぎの体裁づくりに見える。

 週刊ポストの発行部数は、毎週50万部はあるのだろうか。
 池袋演芸場の座席数は100弱である。
 権太楼発言が、三太楼を本当に「かばう」ことになったのかどうか、事実は明白だろう。
 後の祭りじゃないか。

 むしろ、
 権太楼が、週刊ポストに事実と違う記事が載ったため、
あわてて週刊誌に載った自分の発言を訂正して、正しい事実を示した、
という見方をする落語ファンだっているのではないか。

 週刊ポスト編集部の「三浦」氏は、
わたしが、
「お宅の記者2人とカメラマンの3人は、いつどこで権太楼に会ったのですか?」
と尋ねたところ、

「これは取材ですか? 取材なら電話では答えられない。会社に来てもらって名刺を交換したりしないと……」
と逆に質問し、
「取材です」とわたしが答えると、
 権太楼にいつどこで会ったのかについては、答えなかった。

 「取材」で会っていたら、「三浦」氏は、違う答えをしていたのだろうか? 不可解である。

 「取材」であろうがなかろうが、
 読者からの問い合わせには、
事実を的確に、真摯に答える、
というのが、市民に開かれたメディアの、初歩的な責任のはずだ。

 「三浦」氏のわたしへの答えは、
ポスト編集部への私の最初の問い合わせイーメールから3週間も経つのに、
何の応答もないため、27日未明、私が改めてイーメールして尋ねた結果、翌27日にイーメールで返事が来て、やっと実現したものだ。
 週刊ポスト側から積極的に答えてきた訳ではなかった。

 参考のため、そのイーメールを以下に示しておく。


 小学館週刊ポスト 松野直・副編集長さま
 下のメールを頂いてから、21日、3週間が過ぎようとしていますが、
「担当編集者への確認」は、まだ取れないのでしょうか?

 30日までに、ご返事をいただけなければ、
下記メールでお約束いただいた返事をする意思がないものと判断させていただき、
私のwebで、松野さんはじめ、週刊ポスト、小学館への考えを公表し、
御社小学館にも通知させていただきます。

 ご返事をお待ちいたします。

                 Jiraux
             2006/6/27/tue  1:13am


▼週刊ポスト福編集長からのメール(6月6日着)

Jiraux様

いつも小誌をご愛読いただきありがとうございます。

せっかくメールをいただきましたが、小誌は6月5日発売号を合併号としているた
め、
6月1日以後、編集部員が交代でお休みをいただいており、、
貴殿のご質問について、担当編集者への確認が取れておりません。

確認が取れ次第、あらためて連絡差し上げますが、
記事内容についてのご質問には、お答えできかねる場合がございますので、
あらかじめご了承賜りたくお願い申し上げます。

上記、ご諒解賜りますようお願い申し上げます。

                          週刊ポスト編集部

                         副編集長 松野直裕

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狙われた政財界の大物たち     一人一殺  26

2006年06月27日

 血盟暗殺団事件の粗筋を続ける。

 これは、東京地方検察庁が、大がかりな捜査の結果として、数十枚の用箋に書いた起訴状で断定したものだ。
 一味の13人が東京地裁に起訴されたのは、前回書いた通り、1932年(昭和7)3月28日だった。

 井上日召(1886-1967)が選定した暗殺されるべき人物と、それらを狙った担当者(カッコ内)は次の通り。

 公爵西園寺公望(池袋正八郎)▼公爵徳川家達(須田太郎)▼伯爵牧野伸顕(四元義隆)▼首相犬養毅(未定)▼鉄相床次竹二郎(田中邦雄)[以上政友会]
 前首相若槻礼次二郎(田倉利之、森憲二、星子毅)▼前外相幣原喜重郎(久木田祐弘)▼前蔵相井上準之助(小沼正)[以上民政党]
 團琢磨(菱沼五郎)[三井系]▼池田成彬(古内英司)[三井系]▼安田系人物選定中大倉系人物選定中住友系は八代則彦と内定

血盟団 顔一覧 6.27用.jpg
起訴された血盟団のメンバーたち
(写真をクリック)

 さらにこのほかにも内定的になっていた名士が数名あり、全部で約20名暗殺の予定だった。

 なお、日召から出るピストルは、計画が未然に発覚するのを恐れて、必ず決行前に手渡され、
 失敗した際には、必ずいったん手渡した人に返されるか、次の狙い手にリレー式に渡されることになっていた。

 ことに彼らは計画を極秘にするために連判状や誓約書、斬かん状などをいっさいつくらず、一人捕らえられても捕らえられたものが単独でやったごとく装い、あくまで同志を売らぬことになっていた。
 小沼が捕らえられても、なかなか菱沼、井上らの存在が判明しなかったのはまったくこのためであった。

 と書いている。

「計画を極秘にするために連判状や誓約書、斬かん状などをいっさいつくらず」
 という記事のこの部分は、12日前の3月16日付け紙面に、
「連判状押収さる 前衛隊の血盟当時に作製」
 の見出し付きで、
 小沼、菱沼も含めて19人が血盟で連判した、
と書いてある記事を、全否定する内容だ。

 3月16日付けの記事が、事実無根の誤報だったのかも知れない。
訂正記事を出さなければいけないところを、
「連判状や誓約書、斬かん状などをいっさいつくらず」
と後で記事の中に書いて、うやむやにした可能性がある、と思う。その通りなら、責任逃れのいいかげんなやり方である。
 今でも時々、こういうことは行われているのではないか。

 起訴状では、次に、血盟団首領井上日召(42)と、参謀格古内英司(31)との関係を書いている。

 2人の関係は、昭和2年(1927)1月、日召が茨城県祝町付近の山林に、護国堂曼陀羅寺を建てた当時から始まった。
 日召は、静岡県原町の松蔭寺に参禅したり、身延山に籠もるなど、信念的な男であると共に、
 欧州戦争(第一次世界大戦 1914〜1918)当時、
坂西少将の秘書として渡満後、軍事探偵などしたこともあり、積極的な人物である。

 茨城県結城小学校に奉職中肋膜で休職になった古内は、力強いものを求めていたため、
日召を崇拝するようになり、
 社会制度の欠陥、政党の腐敗などを互いに論じて、ますます深くなった。

 当時、上海で最初の空軍犠牲者となった故藤井斎・海軍少佐も、故井上文雄少佐(日召の実兄)との関係もあって、しばしば来訪し、折からのロンドン条約(軍縮条約)に、外交の軟弱を憤慨していたため、
 日召、古内は、ますます社会変革の思想を強め、古内の教え子の小沼正もこれに加わるようになった。

新宿3丁目 夜景.jpg
(写真をクリック)


 日召は、右翼諸団体を自分の主張通りに動かそうと、一昨年(1930年)頃、曼陀羅寺を去って、金鶏学院や権藤成卿氏らの学塾に出入りする一方、
 日本国民党、その他、大日本正義團の情勢などまで探り回った。

 日召上京と共に、いよいよ活動期に入ったと知った古内も、上京し、
ついに2人は、権藤方に集まる憂国的学生に着眼し、これらを行動隊の一部に加えるに至った。

 こうして日召は、故藤井少佐ほか1将校所有のピストル数丁を入手し、
大計画の第一着手として小沼正に井上前蔵相射殺の指令を発し、去る2月2日、本郷区西方町22の自宅でピストルを手渡した。
 「離れて撃ってはし損じるから」と詳細な注意を与え、ついに同月9日、井上氏を暗殺させた。

 などと書いている。

 この日の、起訴を告げる記事では、一味13人を、
「東京組」「茨城組」「京都組」の3グループに分けている。
「東京組」はすでに四元の部分で書いた通り。

「茨城組」は、いわゆる血盟5人組の一部で、この5人はいずれも縁戚関係。しかし最初の血盟は崩れ、実は3人となり、小沼を頭に菱沼、黒澤大二で、共に曼陀羅寺に出入りして日召、古内などの感化を受けた。


「京都組」は、最後に逮捕された人々で、以前から京大猶興学舎を組織して右翼の研究をしていたが、「自治民範」を読むにいたってその著者権藤成卿氏の存在を知り、昨春(1931年)田倉がまず上京した機会に、日召、古内と連絡が付き、ついに暗殺血盟に加わった。

 田倉は帰京後、同学舎の星子、森にも血盟加入を勧め、星子、森も上京して日召、古内と知り合い、京都で機会を待っていた。
若槻前首相の関西遊説をとらえて、これを射殺する命令が来て、ピストルが古内の使者、須田太郎によって京都組に伝えられた。

 星子はまず、京都二条駅に若槻を狙って果たさず、森が代わって米子方面までつけ狙ってこれも果たさず、
 最後に、田倉が東京まで若槻を追いかけ、若槻の自宅付近に間借りして機会を狙っていた。

 と、書かれてある。

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1週間断食できた者だけがテロリストに   一人一殺          25

2006年06月26日

 一人一殺のテロルの源は、
血盟暗殺団一味13人の首領、井上日召(1886-1967)であった、
と東京地検は数十枚の長文の起訴状で断定した。

 一味13人を調べて報告した調書や聴取書のページ数が数千枚になったことに、捜査当局が事件をいかに重大視していたかが現れている。

「社会変革的性質を帯びたおおげさなものであった点、その根底の根強さと用意の周到さの諸点で当局を極度に狼狽せしめ、右翼運動に対する検察的見地を一変せしめたものである」と、
 一味13人の起訴を予告する1932年3月28日付けの新聞は書いている。

起訴の記事 6.26用.jpg
(写真をクリック)


 血盟団による連続暗殺事件の、東京地裁刑事第一部(酒巻裁判長)での第1回公判は、1933年(昭和8)6月29日。
 東京地方検察庁が13人を起訴した1932年(昭和7)3月28日から、1年3ヶ月後だった。

起訴から初公判まで、1年3ヶ月もかかったのはなぜだったのか?

