寸描 2008年1月4日(金)

2008年01月04日

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 強烈なハイビスカス(写真上)や、
 真っ赤な紐みたいなベニヒモノキ(Acalypha hispida 西インド諸島原産)=写真下=やなんか、

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 熱帯の色がいっぱいでした。南伊豆の「下賀茂熱帯植物園」(写真下)に。
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 温室に入るとカメラのレンズが曇った。何の不思議もなけれども…。
 だって、室温23度、湿度90%だからね。90〜100度の温泉を、室内に縦横に張り巡らした鉄パイプに流して暖めているんだ。

 初めてだったね。
 熱帯植物の大きな葉がつくる木の下闇(写真下)を、いいと思ったのは。

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 色彩があふれ返ってて、飽きちゃったせいなのかな。

 で…、
 熱帯のジャングルを、暗〜いタッチで描いた、フランス素朴派の画家、アンリ・ルソー(1844〜1910)の絵「蛇のいる風景」やなんかに思いが届いたんだ。

 ひどく暗いんだ。

 黒に限りなく近い色合いで、ジャングルの森だけを画面いっぱいに描いた、ただ暗〜いだけの、誰も欲しがりそうもない大きな絵がオルセー美術館(Paris)にあるよね。

 何を描きたかったんだろうなと引っかかっていたんだが、
 ルソーは、己の内面のありさまを描いたんだね、
 って実感した。この植物園の木の下闇を見て。
 ルソーは、Parisの税関に20数年勤め、貧乏で、熱帯には一度だって行けなかったんだよ。想像で描いたのさ。

 弓ヶ浜海岸に行ったら、
 無風で、空気は透き通り、
 雲が一つもないいい日でさ(写真下

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 4人家族が、波打ち際を楽しんでいた(写真下)。

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 午後3時45分だったな。
 沈み行く太陽の光が、息を飲むような一瞬の影絵を、浜辺に次々と描き出すんだ(写真下)。

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 砂の上に座って、
 日が落ちるまで見ていたよ。

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下田 2007大晦日

2007年12月31日

 伊豆・下田の旧市街を、ちょっと歩いた。
 大晦日にこたつにわだかまってるってえ停滞は、気分に合わないからさ。
 やっぱ、心、体……、どこでもいいからどっか動いてなくっちゃな。目覚めてるときは。

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 上の写真は、海鼠壁(なまこかべ)の「下田温泉 松本旅館」。
 海鼠壁ってえのは、風雨や火なんかに強くってね。平瓦を、漆喰をつかって壁に貼り付けている。白い線はその漆喰だ。
 江戸時代は、大名屋敷や寺院によく見られたんだそうだが、いまでは、ここ伊豆半島やなんかにわずかに残るだけなんだそうだ。

 犬が、精肉店の店先にいた。

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 中国原産のパグってえ種類で10歳。
 寒くってぶるぶる震えるので、12月初めから、このように毛布ん中なんだそうだ。

 下田港にいったら、秋刀魚を干していた=写真下

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 で、そこから道路を渡って左の路地に入ったら、
 こんな色彩があった=写真下

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 赤い実は、ナンテンだろうかな。下の白いのは家の塀だ。
 構図を替えて、写真を撮り続けていたら、

 ヒュー… ヒュー… ヒュー…
 と、鳴る音がした。

 係留されている多数の漁船のマストのロープが、風を切っているのだった。

 晴れ上がって、光が強く、影の濃い日だったんだが、
 風のせいか、少し寒かった。

 路を行く人々は少なく、
 どこのスーパーも、買い物客でいっぱいだった。
 正月の準備でね。

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富嶽百景2007

2007年01月05日

 新春の富士山を見たくなっちゃって、5日、朝5時起きで、伊豆半島西海岸を、南の松崎町から北の沼津市まで70キロ走った。
 松崎町からの富嶽は、朝日を受けて東側斜面の冠雪が淡いオレンジ色に染まり、眼下の海は夜がまだ残っていて濃い藍色だ=写真下。道を走る車はなく、冷気が胸に染み入った。