 当時の血盟団事件の新聞切り抜き帳には、その理由を知らせる記事は残されていない。
ただ、起訴を予告する1932年3月28日付けの記事のすぐ後に、1933年(昭和8)6月29日付けの初公判を知らせる記事が続くだけだ。

初公判までに、これほど時間がかかったのには理由があった。

1932年(昭和7年)5月15日夕に発生した五・一五事件で、犬養毅首相が暗殺されたことと深い関係があったはずだ、というのは誰もが抱く推理だろう。

五・一五事件が、血盟団の連続暗殺事件の第二波として計画されていて、
二つの事件のテロリストたちの多くが同じ集団に属していたことが分かったために、
政財界・政府関係者に衝撃が走り、
警視庁や東京地方検察庁、東京憲兵隊本部に、事件の再捜査などの必要が生じたためではなかったか。

当時の新聞には、血盟団の連続暗殺事件と、五・一五事件事件の暗殺者たちが親しい仲間で、
「腐敗している」と、彼らが見なした政財界の大物たちを、
暗殺によって一掃しようとしていた、
と報じた記事はなかった。

この詳しい事実が国民に知らされたのは、1945年8月の敗戦の後であった。

 血盟団の連続暗殺事件のあらすじを示した、
東京地方検察庁の起訴を報じた1932年3月28日の記事を見てみる。
それによると、

 一味は、共産主義に対して台頭してきた国家社会主義的な、いわゆるファッショに刺激され、極端に反動化し血をもって一切を解決せんとするに至ったもので、

 その首領となったのは、怪僧井上日召であった。

 井上日召はまず、茨城県でその行動隊を養成することにつとめ、次いで、国家主義鼓吹者で「自治民範」の著者、権藤成卿氏に接近し、

 同氏のもとに集まる若者の中から行動隊員を物色し、茨城時代以来、参謀役となった古内英司と共に資金の調達、ピストルの入手、友誼団体との連絡に暗躍し、昨年末に至り、準備一切がなったので、ここに暗殺すべき人物を選定し、総選挙を期して、決行する指令を発したのであった。

 と書いている。

ルイ・ヴィトン 6.26you.jpg
(写真をクリック)

 「同氏のもとに集まる若者の中から行動隊員を物色し」
という部分については、
日召自身が、特異な物色方法を後に書いた。

 「これは」と目を付けた若者たちに、
1週間の断食を提案したのだ。
1週間というもの、水が飲めるだけで、何も食べられない。
この断食を成し遂げられた者たちだけが、暗殺者としての資格があると、日召自身が暗黙の内に認め、懐に引き入れた。

日召によると、断食は、始めて3,4日目が一番苦しく、これを乗り切れずに脱落する者が多い。
3、4日目を乗り切ると、頭がすっきりして身が軽くなり、1週間の断食達成は、それほど不可能ではなくなるのだ、
という。

日召によると、血盟暗殺団に加わった若者たちは、いずれも1週間の断食を成し遂げた、骨のある者たちだった、という。

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五・一五事件が起きる     一人一殺   24

2006年06月25日

 血盟団事件の捜査が進んでいた1932年(昭和7)5月15日午後5時28分、
東京・永田町の内閣総理大臣官邸表玄関に乗り入れた自動車から、若い武装軍人9人が下車、内玄関から屋内に侵入し、犬養毅首相(1855―1932)=写真下=を短銃で撃った。

犬養毅.jpg

(写真をクリック)

 軍人たちは車で逃げ、警視庁と日本銀行に回って、手榴弾を投げ込んだ後、東京憲兵隊本部に自首した。

神ミ屋ね.jpg
(写真をクリック)


 軍人9人は、
 三上卓海軍中尉ら海軍の青年将校4人(うち1人は予備役)と、陸軍士官学校本科生5人。

 当時の資料(原田日記など)によると、

 9人の犬養襲撃の理由は、
満州の軍閥、張作霖の長男として父と共に大日本帝国に協力した、張学良の倉庫の中から見つかった日本の政党のボスや高官たちの署名のある現金領収書の中に、犬養総理のものも混じっていたため、
だった。

 押し入った士官たちは、総理を拳銃で脅しつつこのことを非難した。
犬養総理は、
「その話なら、話せばわかるからこっちに来い」といった。士官たちが土足のままあがろうとしたので、
犬養は
「他人の家に靴履きで上がるとはなにごとか」
 と一喝。
士官らは、それに反応して、
「われわれが何をしにきたかわかるだろう、言いたいことがあれば言え」
 と言い放った。

 犬養が身を乗り出して議論しようとした瞬間、
「問答無用、撃て!」
 の一言に反応して短銃が発砲され、老首相は倒れた。

 軍人たちはそのまま立ち去り、
 犬養は
「もう一度あれらを呼んでこい、判るように話してやる」
 と言ったが、
 翌日、死去した。

 五・一五事件だ。

 茨城・大洗の立正護国堂で、井上日召の周りに集まっていた、古賀清史・海軍中尉ら、陸海軍の青年将校らが、
血盟団の「一人一殺」に呼応して行動を起こしたのだった。

 1931年(昭和6)10月、「桜会」のメンバーらが軍部独裁政権樹立を目指したが、不発に終わった。
「10月事件」と呼ばれる。

 この頃、井上日召には陸海軍、民間の40数人の同志がいた。
 これらの同志が、10月事件の軍人たちの様子を見て、「おれたちがやる」とまなじりを決して立ち上がったのが、
 血盟団事件だった。
 五.一五事件は、その第2波として計画されていた。

こま犬 左.jpg
(写真をクリック)


 五・一五事件の、ほかの襲撃目標は、
 古賀清志・海軍中尉らの第二組が牧野伸顕内大臣邸。警官一人が負傷しただけで、牧野伸顕内大臣は無事だった。

 第三組が麹町区内山下町(現在の内幸町一丁目)の立憲政友会本部。午後5時半ごろ、政友曾本部南に自動車を止め、下車して本部内に入り、玄関へ手榴弾1つを投げたが爆発しなかった。

 第四組が、麹町区丸ノ内二の三菱銀行本店。
 銀行裏から手榴弾1つを構内に投げ、同行裏門近くで爆発させた。

 また、別動隊が帝都の混乱を狙って変電所六ヶ所を襲撃したが、ほとんど損害を与えずに終わった。

 五・一五事件で、殺傷されたのは、暗殺された犬養毅首相、牧野内大臣邸の警官1人の負傷のほか、
北一輝と行動を共にしていた西田悦だった。

 5月7日付け朝刊に、、
「血盟団の川崎に西田退役中尉撃る 五発命中生命危急」
の見出がついている。

 内容は、
「十五日午後七時半府下代々幡町代々木山谷一四四退役陸軍中尉中西悦方へそうかんが現れ折から在宅した西田氏が応接すると突然ピストルをだして同氏をめがけて連続六発発射。昏倒するのをみて逃走した。犯人は血盟事件の……」とある。西田は重傷だったが助かった。

 この事件で印象的なのは、襲撃参加者たちの奇妙な、
礼儀正しさ。
 予定された目標への襲撃を終えると、全員が、東京憲兵隊本部などへ出頭した。

 犯人たちは、目標を襲撃した後は、東郷平八郎(日露海戦の英雄、元帥)を参内させ、軍政府を樹立させれば、
 頭山満たちの右翼などがこれに世論の支持をあたえてくれるだろうというもくろみだったらしいが、これは成功しなかった。

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13人を殺人で起訴へ     一人一殺  23

2006年06月25日

 1932年(昭和7年)3月へ時間を戻す。
 血盟団事件の捜査が進んでいた頃だ。

 3月19日付けの新聞に、次の記事がある。

 これで、警視庁に留置中の被疑者は全部で11名に達し、小沼を加えると一味12名となるが、嫌疑者はなおこのほかにもあるらしい。東京地方検事局では、この恐るべき
大暗殺団
の処置について宮城検事正、棚町次席、木内主任検事らが協議の結果、18日に至りこの一味を全部暗殺団とみて、暗殺を決行しなかった者および単に暗殺を教唆幇助した者でも共犯関係さえ明らかとなれば、全部共同正犯として殺人の一罪で起訴し、公判で刑の量定に多少の軽重をつける事に大方針を決定した。

日召の記事.jpg
(写真をクリック)

この記事の左に、次の3段見出しが立てられている=写真上。
「暗殺の指令は
全部自分が出した」
  全責を負う気の日召

 1932年3月18日、つまり、團琢磨暗殺(3月5日)から13日後に、初めて、
 井上日召は、
「暗殺の計画と指令は全部自分が出したのだ」
 と、認める自白をした。

 その部分の記事を引用してみる。

「警視庁で取調中の井上日召は、小沼、古内らの自白によって一味徒党の正体並びに計画が暴露し、加盟者が続々検挙されるに至り、顧問格の権藤その他に累を及ぼさず自分が全責任を負わんと観念したものの如く、18日に至り重大な自白をした。すなわち、
暗殺の計画と指令は全部自分が出したのだ
と頑張り、捜査当局を極度に緊張せしめた
。」

新宿 街灯.jpg
(写真をクリック)


 「全員が共同正犯」の方針は、3月24日の東京地方検事局の会議で確認された。つまり、

 血盟団によるこの事件は、
内乱罪とせず、一味を単なる殺人団と見て、
井上日召以下12名を殺人の共同正犯で起訴する心組である。

 捜査は、24日の段階で一段落したが、
依然として資金関係が明瞭とならない」と書いている。

 彼らが暗殺しようとしてリストに載せた名士は約20名の多数に上り、
 種類は特権階級、政民両党の領袖連、財閥の
3種類に分けられており、政党人では、

 犬養首相等も数えられ、
財閥関係は、三井、三菱、住友のほか、具体的計画まではいっていなかったが、
 大倉、安田もリストに加えられ、いわゆる5大財閥全部を倒す計画であったことなども判明した由で、
 当局も、その計画のあまりに大きく、根強いのに驚いている。
 と書いている。

被告一覧(小沼なし).jpg
(写真をクリック)

 記事によると、検事局が殺人およびその共同正犯で起訴することに内偵した12人は以下の通り=写真上。
 井上日召、古内英司、菱沼五郎、黒澤大二、田倉利之、田中邦雄、池袋正八郎、四元義隆、久木田祐弘、須田太郎、森憲二、星子毅
(2月9日に井上準之助を暗殺した小沼については、この段階では既に起訴を決定していたようだ)

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四元が野村秋介に話した後で     一人一殺  22

2006年06月23日

 四元が社長をつとめた「三幸建設工業」は、
小菅刑務所で知り合った元日本共産書記長田中清玄から昭和30年ごろ、経営を任されたのだった。

 社長になったばかりの四元は、
そのころ始まった八郎潟の干拓に参加したいと考え、農業関係に強い発言力をもつといわれていた河野一郎へ頼みにいった。四元を連れていったのは、稲葉修代議士だった。

 ところが河野は、
「おれは利権なんかにかかわったことは一度もない」とソッポを向いたまま。
 おのれ白々しいと怒った四元は、
「稲葉さん、帰りましょう」と席を立つと、
河野が、「まあ待て」と慌てだし、結局、八郎潟に一番乗りできた、という。

 それで河野に対する四元の嫌悪が解消したかというと、まったくそうはならず、
「三上卓の弟子の野村秋介が、鎌倉の自宅へやってきたとき、ぼくは河野のことをクソミソにいった。その1週間後、野村は河野邸を焼き討ちした。警察がうちにも来るかと思ったが、来なかった。さすがに口が堅い」

 野村は、当時の行動右翼の第一人者で、1983年8月19日、経団連襲撃事件で受けた6年の刑を終え出所した。その野村の四元評は、
「代表的な右翼を10人挙げろといわれれば、必ずその中に入ってくる人。ただ、歴代首相の内懐に入って政治に影響を与えるという、あの人独特の考え方から、右翼思想の啓蒙や大衆の組織化といった運動はしない。その点を一部の者は右翼と認めないかも知れないが、人格的には立派な人」
 と好意的だった。
 野村もまた、三島の竜沢寺に籠もった経験をもっていた。

 以上は、既出の週刊誌1984年2月10日号からの引用だ。

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 四元が、
民族派右翼野村秋介(1935―1993)=写真上=から高い評価を与えられていたのは、ちょっと面白い。

 野村は、1993年10月20日午後零時45分ごろ、朝日新聞東京本社15階応接室で、社長らと面談を終えた直後に、
「朝日新聞と差し違える」と言って、
持っていた2丁の短銃で両胸を3発撃ち、自殺した。
 58歳だった。

 俺に是非を説くな激しき雪が好き

 ひたすらにゆく冬銀河さみしからず

 惜別の銅鑼(どら)は濃霧のおくで鳴る

 さだめなき世なりと知るも草(そう)もうの一筋の道かはることなし


 これらは、野村がつくった、短歌や俳句。
 野村は、緊張感のある、美しい作品をつくることで知られていた。

 野村の河野一郎建設相邸(神奈川県平塚市)焼き討ちがあったのは、1963年(昭和38)7月15日朝。

 野村は、ほかに1人を連れて侵入した。
 短銃をもった野村が、落ち着いた口調で、
「油をまけ」「火をつけろ」
などと指示し、もう1人が、同じ事を2度命令されてから、缶のガソリンをまくなど行動に移るという関係だった。

 1977年3月には、東京・大手町の経団連会館に、野村ら右翼の4人が散弾銃や日本刀で武装して乱入、職員を人質にして、
 「ヤルタ・ポツダム体制打倒」を訴えた。この事件で、野村は懲役6年の実刑判決を受けた。
 1983年8月19日に出所後は、「新しい民族主義」を唱え、新右翼の代表的な理論家の1人だった。

「神奈川県警本部の調べによると、
 野村は、15歳だった1950年3月に窃盗容疑で横浜伊勢佐木書に補導されたのをはじめ、横領、詐欺(静岡県安部署)、傷害(横浜戸部署)などで3回補導され、少年院に送られた。

 1955年には、横浜の寿、水上各署に傷害容疑で逮捕され、1956年11月には、脅迫で神奈川署に捕まり、1959年1月には、不法監禁、銃砲等不法所持(横浜加賀町署)で2年の実刑判決を言い渡され、1961年5月まで網走刑務所で服役した。(中略)

 父親や知人の話によると、長男でわがままいっぱいに育った男。生まれつき一本調子で、ひとの意見に耳を傾けることができない性格のようだ。(中略)
 突拍子もないことをしたりする自己中心的な性格が強く、仕事もどちらかというと投げやり気味で責任のもてない行動が多く、親類でも日頃野村が何をしているのか、何を考えているのかわからないという」
 と、1963年7月17日の記事に書かれている。

 「さらば群青」(二十一世紀書院)が最後の著作。1993年10月21に発売された。

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裏切りの師、安岡正篤を弟子の四元が全否定                  一人一殺 21

2006年06月22日

 井上準之助、團琢磨の暗殺直後に、井上日召を「血盟団」の首謀者として密告した安岡正篤(まさひろ 1898―1983)=写真下=を、弟子の1人だった四元義隆(1908―2004)はどう評価していたのか?

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 これについて四元が述べた部分が、既出の週刊誌1984年2月10日号にある。
 安岡は、陽明学者で東洋思想家。
 1926年(大正15)4月、東京市小石川区原町(当時)に開いた私塾「金鶏学院」に、昭和5年、四元=写真下=が出入りして極右思想をもつようになった、と当時の記事に出ている。
安岡は、多くのテレビ番組に登場し、いまをときめく占い師、細木数子の前夫だった。

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 記事によると、

 安岡が中国古典から引用して垂示する含蓄あることばの数々は、池田勇人、大平正芳といった首相を大いにありがたがらせたと伝えられている。
四元の立場は、安岡氏と相通ずるところもあるが、ご本人は安岡氏が大嫌い。比較されるのさえ不名誉というふうで、
「池田さんや大平さんが私淑していたなんてウソだね。安岡の話なんか出たことないもの。いろいろ言葉を知ってるんで、便利に使われただけ。ノリとハサミっていうんだ、あんなのは」
 と言っていた。

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 安岡の密告については、安岡が「総理のご意見番」として尊重されていた当時の1954年(昭和29)、文芸春秋7月臨時増刊号の特集「昭和メモ」に、井上日召自身(1886-1967)=写真上=が、「血盟団秘話」の題で書いた文章で暴露した。これは以前に書いた通りだが、再録してみる。
 以下は、その原文。

 小沼が井上を暗殺したときに、警視庁では総選挙の折ではあり、政友会と民政党の党争が苛烈を極めていたので、てっきり政友会関係のテロと見込みをつけて、もっぱらその方面を探索していた。

 そのうち三井の團が暗殺されたので、これは民政党関係者の復讐だと推定して、見当違いを捜査していた。
 しかるにどうして事件の真相をつかんだかというと、それは金鶏学院の安岡正篤が、時の警保局長松本学に密告したからだ。

 事件には元安岡の門下生だった、四元とか池袋などが参画している。ここにおいて安岡はおのれに累の及ぶことを恐れて、
「あれは井上日召のやらかしたことだ。井上さえ捕縛すれば、事件は終熄するだろう」
 と示唆したのである。

 これは当時、絶対秘密にされていたが、後に警視庁の役人から、私は直接聞かされたわけだ。しかも安岡は内務省の機密費の中から、五万円受け取ったことまで、分かったのである。
 そういうわけで、私が頭山邸にかくれていることも分かった。頭山邸は警官によって、包囲された。
(井上日召の原文はここまで)

井上日召が書いているように、四元、池袋は金鶏学院で安岡の門下生だった。
 このため、小沼、菱沼がやった井上準之助と團琢磨の暗殺の背後に、日召の血盟団がある、という極秘情報を、
安岡は、警視庁が血盟団の存在を割り出す前の段階で、四元、池袋のいずれか、もしくは両者から知らされていたに違いない。

 四元の、全否定ともとれる元師匠・安岡への人物評価は、
師匠の、裏切りと警視庁への密告、密告の報酬5万円授受への、四元らの激しい怒りを内包しているように見える。

 細木数子の元夫、安岡正篤の陰翳に富んだ人物像には、
いまなお興味深いものがある。
 裏切り。
 人間の負の情熱、という1点で。

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革命をめざした四元たち    一人一殺 S

2006年06月21日

 74年前、血盟団事件が起きて捜査が進んでいた頃、すなわち、昭和7年3月ごろの話に戻る。
 「血盟暗殺団一味13名」は、殺人の共同正犯と判断され、捜査上の目的から、「東京組」「茨城組」「京都組」の3グループに分類された。

 四元義隆(1908―2004)は、「東京組」5人のうちの1人だった。

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 5人は、四元も含めた池袋正八郎、久木田祐弘の七高(鹿児島)出身の東大組に、田中邦雄(東大)、須田太郎(國學院)の、
「インテリばかりである」と記事に書かれている。

 1932年(昭和7)3月28日付けの記事によると、

 四元は、金鶏学院に出入りして極右思想となり、
池袋は、権藤家に寄宿してこれまた極右的となり、同傾向の久木田を入れてファッショ運動の実行等を論議していた。
折から、日召と権藤家で知り合い、
ついに、田中、須田等の右翼学生と共に、深夜権藤邸隣家の空き家で日召、古内等と会合謀議するようになり、それぞれ暗殺役を受け持つにいたった。

 四元(当時25歳)は、学生組の「中心人物」として、1933年(昭和8)6月30日に東京地裁陪審2号法廷で尋問された。

四元 「学校は七高から東大法科(のち政治学科)に入った。私の七高卒業間際に、各学校に日本主義の運動が起こり、私は池袋等と敬天会を起こした。当時東大に上杉博士の七生社があり、これと連絡を取った」

裁判長 「上杉博士は国家は最高の権威なりと言い、国家権力を信奉せよとは説かれなかったか?」

四元 「言われました。しかし先生も、しまいに社会は根底から改造せねばならぬと、その実行運動に入ろうとされたようです。上杉先生は、亡くなられる少し前、社会の根本的改革を力説する論文を雑誌に出され、私も、実行運動を考えるようになった。
 すると大学へ何のために入ったのかも分からなくなり、昭和5年、金鶏学院に入った。同年11月、同学院の生徒が千葉に旅行し、その車中一行のものから私と池袋は、井上に紹介され、先方に着いてから古内に紹介された。当時、私はまだ何も実行運動の事は知らなかった」

 と述べ、いよいよ井上を知ってから、井上の言う革命というのは、四元の考えていた国家改造の意味と分かり、井上と往来するようになった旨を述べた。

 これらが、1932年(昭和7)3月28日付け記事の四元尋問の内容だ。

 四元は、3日後の7月3日の法廷で、
「前回、私は、今過去一切を否定すると申したことについて説明したい」と申し出て、証言を認められた。

四元 「事件までの私は、革命は観念や理論でなく実行でなくてはならぬと思っていた。実行はまず暗殺であり、よりよきものの建設のためには国法を無視した破壊暗殺もやむを得ないと信じて何ら迷いはなかった。
しかし豊多摩刑務所に入ってから、この考えに迷いを感じ、約1ヵ年というもの安眠さえ出来なかった。
それはまず、捨て石になって死ぬ積もりだった自分がまだ生きているのを発見したことで、私は静かに自分を見詰めだした。そうした時、私の前には革命も破壊もなくなった。
今の私は、その当時の心境を許さない。
これが過去一切を否定すると申し上げた意味です」

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 この証言に続けて、記事には地の文で次のように書かれている。