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 雲ひとつなかった。澄み切った青い水が、空いっぱいに広がり、
あっ、真っ白な絵の具が一粒落ちて動いてる、と思ったら、それは軽飛行機なのだった。
 天然の良港、戸田漁港の、松に覆われた岬の向こうに見える富嶽も乙でげす=写真下

fuji heta
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 「出会い岬」に着いた時にはもうすっかり朝だった。
 富嶽の南東斜面で宝永4年(1707)に起きた「宝永大噴火」によって出来た寄生火山の宝永山(2693m)とその西側にえぐれたようになった巨大噴火口がくっきりと見える=写真下。爆発で斜面が吹き飛んでしまった跡だ。この噴火で、江戸の街には熱い火山灰が降り積もり、厚さ4センチになった、という記録が残されている。
 「出会い岬」は、右側の富士から左へ、富士市の工場地帯、南アルプスの北岳(3192m)、茶臼岳(2604m)、三保、清水市などが一望できるいい場所だ。

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 女の子3人を富士の前に並ばせて、お母さんたちが写真を撮っていた=写真下。案内の宿のマイクロバスの運転手さんが、それを見てふくみ笑い。おれも笑っちゃった。
 富士には、女の子たちがよく似合う。月見草よりも…、ってか?

fuji kodomo
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 その先に、「煌きの丘」ってのがあって、車を止めて下を見ると、海だか池だか分からない、静かな水の景色があった=写真下

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 斜面をジグザグに降りてゆく小道を歩いて20分。たどり着いて看板を見ると、それは、海跡湖(かいせきこ)「明神池」で、水面下2mの池の底が、海面の水位と同じ高さの淡水の池。昔は海の湾だったが、黒潮で運ばれた土砂により1500年ぐらい前に陸封され、淡水池になった。鯉や草魚など、魚影豊かな池なのだそうだ=写真下

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 おれはなぜ、富士山がこーんなに気になるのかねえ?
って、帰りの車ん中でつくづく思っちゃったね、あたしゃ。
 だって朝から7時間あまり、富嶽百景を求めて車で走り回ったんだもの。
 そうだ、大学生の頃、年末に富士山の写真12景を使ったカレンダー買った友人に、「右翼みたいだな」って言っちゃったんだよ、あたしゃ。

 今朝5時、目覚ましで起きて時計見たら、赤い秒針が1秒ずつ刻むのを急によしちゃって、30秒から45秒へといきなり飛んじゃった。

シュールな日だったよなぁ。今日は。

fuji3 south Alp. yokonaga
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唐さんおめでとう。明治大学特別功労賞

2006年11月25日

 天皇がくれることになっていた紫綬褒章を、昨年9月、2週間かけて考えた末に、
 「もらわないのが、お客さんへの礼儀だと思います」と丁重に断った劇団唐組の首魁、唐十郎さん(66)=写真下=に24日夕、
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 出身校の明治大学(東京・神田駿河台)が、「明治大学特別功労賞」を贈った=写真下
「よろこんでいただきます。ありがとうございました」。さわやかにいった唐さんの笑顔に、リバティホールを埋めた400人が大きな拍手であたたかく祝った。

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 「唐さんが負けずに生き延びるとは思わなかった人もいるのではないか。唐さんを明治大学の誇りとしたい。いろんな意味でその名を残すことと思う」
 と、学長(唐さんの1年先輩)が祝辞を述べた。

 「明治大学特別功労賞」は、社会に出た後、いい仕事をして明治大学の評価をおおいに高めた卒業生に与えられる。
 ちょっとやそっとの功績ではもらえない。

 唐さんは毎年春秋の2回、血の色をした暗赤色の紅テントを、新宿・花園神社など全国各地の空き地に張って公演することで知られている=写真下。テントは団員たちがトラックで運ぶ。

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 1994年に、演劇評論家の国際的な組織「国際演劇評論家協会(AICT)・日本センター」が行った、日本の劇評家やジャーナリストへの、現代劇作家の創造力を評価する調査(回答54人)で、唐さんは、故三島由紀夫、井上ひさし(各55票で同票の首位)に次ぎ、2位(50票)になった。

 唐さんの戯曲は、哲学的な表現やメタファー(暗喩)、笑いの場面が多用されるシュール・レアリスム(超現実主義)の作風で、同じ芝居であっても一、二度見ただけでは分かるのが困難だが、気がつくとなぜか深く感動していたという観客が多いことで知られる。
 これに対し、1位になった故三島由紀夫や井上ひさしの芝居のいいものは、well−madeで、だれもが一度でほとんど完全に理解できるといっていい、どちらかといえばより大衆的な作風だ。