 四元は、今春検事局で「過去の自分は殺人鬼であった」と回顧した心境そのままをさらけ出し、
 未決で、さらに「自治民範」その他の権藤成卿氏の著書を熟読した結果、権藤学は、我が国体と相容れないものではないと考えた旨を述べて、日召とは別な、権藤成卿系の立場にあることを明らかにした。

 一人一殺のテロリストとして、殺人容疑で逮捕されることにより、四元(当時25歳)の、25年間の前生は死に、
新たな2度目の生のスタートが、この法廷で予告されているようにも見える。

 これは、ドストィエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフをはじめ、たくさんの作品に発見される、
 愚かな本性をもつ人間の、善性への回帰の物語に見える。
 デ・ジャブ(既視感)だな。

 四元が死ぬまで親しんだ禅宗は、人間の本性を善であるとし、座禅は心の内に眠る善に目覚め、それを磨くための手段なのだ、と説いている。

 もっと効率的にいかないものかなー。
 人間てぇものは。

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四元義隆、「体制内改革者」へ    一人一殺 R

2006年06月21日

74年前に血盟団事件のテロリストだった
四元義隆(1908―2004)が、日本の最高権力者、歴代総理大臣に指針を示す、指南役にまでなった心の軌跡はどんな風だったのだろうか。

 手痛い挫折を味わって禅修行などで深く思索し、
破壊者から、「体制内改革者」へ大回頭した。
といってしまえばそれだけのことなんだが、大事なのは、心の軌跡の、描線のありさまだ。

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1932年(昭和7)年ごろの四元義隆(24歳)
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 前回で引用した、週刊誌の1984年2月10日号に、
そのあたりに触れた箇所がある。

 四元氏は、暗殺決行の機会を得ず、懲役15年の判決を受けて小菅刑務所に入る。足かけ9年をそこで過ごし、昭和15年、恩赦で出獄した。
 戦時色が強まる中、当時の首相、近衛文麿の、
 「愛国者を監獄に入れておくのはもったいない」との意向が背後にあったといわれている。
 刑務所内で四元氏は、
ひとつの考えに達していた。それは、

 「あらゆる組織には中心がある。会社には社長がおり、国には首相がいる。どんな複雑な組織でも、存亡がその1人の決断にかかる時がある。中心になる人物の出来不出来で組織は栄えもし、滅びもする」

 というもので、出獄後の四元氏は、もっぱら時の首相に接近して意見を述べることに精力を傾注し始めた。

 分かりやすい。ちっとも独創的じゃない。
 いろんな本やなんかでこれまで見聞きした、いろんな人々の転向の「理由」と似ている。

 「権力の底知れぬ恐ろしさを監獄で味わわされた。拷問は心底恐ろしかった。屈辱的でつらかった」
 ってのも付け加えてくれれば、もっと親近感が湧いただろうけど。

 四元は頭が良く、現実主義者だった。禅修行で、肝も出来ていた。
 近衛に見出されて、
それがきっかけで四元が己の役割に目覚めた、ということだろう。

 近衛は、細川護煕・元首相の祖父。

 四元が、長い間に培った政財界の人脈を引き寄せて細川総理誕生に大きな貢献をし、
幕引きもちゃんと済ませたのは、近衛への感謝の一念だったのだろう。
 俺はそう思う。

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 週刊誌記事の引用はこれだけで十分なんだが、
この後も面白いので、おまけに引用しておこう。

 最初は近衛で、鎌倉山の別荘を訪ね、そのころ「日独伊三国同盟」を結んでタカ派路線を走っていた松岡洋右外相のクビを斬れと3時間にわたって説いた。
 「いまから思うと未熟きわまりない議論だったが、名誉とかカネ欲しさでないことは、よくわかっていただけたようで、公が他人と2人きりでした会談としては、記録的な長さだったと、あとで書記官に聴かされた」と述懐する。

 これ以後、政界中枢の知遇を得て、終戦時の鈴木貫太郎首相のときには、その側近となっていた。
 四元氏は、
 「鈴木さんが歴代首相の中で、一番公正無私な人だった」
と言っているが、
 この首相を、四元氏が、昭和5年から師事していた、三島の竜沢寺を復興した臨済宗の傑僧、山本玄峰老師(昭和26年、96歳で死去)に引き合わせ、戦争終結の決断をうながしたという話が残っている。

 戦後は、吉田茂に目をかけられ、四元氏の暗殺担当だった牧野伸顕伯爵が、吉田氏の岳父だったにもかかわらず、このワンマン宰相に好き放題言える、ほとんど唯一の人間になった。
 60年安保の際、立ち往生した岸政権の後釜を、池田勇人氏にするか、佐藤栄作氏にするかで迷った吉田氏が、公平な意見を聞くために滞在中のパリへ呼び寄せたのも、この人だった。

 以後、池田、佐藤を経て中曽根首相に至るまで、四元氏は一貫して「組織の中心」へ働きかけるという当初の姿勢を崩しておらず、
 「口きいたことのない首相は、東条英機と田中角栄ぐらいだ」という。(中略)

 四元氏の評判は、信じられないくらいいいのである。
 四元氏と同じ時期、共産主義者として小菅刑務所に服役していた田中清玄氏は、
 「あのころの小菅は、有名な思想犯が集まっていたが、思想犯の全部が人格高潔というわけじゃなかった。本当に尊敬できた人物は、5.15事件の主謀者だった橘孝三郎氏と三上卓、それに四元さんの3人だけだった」
と語る。

 田中氏は歯に衣着せず辛辣に他人を評することで知られているが、その人がこう褒める。ちなみに田中氏は、四元氏の紹介で、獄中で山本玄峰老師を知り、出所後は竜沢寺で修行した1人である。

 また、毒舌にかけてはこれも天下一品の稲葉修代議士も、
 「利権を漁らない人。橘孝三郎と三上卓と並ぶ獄中の高潔人物? 三上卓はともかく、橘さんと四元さんについては当たっている」
と保証している。

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謎の人物、四元義隆    一人一殺 Q

2006年06月19日

 新聞、テレビ約20社が加盟する鹿児島県政記者クラブは、「青潮会」という、若々しい名が付いている。
 衆院奄美群島区(当時)で3度目の挑戦を目指していた、徳洲会グループの徳田虎雄理事長が、鹿児島市内の料理屋に青潮会の記者たちを招いて「懇談会」を開いたのは、1987年5月のある晴れた日のことだった。

 皆がビールを2、3杯飲んだあたりで、
東京政治部から転勤してきたばかりの痩せて黒縁めがねをかけた日経記者が微笑みながら聴いた。

 「徳田さん、四元義隆ってどういう人です? 官邸記者の話だと、事前アポ(事前の約束)なしでよく官邸に来て、中曽根総理と自由に会っては、長時間話し込んでいます。三幸建設って会社の社長らしいんですが……」

 「う? うん」
全国に50箇所の病院、170箇所の医療保険施設を擁し、医師1000人を含む職員数1万6000人の徳洲会グループのトップを務める徳田が、
 言葉に詰まって黙り込み、大きな両目をギョロッと剥いて、黙ってしまった。

 ん? いけないことでも聴いたのか?
 徳田の態度に、俺は、そんな感じを持った。

 いや、徳田はまだ当選前だったから、政界中央の事情に暗いだけだったのかも知れない。この日経記者にしても、単に、中央政界の情報に詳しいところを見せただけなのかも知れなかった。

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1986年8月当時の四元
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 四元義隆(1908―2004)=写真上=は、殺人罪で起訴された血盟団事件のテロリスト13人の中で、
政治権力のもっとも近くにいて、秘書や「指南役」、「先達」として、歴代総理に影響力をもち続けた人だった。

 1984年(昭和59)2月当時で、社員260人余り、年商約160億円の「三幸建設工業」の社長をしていたが、首相とのそうした関係を、工事の受注契約を得るために利用するようなことはなかったとされる。

 週刊誌の1984年2月10日号に、
「中曽根首相が指南番と仰ぐ 四元義隆の実像」という記事がある。これによると、

 中曽根首相(当時)は、東京都台東区谷中にある臨済宗の「全生庵」を、毎週土曜の夜8時20分ごろ訪ね、
茶を点ててもらった後、本堂で2時間、座り詰めで座禅をするのが楽しみだった。

 1月28日夜7時に、四元義隆氏が訪ねてくると知ると、
 「四元さんを長く待たせるわけにはいかない。私も7時に行く」といいだした。
 7時の時間帯は一般参禅者たちで込んでいるため、警備上の問題もあって、結局いつも通りの時間に行ったが、中曽根は、そういう気持ちを四元にもっていた。

 ロッキード事件が発覚した1976年、自民党幹事長だった中曽根は進退におおいに迷い、鎌倉・円覚寺に住んでいた四元氏を訪ね意見を求めた。答えは、
 「地でいかれてはどうです」

 中曽根は、この一言に翻然とし、
「どうせ俺は、群馬の材木屋の次男坊だ」と幹事長を辞してしまった。
「普通の時なら当たり前の言葉ですが、辛苦の時にはそれが指針になるんですな」
 と、首相秘書官の上和田義彦さんが解説した。

 四元は、三島市の竜沢寺を復興した臨済宗の傑僧、山本玄峰老師(昭和26年、96歳で死去)に昭和5年から師事。
「在家ながらお悟りのあった人」と評されるほど、
高度な禅の境地に達した人だった、という。

 細川護煕・総理大臣とも密な関係をもっていた。
 細川が、1994年4月8日に退陣表明記者会見をする2日前、
「首相にアドバイスを」との、四元のセットにより、細川は、財界長老の中山素平・日本興業銀行特別顧問、平岩外四・経団連会長と会談した。中山、平岩は退陣を暗に勧めた。

 四元は、細川が熊本県知事時代から、「将来の日本の指導者」と目をかけ、京都の禅寺で座禅を組んで精神修養するよう「命じた」関係だったという。

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 総理との連携は、中曽根、細川だけではなかった。

 血盟団事件の殺人罪で1934年(昭和9)11月22日、東京刑事地方裁判所で懲役15年を言い渡され、
小菅刑務所に服役中の1938年(昭和13)9月13日に恩赦で仮釈放になってからは、

 近衛文麿元首相の秘書を務めたほか、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相と親しく、
「戦後政界の黒幕的な存在」と見られていた。

 細川護熙元首相が神奈川県湯河原町に持つ「近衛山荘」の光熱費を、四元の三幸建設工業が一時期負担。四元は、乱脈経営で破たんした旧安全信組の非常勤理事も務めたこともあった。

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付け狙ったが殺れず    一人一殺 P

2006年06月18日

 次の内閣総理大臣を昭和天皇に推薦する役目をつとめる、最後の元老、西園寺公望・公爵(1849―1940)に対する暗殺役が
元東大生池袋正八郎(28)=写真下=と決まったのは、1932年(昭和7)1月31夜の会合だった。

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 池袋は、2月3日、井上日召からピストル1丁と実弾25発をもらい、静岡県・興津清見寺(現在の静岡市清水区興津清美寺町)の西園寺の別荘「坐漁荘」に行った。

 西園寺は庭によく出る。
 調べでそう分かっていた。

 このため池袋は、坐漁荘の垣根越しに庭をたびたび覗いては、西園寺の姿を探した。裏山にも回り、庭を見下ろした。
 ピストルで撃ち殺すためだった。
 そうして4、5日が過ぎたが、西園寺は姿を現さなかった。

 2月9日夜には、小沼が井上準之助を暗殺し、翌10日、新聞記事になった。
 それで池袋は焦り、坐漁荘に踏み込もうと思った。
 しかし踏みとどまり、13日にいったん帰京、濱大尉の家で、古内に会い、古内と田中の応援を求めた。
 「応援のことは、井上に相談してから決めよう」
 と、古内は答えた。
 その後で、
 池袋は警視庁に捕まった。麻布三連隊前だった。

 池袋は、血盟団事件の翌年、1933年(昭和8)7月3日午前9時20分、東京地裁陪審2号法廷(酒巻判事)であった公判でそのように証言した。

 なんだか言い訳めいたものを感じるのは、
 筆者の勘ぐりのせいだろうか。殺ろうと思えば、殺れた状況だったにもかかわらず、
 池袋が恐ろしくなって逡巡してしまい、後じさりした姿がイメージに浮かぶ。

 同じ法廷で池袋は、現在の心境を問われ、
 「自分は、なんら後悔しない。しかし私は、革命をあまり偉い仕事と考えすぎた。人間は平常心をもってせねば、妄想に陥りやすい。私の考えも妄想であった」
と、反省を含めて回顧した。

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 三井財閥の最高責任者、池田成彬(1867―1950)暗殺を担当した血盟団参謀格、元小学校教員古内英司(32)=写真下=の動きは、
1933年(昭和8)6月30日午前9時、東京地裁陪審2号法廷であった第2回公判で、古内が証言している。

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 古内は、池田邸近くのタバコ雑貨商中島幸太郎方に下宿したり、三井銀行付近から、神奈川・大磯の池田別邸、池田経営の農園付近に張り込んで暗殺の機会を待ったが、ついに姿を見つけられなかった。

 証言の中で古内は
 いかにしてテロリストになったかについて述べている。

古内 「私は師範卒業の前後から、個人主義の幅をきかす社会に疑いをもち、最後には国家改造には、流血もやむを得ないと考えた。國憲ヲ重シ國法に遵ヒとの教育勅語を拝してなかなか決心がつかなかった。しかし死をもってこれにおわびしようと決心した」

裁判長 「日召を知ったのは?」

古内 「昭和4年末、前渡小学校から水戸の自宅へ帰る途中、大洗に日蓮宗の堂が新たに設けられていたのを見て、人に聴くと立正護国堂といい、偉い人がいるとの事で教えを乞いに行った」

 昭和5年10月、井上が護国堂を去り、古内も6年10月には、教職を捨てて上京し、四元らと知り合った。
 6年12月25日、権藤成卿宅、同31日の、下高井戸、松濤閣であった、血盟団員や軍人らとの各忘年会に参加した。

古内 「井上、四元、池袋、私の4人が権藤方付近のこたつにあたっていると、四元が急に九州へ行くといいだした。
この時には、民間だけで事を起こそうという気になってきている時なので、大村にいた故藤井大尉(少佐)に四元が了解を得ることになっていた。
それが四元の帰りが遅いので、昭和7年1月31日、その権藤方空き家10畳の間で、井上、池袋、私、同志数名が集まり、あらかじめ私(古内)が選んでおいた政界、財界、特権階級の代表的人物20名を暗殺することに決した。
で、暗殺すべき人物の担当は権藤方の寮6畳の間でそれぞれ井上に申し出て、承認を得た」

 四元義隆については、少し詳しく書かなければならない。
 つい最近の中曽根内閣、細川内閣などまで、
官邸に自由に出入りする「総理の指南役」で、謎の人物として、人々の注目を集めていたからだ。

 次回で書く。たぶん。

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西園寺公望も狙われた    一人一殺 O

2006年06月17日

 昭和天皇の信頼厚かった、
 牧野伸顕内大臣(大久保利通の次男)、
 唯一の元老、西園寺公望・元首相が、
 一人一殺の標的になっていたことが、血盟団事件捜査の進展で明らかになった。
 二人は、天皇の手足となって、天皇の意向を政界で実現するパイプ役を果たし、天皇制支配の支えだった。

 その手足をもぎ取ろうとしたのだ。

 これは、天皇が絶対権力をもつ明治憲法下で、あってはならない最大のタブー(禁忌)だった。知られるだけで天皇の権威を傷つける衝撃があったから。

 「天皇は、日本社会の差別の根源」という指摘は古くからあるが、
 それに、反権力の鋭い刃が向けられたのは、
 怒りが、矛盾の本質をすっくとえぐり出す、自然な成り行きだったのだろう。

 「天皇制は、無知蒙昧な人々をコントロールするための政治的方便として保持されている敬虔な詐欺である」
 と、1912年版「日本事物誌」の著者、バジル・ホール・チェンバレンは述べている。

 エジプト駐在カナダ大使をつとめた、日本研究者ハーバート・ノーマンは、
 「天皇制は、反動の側に方向づける一種の偏向性を日本の国家機構に与えずには置かなかった」と指摘した。
 ノーマンは、マッカーサーに信頼され、占領政策の形成に影響をもった日本研究者だった。

牧野 正.bmp
牧野伸顕
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 警視庁の調べによると、
 故大久保利通の次男で、文部、農商務、外務大臣などを務め、昭和天皇の信頼厚かった牧野伸顕内大臣・伯爵(1861―1949)=写真上=の暗殺を企てていたのは、東大法学部生、四元義隆(25)、

 天皇に内閣総理大臣を推薦する補佐役で総理大臣を2回務めた「皇室の藩塀」、最後の元老、西園寺公望・公爵(1849―1940)=写真下=を暗殺しようとしていたのは、元東大生池袋正八郎(28)。

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西園寺公望
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 さらに、血盟団参謀格の元小学校教員古内英司(32)は、
 「ドル買いで国内の不況をいっそうひどくした元凶」と非難された、三井財閥の最高責任者、池田成彬(1867―1950)=写真下=を、
一人一殺しようと狙っていた。

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池田成彬
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 牧野伸顕は1871年、10歳の時、岩倉使節団に父の大久保利通に連れられて加わり渡米、フィラデルフィアの中学に入学。東大中退後の1880年、外務省に入った。
 伊藤博文と、その後継者の西園寺公望に近い官僚政治家になり、対外協調的、リベラルな政治姿勢で、薩摩閥によって宮中と通じたといわれる。
1921年、西園寺の意向で宮内大臣に、1925年には内大臣に就任。牧野への昭和天皇の信頼は厚く、1935年に退任する際には、
 天皇は、惜しんで涙を流した。

 西園寺公望は、藤原房前を始祖とする藤原北家の血筋で、藤原氏の末裔だったから、「皇室の藩塀」(皇室を守る砦)であるという意識が強かった。
1871年にフランスへ官費留学して、フランス首相のクレマンソーとつきあい、パリ・コミューンを間近に見た経験などから、自由民権運動に親近感が深かった。

 大正天皇即位で元老の1人に任命され、1926年12月28日、昭和天皇は、「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」を与え、西園寺が、唯一の元老として総理大臣推薦の任務につくことになった。
 西園寺は1940年、米内光政首相まで、首班指名に関与し続けた、という。

 警視庁の捜査の結果、
血盟団が暗殺を計画していた政財界の大立て者は、合計で約20人にのぼった

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 「人間の運命というものは、不可思議なものだ。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない池田成彬が助かり、
そう早くは行かぬだろうと思った團琢磨が案外あっけなく殺されている。
池田を狙ったのは古内英司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。
古内は謹厳そのものの人物で、これが寝食を忘れて付いていたのだ。池田の別荘、本邸、それをいちいち突き止めて、吸盤のように吸い付いていたのだ。しかも本人は、麻布一連隊の営内に居住する大蔵中尉のところで寝起きしている。
警察の手の絶対届かぬ場所に潜んで、寝食を忘れてつけねらっても、ダメな時にはダメなのだ」
と、井上日召は「血盟団秘話」の中で、
人の運命の不思議さをしみじみと語っている。

古内(32)と日召(43)の関係は、1927年(昭和2)1月、日召が茨城県祝町の山林に護国堂曼陀羅寺を建てた頃から始まった。
茨城県結城小学校に勤めていた時に肋膜を患って休職になった古内は、力強いものを求めていて、日召を崇拝し、社会制度の欠陥、政党の腐敗などを互いに論じて深くなったらしい。

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井上日召に重大な嫌疑    一人一殺  N

2006年06月15日

 1932年(昭和7)2月9日夜8時過ぎに井上準之助・前蔵相を暗殺し、逮捕された小沼正(21)は、

 東京地検の厳しい調べにもかかわらず1ヶ月以上も落ちなかったが、
 逮捕されて36日目の3月16日夜に、拘留中の市ヶ谷刑務所で、やっと自供を始めた、
 と記事に出ている。

 團琢磨・男爵暗殺の菱沼ら4人の行動隊の逮捕、井上日召、古内英司の逮捕を、検事が小沼に告げたら、

 小沼が「流石にがく然として色を失い、急に今日までの陳述をひるがえし、この結果、共犯嫌疑の有無について多分の疑問があった井上日召に重大な嫌疑がかけられるに至った」
 と書いている。

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 井上日召に、2つの暗殺事件との共犯関係があるのかどうか?
 日召が、3月11日に自首して拘留されて以来、16日夜まで、検事局も判断がつきかねていたらしい。

 しかし、小沼の供述で、井上準之助・前蔵相暗殺に使ったブローニングは、日召から手渡されたらしいことが浮かび上がって来た。

 記事にはこう書かれている。
 
 「日召に迷惑をかけまいと、ピストル授受関係は藤井少佐と自分との2人だけの如く供述してきたが、今回日召自首を耳にして遂に日召がピストル授受の仲介者であった事まで自白したとも考えられる」