 こうした事情から、平均的な芝居ファンが敬遠しがちな、難解な芝居を公演し続ける唐さんが、この調査で50票を集めて2位に入ったのは、きわめて異例なことだった。

 紅テントの芝居が、いつも日本で最高水準の質になっていることは、あらゆる演劇関係者や演劇ファンたちが認めている。
 それなのに、料金は今年、当日券で1人3600円。劇場で公演するほかの劇団と比べると4割以上は安かった。
 テントの収容人員は、約300人。

 唐さんは、
 1962年、文学部文学科演劇学専攻を卒業。翌年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げした。
 1970年、「少女仮面」で1969年度第15回岸田國士戯曲賞を受賞。1978年11月、小説「海星・河童 少年小説」で第6回泉鏡花文学賞受賞。
 1983年1月、小説「佐川君からの手紙」で第88回芥川賞受賞。
 1989年、2年間休止していた紅テント公演を復活させた。
 1997年、横浜国立大学教授就任。2004年、「泥人形」で、第38回紀伊國屋演劇賞、第7回鶴屋南北戯曲賞、第55回讀賣文学賞、第11回讀賣演劇大賞優秀演出家賞を受賞。2005年4月、近畿大学客員教授就任。
 2006年2月、第13回讀賣演劇大賞芸術栄誉賞受賞した。

 明治大学が配布した略年譜を見ると、唐さんの功績の大きなものは以上だ。
 だが、大事なのは偉業と偉業の間の行間だ。行間にこそ唐さんの生の実相がある。

 贈呈式の後のステージで、唐さんは、弟子の俳優、佐野史郎さん(1980年〜1984年秋まで状況劇場在籍)を相手に1時間半余り記念対談した=写真下

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 唐さんは、卒業の翌年の1963年7月、「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げしたが、
 貧乏だったため3年余り、「暗黒舞踏」の故土方巽に従い、北海道から九州までキャバレーなどを巡って、全身に金粉を塗って踊る舞踏ショーをした。たとえば、夜7時から11時まで3ステージ踊った。体を酷使した。

 戯曲を書き始めたのは24歳。
 ほかの人に頼んだのだが、書けなかったり、途中で筆を折ったりした。劇団に戯曲がないとやることがなくなり、しまいには団員がばらばらになって解散してしまう。だから自分で書き始めるしかなかった。

 いつも主題と題材がない。お先真っ暗だ。
 書いている内に、
 「このペン先をだれが連れてってくれるのかなー」
 と思う。書き進めている戯曲の中で、自分が演じる役がどれになるのか、半分書くまで分からない。

 故寺山修司のラジオドラマ「血は立ったまま眠っている」が、戯曲との出会いだった。電車に傘を忘れて駅に取りに行くと忘れ物の傘がいっぱい集められていて、自分の傘がどれなのか分からなくてついに迷子のようになってしまうという話だった。

 母校、鶯谷・坂本小学校(今はない)の担任は、滝沢という女性の先生で2階の理科室に住んでいた。夜には豹柄の服を着ていた。
 滝沢先生は「6年生まで同じクラスを担任したい」と校長に希望したが、ダメだった。先生は、不忍池のハスが見える下宿に引きこもった。唐さんが懐かしくて会いに行くと、
 会ったとたんに、
 「あ、よっちゃん(唐さんの本名は大鶴義英)、帰んな」と言った。
先生の下宿の畳に30分間座っていた。悲しかった。
 滝沢先生の名前とイメージは、後に「黄金バット」という芝居に使わせてもらった。

 実家があった下谷万年町の長屋には80人のおかまが住んでいた。午後には一列になってぞろぞろ歩いて銭湯へ行く。紙芝居を見ていた子供たちの1人が「おかまっ!」と叫んだ。行列は後戻りして来て子供たちを取り囲み、
 「『おかまさん』だろう。『さん』がなかったな。呼んだのはだれだっ!」と問いつめた。
 紙芝居屋が止めに入ると、怒ったおかまたちは紙芝居道具が載る自転車をでんぐりかえした。こぼれたソースの臭いが長屋中に臭った。この臭いの記憶が今も残る。

 戯曲は芝居の背骨(土台)だ。
 役者は戯曲に殉じたらだめだ。

 「あのさ」
 「ナニナニだな」
 唐さんは打ち解けていた。いい感じだった。

 麦焼酎をいつも飲み過ぎるのが心配なんだなあ。
 酒量、減らせないんでしょうかね?
 唐さん。

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小沼、菱沼、四元らのテロルの理由  一人一殺 54

2006年10月11日

 1934年(昭和9)11月22日に東京地裁であった「血盟団」事件の14被告に対する判決公判で読み上げられた判決理由書には、頭領井上日召はじめ全被告の背景の事情が述べられている。

 この中から、副頭領古内栄司、暗殺犯小沼正、菱沼五郎、学生側の責任者だった四元義隆、池袋正八郎の部分を引用しておこう。

血盟団 顔一覧 6.27用.jpg
2は古内栄司、3が小沼正、6菱沼五郎、4四元義隆、8池袋正八郎
写真をクリック

 古内栄司は、
 栃木県芳賀郡中川村の農業哲太郎の長男に生まれた。
 神を敬い祖先を大切にする家風だった。
 16歳の時に、農村の疲弊で家が倒産し、家族は水戸に移住した。古内は働いて家計を助けながら、
准教員養成講習会を出て、茨城県東茨城郡の吉田小学校に准教員として勤めた。
 大正8年(1919)、茨城県立師範学校に入学し、大正12年(1923)3月に卒業。同県結城郡石下尋常高等小、結城尋常高等小などに訓導として勤めた。

 教育の実態や自己について、次第に疑問を抱くようになった。
 「苦難の道を歩んで人生を極め尽くそう」と決意し、全力を挙げて努力した、という。
 病気になって訓導を一時退職。静養中に、日蓮主義などの宗教書をいろいろ読み、一筋の光明を感じた。
 昭和3年(1928)10月ごろ、同県那珂郡前濱尋常小学校訓導に復職。同年12月、父が死んだ。
 父の死で、貧富の差から生じる社会的矛盾を痛感した。

 ちょうどこの頃、立正護国堂で井上日召を知り、
数回会って指導を受けながら、法華題目の修行に専念した。
 日召の人格や思想に共鳴、
 「教育勅語は、真に宇宙の真理、すなわちわが国体をそのまま表現したもので、この勅語の精神に適合しない現在の国家組織制度を改革し、永遠の皇運を助けるのは天皇の赤子であるものの責務だ」
 と思い、日召から「日栄」という居士号をもらう。同志になった。
 昭和5年(1930)ごろから、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二ら「茨城組」の青年を集めて、題目修行を主唱、指導した。そして、これらの青年たちを井上日召に紹介して同志に加えた。

 昭和6年(1931)3月頃、同郡八里尋常高等小学校に転勤。八、九月頃まで数回にわたり、愛郷塾長橘孝三郎を訪問し、橘を通じて愛郷塾生から同志を得ようとした。
 さらに橘と井上日召を会見させた。
 同10月初旬、井上日召に命じられて教師を辞め、「革命の捨て石になろう」と決意し、上京した。

 小沼正は、
 茨城県那珂郡平磯町で漁業梅吉の五男に生まれ、
郷土の、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
 大正15年(1926)3月、同郡平磯尋常高等小学校を卒業後すぐに大工の徒弟になり、その後、東京市内などで店員になったが、
「社会人心が退廃し、尊皇の心が日々薄らいで行く」実情を見聞きする一方で、

 強大な資本をもつ人々がいろいろな特権を独占して、弱小な起業者を極度に圧迫したために小中商工業者の間に生じた多くの悲惨な出来事を体験、社会や人生に疑惑を抱いた。
 その後病気になり、昭和4年(1929)6月ごろ帰郷していた。