 記事は、いちおう、推測のニュアンスで書かれているが、
 後で、日召が書いたものなどから判断すれば、この時点で小沼が自供したと考えても差し支えないのではないか。

 検事局が小沼の自白が始まるのを待っていたのは、

 血盟団副頭領格の古内英司が、菱沼、黒澤、田倉、田中の4人にピストルを渡したが、小沼には渡していないと言っていたためだった。

 「小沼は一味の中では相当頭株の人物で古内と対等の地位にあったらしいことなどからすれば、小沼が古内からピストルを渡されるはずなく、むしろ藤井少佐からピストルを受けたのは井上日召で、小沼は日召から直接、古内は日召から受けて菱沼ら4名に渡したとも考えられる」
と記事にある。

 この結果、
 「日召を被疑者扱いすることを今日までちゅうちょしていた検事局は、小沼の今回の陳述こそ真相を伝えたのではないかとすこぶる意気込み、日召に対して殺人共同正犯の重大な嫌疑をかけ徹底的取り調べをなす事となった」

 「血盟団」など、「ファッショ団体」の数だが、
 警視庁の調べによると、1932年(昭和7)3月16日現在で、東京だけで150団体あった。会員は、全国を通じて50万人だった。

 「さしあたって、東京在住者の首脳部を徹底的に調査し、全国にわたって会員の動静、本部との連絡関係に至るまで一糸乱れぬ調査をなす一方、極左方面の内偵は一層堅実にし、一歩も進出させぬ対策を取り、この不安な世相を一掃することになった」
と記事には書かれている。

 しかしこれら政府の真面目そうな姿勢は、口で言うだけ、ポーズだけの、きれい事に過ぎなかった。

 この「血盟団事件」に呼応して起きた、
 5.15事件から、2.26事件の時代にいたるまで、民間を含む右翼の活動にはいっそう拍車がかかり、
 これらの民間右翼団体の動きが後押しをする展開になって、
軍国主義の暗闇の時代に突き進むのだ。

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いくじなしの「インテリ」    一人一殺 M

2006年06月14日

 井上準之助、團琢磨が、24日の間を置いて、
茨城出身の青年2人に拳銃で相次いで殺されたに過ぎなかった連続暗殺事件は、

 帝大生田倉、田中の逮捕がきっかけで、
水面下に隠されていた巨大な暗部が、さらされることになった。

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後でぞろぞろと出てくるんだが、とりあえず3月16日時点で判明した暗殺計画は、

若槻礼二郎・前首相 暗殺担当=京大学生、田倉利之
床次竹二郎・前鉄道相 暗殺担当=東大学生、田中邦雄
郷誠之助男爵 暗殺担当=黒澤大二
井上準之助・前蔵相 暗殺担当=小沼正(既遂)
團琢磨・三井合名理事長 暗殺担当=菱沼五郎(既遂)

 1932年(昭和7)3月17日付けの記事によると、
「財閥関係の人物は、小沼、菱沼、黒澤など無知な者が担当、政界関係は、学生側のインテリが受け持つこととなっていた」

 東京地方検事局木内検事の取り調べに対し、
小沼や菱沼は驚くほど口が堅かった。
 そこで、木内検事は、比較的インテリな、元小学校訓導古内英司を責めれば必ず口が割れる、と狙いを定め、全力で取り調べた。
 果たして、古内から田倉、田中両帝大生の存在が明らかになったのだった。

 「広野にはびこる巨木のため、可憐なる草木は実も花も結べない。巨木の討伐は信念からだ」
と、両帝大生は、暗殺に駆り立てられた動機を語った。

 小沼、菱沼、田倉、田中の4人は、ブローニングの短銃を1丁ずつ渡され、古内が総指揮をとっていた。
 4人のうち、小沼が一番激しく、
自分が先鞭をつければ他の者も決行するだろう、と第一陣を引き受け、井上・前蔵相を殺ったのだった。

 しかし、「インテリ」と一目置かれた学生側は、決行が鈍り、
 
 田倉は、若槻・前首相が関西に選挙演説で行った際に後をつけながら果たさず、
 東大法科学生、田中邦雄=写真下=もピストルを持っているだけで恐ろしくなって、預け先を3度も替え、最後には西巣鴨の親戚の家に預けていた。

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 「銃剣道をやり喧嘩に強い」という田中への人物評=壱拾弐の写真に見出し=は、まったく当たっていなかったように見える。

 田中は、「東大七生社」、田倉は「京大猶興学会」のメンバーだった。両会とも、右翼団体だったようだ。

 おそらく前途がまったく見えなかった茨城の青年、小沼、菱沼の鮮やかな実行ぶりに対し、
 前途の可能性が見えなくもなかったに違いない、京大生田倉、東大生田中の、情けないしくじりぶり。
 決意が鈍ったんだな、退路があった帝大生たちは。

 これらの結末に、人間不偏の真理が見える。

 田倉、田中両帝大生が、
 井上、古内、小沼、菱沼と同志になったきっかけは、
1931年末から、権藤成卿の「自治学舎」に出入りしたこと。

 しかし、「血盟5人組暗殺団」が、権藤の「自治学舎」で結成されたことはなく、
 たまたま、1931年4月に右翼団体「生産党」の日協前衛隊員19人が、世田谷の松陰神社で血盟し、その隊員たちの中から、今度の一味が現れてきたことがはっきりして来た。
 これがため、井上日召、権藤成卿氏がどの程度まで彼らと密接な関係が結ばれていたかが追及されている。

 と、記事には書いてある。

 「世田谷の松陰神社で血盟」の記事は、3月16日の新聞にでている。

 血盟の物証となったのは、19人が血判で連書した巻物で、小沼、菱沼、黒澤も最後尾に名を連ねていた。
 警視庁が、3月15日夜、右翼団体「日協前衛隊」の狩野敏隊長宅を家宅捜索した結果、見つけ、証拠品として押収していた。

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社会の注目度、いっそう上がる    一人一殺 L

2006年06月13日

 京大部文学部学生、田倉利之(24)と、
 東大法学部学生、田中邦雄(23)が、

 政財界の要人の命を狙う、
 一人一殺の必殺テロリストとして逮捕されたため、
 当時の政財界や政府関係者、新聞人、国民は、ひどくびっくりした。

 そして、2人の逮捕がきっかけで、
 連続テロ事件の捜査は、日本中の注目をいっそう集めることになった。

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 井上を暗殺した小沼正、團をしとめた菱沼五郎は、茨城県の田舎出身の、仕事がなかなか見つからない人々で、

 国民たちの多くが、
 「あー、不満をもつ若者たちが、追い詰められてやったんだなー」
 と、解釈することができたんだが、

 田倉と田中は、日本帝国の高級官吏養成機関、帝國大学学生たちで、

 大学を卒業して財界や役所など、どっかに静かに勤めていさえすれば、
 エスカレーターに乗ったようにして、将来の出世や、豊かな生活が保証されていたからだ。

 「ななな、なっ、なぜなんだっ!」
 と驚いた当時の人々は、1995年に毒ガスで地下鉄テロを起こした、
 ナントカ真理経の信者たちの中に、

 評価の高い大学の大学院を卒業した人々がいたことに、
政府・政財界・マスコミ関係者が驚いたように見えたことと、
ずいぶん似ていはしないか?

 小沼、菱沼も含めて、彼らはなぜ暗殺者になろうとしたのだろう?

 死にたかったんだ。
 死に場所をただ求めていた。

 「何しろさんざん苦悶したあげく、死のうと決めた連中である。何も欲がない。生きていることがつまらない。どうして死のうかと、そればかり考えている者どもだからたまらない……」と、井上日召が「血盟団秘話」に書いている。

 若槻礼次郎・前総理大臣暗殺を、
逮捕された京大文科生、田倉利之(24)=写真下=は担当していた。

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 1ヶ月と10日余り前の2月4日、
 若槻が選挙応援で東京から関西に行った時には、同じ列車に乗り、大阪、京都、名古屋とつけ狙い続けたが果たせず、
 2月10日の若槻の帰京に合わせて上京、
 本郷の若槻邸付近に下宿して若槻邸付近を歩き回っては、機会を狙っていた。

 「当局が愕然とする」この自白は、
3月15日、警視庁捜査1課中村警部による十時間余にわたる「厳重取り調べ」の結果、
 夕刻になって田倉から得られたのだった。

 拳銃は、国学者権藤成卿宅で知り合った古内英司から、
 1月末に渡されていた。

 さらに、総選挙開票当日の2月21日、
若槻男爵が、関西での応援演説を終えて、同夜10時14分京都駅発の列車で帰京することを知った田倉は、

 短銃をもって京都駅に行き、上り1、2等待合室で若槻男爵の到着を待った。

 しかし、待合室に、若槻は現れなかった。
 田倉は、若槻の予定が変更されたと思いこみ、
入場券は買わずに待合室前でホームの方をぼんやり見ていた。

 すると、若槻が不意に現れた。
若槻は駅長室で休んでいたのだった。

 田倉はあわてて射殺しようとしたが、この時、若槻との間は
4、5間(7〜9b)以上離れていた。
 田倉は、命中の見込みがないと思い、諦めて引き揚げた、という。

 「風前の灯の運命にあった若槻男爵は、田倉が京都駅構内の事情に暗かったのと、警戒厳重のため、危ういところを幸運にも逃れた訳である」
と、3月18日付け記事は述べている。

 親を登場させて、子供の犯罪について謝罪させるという、
今のテレビ局がたびたび使う人権侵犯の手法は、
 74年前のこの頃は、何の不思議もないやり方だったのだろうか。

 当時、福岡県朝倉高等女学校校長をしていた田倉の実父、
 田倉紋三さん(56)を甘木の自宅に記者が訪れて取材し、
 記事にして【甘木電話】で送っている。

 見出しは、
「申し訳なし 田倉の父語る」

 「今夕15日、新聞を見て仰天し、飯も食わずにうろたえているところです。團男爵の不幸があった時には犯人は何という意思の薄弱な者だろうかとよそ事のように思ったが、我が子ながら、そんな意思の弱い者ではなかったと思っています。彼は歴史に興味をもっていましたが、とうとうのぼせたのか、まるで良いことをしたと思っているようです。こういうことになっては、われわれ教育家として何とも世間に申し訳がありません、とひたすら恐縮していた」