 菱沼五郎は、
 茨城県那珂郡前渡村で農業徳松の三男に生まれ、平和な家庭で、水戸勤王の遺風を学んで成長した。
 昭和4年(1929)10月、岩倉鐵道学校業務科を卒業したが、翌昭和5年(1930)5月頃、東上線池袋駅に就職しようとしたところ、紅緑色盲で鉄道業務に致命的であると判断されて就職出来なかった。
 父母の期待を裏切ったと落胆し、将来への希望を失った。
 さらに、このような致命的欠陥をもつ者を入学させた学校当局の無責任さに憤慨。
 「営利主義もきわまった」と判断し、社会や人生に対して疑惑と煩悶を抱き、郷里へ帰った。

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 四元義隆は、
鹿児島市南林寺で会社員嘉平次の二男に生まれた。先祖に明治維新の勤王家がいた。
 池袋正八郎は、
宮崎県都城市姫城町で農業清次の長男に生まれた。

 二人はいずれも、郷土の気風から、武士道精神を教えられて成長、ともに、大正14年(1925)4月、第七高等学校造士館に入学した。
 二人は、在校生たちが「赤化無気力功利的な気風」であること、教育内容に権威がないことにがっかりした。

 そこで、
日本精神を養い、伸ばすことを目的に「七高敬天会」を組織して活動した。
 昭和3年(1928)4月、
四元義隆は、東京帝国大学法学部に入学、
池袋正八郎も、教育家になって教育界を改善しようと、同大文学部に入学した。
 二人は相次いで、国粋主義者として有名だった、法学博士、上杉慎吉主宰の、日本主義を標榜する「七生社」の同人になった。
 上杉博士の死後は、安岡正篤が経営する金鶏学院に入り、安岡の指導で修養に努めた。

 四元は、昭和6年(1931)2月頃、福岡で九州帝大教授河村幹雄と話し合った。この結果、我が国はその本質上、不滅ではあるが、不滅にできるのは、自分の努力の結果によるのだ、との確信を得て、ますます国家革新の決意を強くした。
 池袋は、この頃、一死報国を決意した以上、学校に行く必要はないと判断して退学した。

「支配階級のもっとも尊重する彼ら自身の生命に脅威を与え、ともに現状の破壊に倒れ、これによって支配階級に自衛上やむを得ず反省し、革新の挙に出ざるを得ないようにし、愛国諸団体の自覚結束奮起、および国民大衆の覚醒を促し、昭和維新の気運を促進させるべきだ」

 というのが、彼らの共通の決意だった、
などと、判決理由書に書いてある。

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46の短編小説を読んだ。最高によかったのは…。

2006年10月02日

 創刊60周年を迎えた文芸雑誌「群像」10月号=写真下=が、記念の短編特集をやっていて、46篇が掲載されている。

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 日本を代表する純文学作家たちの語り口は、どのように進化しているのであろうか?
 それが知りたくて、一週間費やして全篇を読んだ。

 長さはいずれも原稿用紙(400字詰め)30枚分前後である。

 これだな、と感じる作品に出会えたのは、読み始めて38篇目だった。
 角田光代「父のボール」。
 DV(domestic violence=家庭内暴力)を重ねて家族の上に君臨し、ひどい目に会わせ、妻を早死にさせてしまった父が、いま、末期ガンで死の床にいる。
 父の暴力を逃れて18歳で家を出て、働きながら大学を卒業した長女の私は、父のベッドの脇で、看取っているのである。弟もいるが、現れない。

 父のボールとは、
 坂の途中にある家に住んだ父が、「不幸は坂を転がってくるボール玉である」と信じた、そのボール。
 例えば、坂の上の方にある家に不幸があると、その不幸は、半年以内にボールになって転がり、下の家に伝播する、と父は信じていた。
 父の世話をする娘を、主治医や看護婦たちは、親孝行で感心だ、と思っているようだ。だが本人は、父が死んだら「ばんざい」と叫ぶつもりでいるのだ…。
 という、そんな話である。

 結末部分で、角田は、心の深みにあるものを見せてくれる。そして、揺らがせてくれた。

 46篇を最初から順に読んだ訳ではない。任意に選びながら読んで38篇目に「父のボール」にたどり着いた。

 2番目に良かったのは、
 桐野夏生「幻視心母」。
 ゴルフ場で脳梗塞で倒れた母を病院に見舞って、大嫌いな妹に久しぶりに会うことになる。
 姉は、コラムを書くフリーライターで、担当するコラムが最近有名になっている。
 妹はああいう性格だから、さぞかし不幸な境遇にあるだろう、やさしく接してやろうと思っていたら、
 最近、クワ・マリーという名で、
「 日本人かハーフか?」
 と話題になっている、小説家だった。妹は。
 という話。