 東京地方検事局木内検事の調べによると、
 田倉、田中は、大川周明や北一輝らも狙っていた、という。

 「最初、行地社の刊行物などを愛読したが、次第に大川周明氏らは、自分らを利用して政界を立て直し、大川氏は総理大臣に、西田税、北一輝両氏もそれぞれ大臣のイスを得ようとしているように考えられたので、大官、財界の大物等の暗殺を決行するついでに、大川、西田、北の3氏も暗殺してしまう積もりだった」
 との、供述があったことを示し、

 「この申し立てが果たして真実通りか否かなお調べを続行中であるが、あまりにも夢物語的なので……」
 と書いている。

 警視庁は3月17日朝、京都市左京区田中門前町43、下宿屋勝栄館に田倉と共に住んでいた、京大法学部生、森憲二、同大法学部2回生、星子毅の2人も、田倉の共犯容疑で逮捕した。東京へ護送の方針、と書いている。


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東大生と京大生のテロリスト    一人一殺 K

2006年06月12日

 一人一殺のために、
8丁の拳銃が用意されていた。

 その事実を、警視庁は、3月14日時点ですでに掴んでいた。
どうして8丁と分かったのか?
 それについての記事は見つからない。

 井上・前蔵相を暗殺した小沼正が2月9日、
 團・三井合名理事長を暗殺した菱沼五郎が3月5日、
 そして、井上日召と古内英司、黒澤大二が11日までに逮捕されたから、彼らへの事情聴取で分かったのだろうと推理するのが、妥当なんじゃないか。

 小沼と菱沼から、1丁ずつ押収しているから、
残る拳銃は6丁だった。

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 警視庁は、6丁の所在について、留置中の黒澤、古内らに問いつめた。その結果、14日深夜になって、

 京大文学部学生、田倉利之(24)
 =本郷区駒込上富士前19、医師福田金一方
と、
 東大法学部学生、田中邦雄(23)
 =本郷区金助町55,細野清太郎方
の、2人が持っていることが分かったため、

 15日午前6時、中村、清水両主任警部が部下数人とともに、2人の寝込みを襲って逮捕し、
 田倉の部屋から、ブローニング3号型6連発拳銃と弾薬6発、
 田中の部屋から、同型ピストル1丁と弾薬2箱50発を押収した。

 田倉と田中は、代々木上原の国学者、権藤成卿の家に出入りしていて、井上日召や古内英司、菱沼、小沼と知り合った。
 拳銃を誰から手に入れたかについては
 2人とも口が堅くて、まだ話していなかったが、
 井上か古内が渡したのだろう、と警視庁は見ていた。

 記事には、

 これで、藤井少佐が上海で買い入れた8丁のピストル中4丁は発見し、残る4丁は海軍法務官が某方面から押収保管しているので、問題のピストル全部の所在が判然した。
 警視庁は、2人の所持していた拳銃が藤井少佐の買い入れたものかどうか、番号を確かめる。
          と、書かれている。

 「残る4丁は海軍法務官が某方面から押収保管」とは、

 海軍の法務官が、警察の依頼を受けて海軍軍人の家を家宅捜索し4丁を発見、押収したのであろう。

 井上日召が、「血盟団秘話」の中で書いているように、

 これらは、「濱勇治・海軍中尉(5.15事件に参加)の家の玄関の下を掘って箱に入れて隠しておいた」拳銃の残りだったのだろう。
 「血盟団秘話」は、この連載の七回目にも書いたとおり、文芸春秋1954年(昭和29)7月臨時増刊号の特集「昭和メモ」に掲載された文章だ。

 逮捕された2人の大学生の1人、
京大文学部の田倉利之(24)=下の記事の顔写真下=の住所は、
京都市北白川別当町9だが、

 半月前の2月29日夜、貸間札で見つけて本郷区の下宿に引っ越してきた。
 荷物は、布団に手回り品少々、「支那革命」という本1冊。
 15日午前6時に、刑事が踏み込んだ時、女中が、
 「あのおとなしい方がどうなすったでしょう」と驚き、
 「いつも決まって友達が1,2人訪ねて見えるだけで、昼頃まで寝込み、夜になるとどこかへぶらりと出て行ったようです」と語った。

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 もう1人の、
東大法学部の田中邦雄(23)=上の記事の顔写真上=は、
鳥取市西町303生まれで、松江中学、松江高校卒業後、昭和5年、帝大法科に入学し、この時3年生。身長5尺7寸(172a)でがっちりした体型だった。

 1931年(昭和6)春から、本郷の「仏教青年館」に止宿していたが、秋に飛び出し、友人宅を転々としていた。
 「柔道、剣道ができる人で、平常から日本刀や短刀をもっていたくらいだから、短銃をもっているくらい当たり前でしょう。喧嘩の強い、極右の思想をもつ人です」
 と、同青年館の人が語っている。

 一方、権藤成卿は、14日夜、帰宅を許されたが、
 15日午前10時に、再び警視庁に出頭、清水警部の取り調べを受けている。
 と、記事に出ている。

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さわやかに笑い、拳銃もらう    一人一殺 J

2006年06月11日

 「芋蔓式」という言葉があって、
 これは、例えば集団よる犯罪で、一人が捕まると、自供などによって犯罪者たちのすべてが根こそぎ捕まっちゃうことをいう。
 サツマイモは一本の蔓に実がいっぱいなるから、蔓を引っ張れば、地中のすべてのサツマイモをずるずる引っ張り出すことができる。
これが語源だ。

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 血盟団事件のメンバーたちは、芋蔓式に逮捕された。
 芋蔓のツルの役割を果たしたのは、
 一人一殺のための凶器、8丁の拳銃だった。
 ブローニング3号型6連発と書いた記事があるが、8丁の全てが同型だったかどうかは、記事中に見つからないので分からない。

 8丁の短銃は、1931年秋、上海事変で、上海上空であった戦闘機による空中戦で亡くなったパイロット、海軍の藤井斎・少佐が中国・大連で購入し、海軍の飛行機で日本へ運んでいた。
 海軍パイロットだったから、税関は素通り。箱に入れて、濱勇治・海軍中尉(5.15事件に参加)の家の玄関の下を掘って隠しておいたのだった。

 井上は、短銃は、暗殺決行前日になって、はじめて渡すことにしていた。

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 1932年2月8日夕方、小沼正=写真上=がにこにこして、代々木上原の権藤宅空き家に現れ、井上に、
 「先生、拳銃ください」と言った。
 「見つけたな?」
 「ええ、大丈夫です」
 「そうか」
 とのやりとりがあった。
 やがて井上は拳銃と小遣い50円を小沼にやった。
 小沼が井上準之助を暗殺したのは、翌日だった。

 菱沼五郎=写真下=が3月5日に團琢磨を暗殺する前、井上日召は、頭山満の家の武道場2階に潜んでいた。

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 菱沼は、やはりにこにこしながらやってきて、服をぱっと脱いで、
 新しいワイシャツの背中を日召に向け、
 「先生。お題目を書いてください」という。
 「見つけたな」
 と聴くと、黙って背中を向ける。

 日召は、
 南無妙法蓮華経と、背中に書き、
 拳銃と50円を渡した。

 「行ってきます」
 菱沼は、まるで銭湯にでも行くような感じで出て行った。

 菱沼は、暗殺成功に備えて、まず円タクの助手になった。
 東京の地理を知り、團琢磨の車のナンバーなどを割り出すという準備のためだ。

 新聞雑誌を買っては、團の写真を切り抜いた。
 三井本館の玄関口が一目で見える三越百貨店の休憩室に座り込んで毎日見ていると、いつも午前11時ごろに、写真と同じ顔の男が、團の車ナンバーと同じ車に乗ってきちんと判を押したように、出勤して来る。

 これらのことを突き止めていた。
 そのうえで、3月5日に三井本館の玄関のところで待っていた。
 たった1発で終わりだった。

 拳銃は、素人が使った場合、3間(5.4b)離れたら当たるものではない。よほどの腕と度胸のある者でない限り当たらない。

 それで井上は、
 「討つときに、相手の体に自分の体をしっかり押しつけて討てば間違いない。度胸のある者でも、緊張すると震えるものだ。で、体ごとぶつけて討たないと失敗する」
 と、2人に教えていた。

 警視庁は、8丁の拳銃の発見に、全力を尽くした。この拳銃の受け渡し関係の捜査がサツマイモのツルのような役割を果たして、血盟団の、
壮大な暗殺計画が浮かび上がって来たのだった。

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行動者、日召の権藤へのいらだち    一人一殺  I

2006年06月10日

 小さくて色黒。
 博学多才で、陶器や刀剣に、
 玄人以上の鑑定眼をもち、腐敗した政党政治や官僚政治に、激しい怒りを持っていて、訳の分からない筑後弁で、舌鋒鋭く批判する。
 そして、自分の管理する空き家には若者たちがいつも集まっている。

 国学者にして制度学者、権藤成卿(当時65歳)は、
面白い爺さんだったらしい。
 きっと風呂嫌いで、近寄ったら臭かったんじゃないか。

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 いま、例えば、「何でも鑑定団」というテレビ番組に登場して、視聴者の 骨董を鑑定し、筑後弁で、
 「よか仕事ば、しちょるけんねえ」
 なんて言ったとしたなら、
 たちまち日本中の人気者になりそうな気がする。

 何しろ、感覚が鋭い。的確だ。
 ユーモアに敏感な、いまの若者たちの感受性に、すぐにfitするだろう。

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 実行者たちの中心人物、「血盟団」頭領、井上日召(当時44歳)=写真上=の、
 権藤成卿(当時65歳)への人物観を、もう少し書こう。

 以下は、1937年(昭和12)7月11日付け「やまと新聞」の権藤の訃報記事(7月9日に70歳で死去)からの引用。

 権藤成卿氏と小澤打魚氏の共著、「皇民自治本義」(自治民範)を、私はじめすべての同志が通読したことは事実である。
 わたしは、権藤氏と会見する前後に藤井斎(海軍軍人)から借りて読んだように記憶する。

 藤井はこの本を、
 「天下無二の名著」と称して、海軍側の同志全部に読ませていたようだった。

 私は、いっぺん通読してみたが、よく解らなかった。けれども解ったところだけについて言えば、

 書名通り、自治制度を歴史に立脚して説いたもので、
改造後の建設には非常に参考になる本のように見えた。

 だが、当時の私は、いかにして打開すべきかが問題であって、
 打開後の建設案は私の担当する仕事であったので、努めて研究しようとは思わなかった。

 とはいえ、同志たちが研究するのは結構なことであるばかりか、
 同志の思想統制といった方面からいうと、
 海軍側と民間側とが同一思想を持つ……つとめて読むように奨励した傾きさえある(中略)

 いわゆるインテリは、主義とか理論とかやかましく言うけれども、
 実行家から見ると、実に馬鹿らしいことだ。

 たとえ権藤成卿氏の学説がどんな優秀なものだからといって、
 「これに限る」と言われるものではない。
 そのほかにも、参考になる書籍理論はたくさんあるのであって、すべてが一長一短だといえる。

 しからば、なぜに権藤成卿氏がこの事件でうんぬんされるかといえば、

 われわれが、同氏管理下にある空き家に、巣を構えていたことと、
 もひとつは、事件発生後、権藤氏の門下生と称する連中が、事件の黒幕があたかも権藤氏と言わんばかりの言語行為に出たせいであって、強いて同氏の責任を問うならば、
 同氏がこれを黙認した点であろう。

 ただしこれとても、同氏が係わった事でないといえば、
 事件と権藤氏とはなんら関係がないのである。……

 こう言うことが、いささかも権藤氏の学問を批判し、人物を上下するものでないことを明らかにする。
 (井上日召「日本精神に生きよ」より)

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 井上日召は、権藤成卿=写真上=について、翻訳すれば、こう述べている。

 自分の空き家を、暗殺実行者たちに、ただ自由に使わせていただけのお爺さんだ。

 血盟団事件の後、「権藤成卿の門下生」たちが、
 「事件の黒幕は、権藤成卿だ」と言い、
 権藤成卿自身も、それを否定せずに黙っていたから、
権藤成卿は、血盟団事件で大きな存在に見えているだけなんだ。

 権藤成卿が、事件へ関与を否定しさえしたなら、
 「血盟団事件の黒幕」だなんて、
 そんな誤解はされなかったんだよ。
 単に、小さくて汚い、お爺さんに過ぎなかったんだから。

 井上日召側からの事実の真相を語っているんだが、
 この実行者井上日召の権藤への見解は、

 実行者井上日召たちと違って、

 部屋を自由に使わせただけで、何もしなかったのに黒幕扱いされた、
 権藤成卿への苛立ち、嫉妬心、
 と見た人々もいたかもしれない。

 これは、実際には行動に手を染めず、口でただあれこれ意見を言っているだけの理論家・脚本家たちに、
 実行者たちが、常に抱く不満であった、

 ともいえるのかもしれない。

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日召は権藤成卿を嫌う     一人一殺  H

2006年06月09日

 「政府要人への襲撃が相次いだ昭和の一時期」の、
 不穏な動きは、
 右翼「愛国社」社員、佐郷屋留雄による浜口首相襲撃(1930年11月)、
 独立青年社事件(1932年1月)、
 斉藤内閣閣僚暗殺未遂(1932年8月)、
 神兵隊事件(1933年7月)、
 昭和維新血誓隊事件(1934年12月)など、
 小さいものまで数えると十指に余るだろう。

蘭1.jpg
(写真をクリック)

 このうち、規模が大きく、その後の日本の政治に大きな陰を落としたものは、未遂も含めて、
 次の5つということになるのではないか。

 若手軍人が参加した政治結社「桜会」などが、国家改造のためにクーデターを計画して未遂に終わった、
 1930年(昭和5)3月の三月事件、
 1931年(昭和6)10月の十月事件。
 それに、
 1932年(昭和7)2、3月の血盟団事件
 1932年(昭和7)5月の5.15事件、
 1936年(昭和11)2月の2.26事件。

 これらの事件にかかわった
海軍の藤井斎少佐(上海事変で戦死)ら若手軍人たちと、
「血盟団」頭領の井上日召ら、民間活動家を結びつけたのは、

 金鶏学院などで教えていた制度学者、権藤成卿=写真下=の、
明治官治主義への激しい憤怒だったように見える。

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(写真をクリック)

 憤怒の底には、貧困に苦しむ、東北など各地の農民への深い痛みがあったのではなかったか。若手軍人たちのほとんどが地方出身だった。

 頼みにする政党政治は、
 政治家たちが三井、三菱の財閥などと結びつき、官僚と結託して、自分たちの私利私欲を追っているように、
 彼らには見えた。

 あとは、自分たちで打開するしかなかった。

 実行者、井上日召は、
精神的影響力を持っていたとされる、権藤成卿をどのように見ていたのだろうか。

 1933年(昭和8)6月28日午前9時から、東京地裁刑事第一部(酒巻裁判長)で開かれた第1回公判廷で、井上が権藤について述べた。その記事がある。

 井上日召は、海軍の藤井少佐に勧められて、当時、まだ麻布にいた権藤に会った。その時の感じは、
 「老人で、何事も出来ない男と思った」。
 そして、
 「会って嫌いになった」とも言い、
 傍聴者たちを苦笑させた。

 裁判長が、昭和6年12月末、松澤町松濤の忘年会(権藤主催)のことについて聴くと、
「これは単なる忘年会で、海軍の濱大尉、大庭少尉や、陸軍将校も5、6人交じっていた」と答えた。

 尋問は、暗殺計画に入る。
 裁判長 「7年1月9日、権藤方で暗殺計画の打ち合わせ会をしたのは間違いないか?」

 日召 「その時、古内、四元その他、ここにいる被告の大半が集まったが、打合わせ会というほどでもない。われわれは異身同心で、打ち合わせの必要がないくらいなのである。どうしてかかる計画をしたか、それは理屈では説明できない。われわれはどうしてもこの暗殺計画をやらねばならぬ気持ちになり、同時にそれが信念になっていた。それで、最初は決行の日を昨年 (昭和7) 2月11日に決めていた」

 裁判長 「この会合には、小沼等は居合わせなかったのか?また、四元はその後どうしたか?」

 日召 「小沼はその席にいなかった。四元は1月14日、地方在住の同志にこのことを伝達するため出発したが、いっこう帰らず、一方、上海事変のため同志の海軍将校中に出征者が続出する状態となった。
そこで私は、われわれだけでやることにし、決行を紀元節の予定から、総選挙の時期に変更してしまった」

posted by Jiraux at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

権藤成卿 役人の統治に怒り    一人一殺  G

2006年06月08日

 井上日召の警視庁への「自首」を知らせる1932年(昭和7)3月12日付けの同じ紙面に、
 「怪空家 数名の青年が常に出入り」の見出し付きで、
 古内が潜伏していた家のことを書いた記事がある=写真下

怪空家 記事.jpg
(写真をクリック)

 それは、小田急沿線の代々木上原1186、国学者権藤成卿宅の隣りにあり、権藤が管理する家だった。
 120坪の荒れ果てた敷地に建坪約30坪の平屋建てで、1931年(昭和6)9月から空き家になっていた。部屋は13畳半の広さで、三方がガラス窓だが、雨戸を開けたことはほとんどなく、部屋には大机2脚があり、その上に漢詩集などが乱雑に積まれていた。

 表門は釘付け。裏口から、裏庭経由で隣りの権藤氏の家に自由に出入り出来た。
 この「怪空家」に、1931年秋から、20歳前後の学生風や40歳ぐらいの男たち7、8人が寝泊まりしていた。
 深夜になると、セダン型のシボレーが、権藤家との間の、塀で囲われた空き地によく止まっていた。

「妙な学生さんたちだと思っていましたが、夕方一緒に連れ立って、権藤さんのほうから出てきて、湯屋に行く姿を毎日見ました。気味の悪い所なので2、3日中に移転します」
 との、近所の人の談話が出ている。

 男たちは、「制度学者」、権藤成卿(1867―1937)を慕って集まっていたのだった。

権藤成卿.jpg
(写真をクリック)

 権藤=写真上=は、背が低く、色の黒い痩せた人で、この時、65歳。
 庭で、和服の尻を端折って、宗匠頭巾のようなものを被り、木バサミをもって、よく植木を切っていた。

 訪れる客があると、話し込む。
話題は、昔の事から現代まで。
日本から中国、ロシア、魚釣りから料理、各国のうわさ話など話題は転々として滞ることがなく、刀剣、陶器の鑑定は玄人の域で、その博識多趣味には、皆が驚いた。

 人物について問うと、独特の筑後訛と漢語混じりで、辛辣な口調で話すから、何がなんだか分からぬままに帰る人も多かった、という。

 権藤は、久留米の郷士、松門氏の長男として生まれ、25歳の時から朝鮮、中国、ロシアなどに17年間旅を繰り返し、各国の鋭敏な学者たちと交流した。そして、父祖から伝わる、家学を継いだ。

 明治33年(1900)に上京。「自治学館」「成章学苑」などと呼ばれた私塾を開く。「日本震災凶饉考」「自治民範」「南淵書」「皇民自治本義」「八隣通聘考」などの著書があった。

 政党の腐敗に、極度の憎悪に近い、憤怒をもっていた。

 政党の腐敗は、政治家が大衆から選ばれながら、大衆とかけ離れた存在になってしまう、
官僚化に原因があると指摘した。

「民衆とかけ離れてしまったために、政党はひとつの利己的団体になり、朋党になった。彼らは政党ではなく、日本には本当の政党は存在しない。政党は利己団体だから、同じ性質をもった財閥、官僚、……とも結託するのは当然である」
 と、権藤は指摘した。

「ローマやニューヨークや江戸や東京の繁栄の裏には、幾多の民族や民衆や農民が飢えに泣いているが、これは自治から見れば退歩である。東北のもっとも貧しい農民の生活が向上したとき、それは進歩という。……均(ひと)しく安らかになることを目標とする」
 とも、権藤は著書などで語った。

 権藤の「制度学」とは、
日本古代の政治制度や生活を研究し、日本人に一番合った政治制度とはどういうものかを考え、その実現をめざすもので、
中央集権の明治官治主義をひどく嫌い、農本自治主義の立場を取った。
 「社稷(しゃしょく)」、つまり自然に生成した集落などが、土地と五穀を中心にして、自然自治によっておのずと治まる社会を理想とし、国家を軽く見る立場だった。経済的には、農本自治が日本本来の姿だ、との見解だった。

 明治国家の官治主義を激しく憎悪する反権力主義の立場だ。

 このため、権藤成卿はファシスト、または国家主義のイデオローグだ、と見る専門家がある一方で、
 日本主義的アナーキスト、反国体主義者と位置づける人々(雑誌「改造」昭和12年1月号など)も多かった、という。
つまり、どちらにも、くっきり分類できない正体不明の、おおきなところがあったようだ。

 荘子や老子の匂いもする。
 道教(Taoism)の流れが、権藤成卿の中に入っているような気がするんだが、
 わたしは、権藤の本を、まだ読んでいないので、この勘が、正しいかどうかはまだ分からない。


posted by Jiraux at 23:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

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