 「この十年間、まったく違う妹像に水や肥料をやり、せっせと育て上げていた自分は何だったのか。マリの幻影に苦しめられていた自分が、途轍もなく小さく、馬鹿な人間に思えて仕方がない」
 と、書いている。

 人ってえものは、自分の都合のいいように世界を解釈して、自分の小さな穴の中で自分を慰めながら生きてるんだよな、ああ…。
 と、人間の愚かさに改めて気付かせられるいい作品。

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 3番目は、
辻原登「母、断章」。
 県会議員になったばかりの父と分かれる決意を固めた母が、旅先の旅館の前の川で、皆が寝静まった頃、全裸で泳ぐ。隣部屋の泊まり客がそれに気づき、
 「人魚だ!」と目を見張る。
 一方、わたしは、蒸気機関車の煙をかぶって目に入った石炭殻が取れなくてずっと片眼で…、
 という話。

 あとは順位をつけずに報告すると、
 松浦寿輝「地下」は、死なずに生き残り、刑務所から30年後に、平岡(三島由紀夫)が出てきたら、きっとこんな生活を送っているだろう、と書く。

 吉村萬壱「イナセ一戸建て」は、力のこもった私小説風リアリズム小説。
 島本理生「Birthday」は、娘が父母のことを見ているんだが、
 実は、この娘は殺された後の魂で、中空に漂って両親を見ているのだ、という設定が、
 後の方で分かるという、意外性を楽しませるつくり。

 坂上弘「薄暮」は、道半ばで自殺した在日の作家、故金鶴泳に託して、小説家としての決意を語る。これは私小説といっていいだろう。

 笙野頼子「この街に、妻がいる」、多和田葉子「晴れたふたりの縞模様」は、抽象画に似た味わいがあって、引きつけられた。
 藤野千夜「願い」、堀江敏幸「方向指示」も、detailにプロの技がある。

 46篇中、いい作品だなと思って赤ペンで印を付けたのは13篇。3分の1以上の割合だった。
 これは高いのか低いのか?

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千社札 築地から消えゆく。

2006年09月28日

 東京の魚河岸、築地には、
昔の、粋なしきたりの痕跡が残っている。
 千社札(せんじゃふだ)=写真下=は、そのひとつに数えてもいいんじゃないか。

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 千社札とは、ふつう、千社詣でをする人が、自分の名・屋号・住所などを趣向を凝らして刷った記念の小さな紙札で、社寺の柱などに貼りつけるが、
築地の千社札は、趣がちょっと違う。
 長さ30a、幅10aぐらいの木の板に名前が彫り込んである。

 新たに開店する料理屋などに、出入りの卸業者、友人、隣近所の人々が祝って贈り、店内に飾ってもらったのだ。紙の千社札が発展した感じだ。
 戦後しばらくの頃までこの風習は残っていたが、
今ではすっかりなくなってしまった、という。

 ここの千社札は、職人技とすぐに分かる見事な彫りである=写真下
 それもそのはず、彫り師は、浅草寺の観音堂の額をも彫ったことのある、名のある人だった。

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 この千社札100枚近くを店内にずらりと飾った、
「味の・いし辰」=写真下 築地場外 築地4丁目交差点、共栄ビル地階=が30日に閉店する。
で、これらの千社札も店と共に消えゆくことになりそうだ。

「味の・いし辰」は、やがて築地場外の地上に新規開店する予定で、場所を探しているところだというが、
「店のスペースもあるし、また飾れることになっても全部は無理でしょうね」
と、店のお内儀さんが話した。

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安部・新総理大臣誕生。間違えてごめんね。

2006年09月25日

 間違えちゃった。ごめんね。
 5月7日の「日々憤怒」に、次の総理大臣は福田康夫だ、って書いた。
題は、「福田さんです。次の総理は」
 断定しちゃったんだ。

 予測記事でこういう断定がどれだけ危険で、割に合わない行いであるか、よく知ってる。
 知ってるからやったんです。
 面白いから。
 謝る。

 福田康夫があんな根性なしとは思わなかった。
 だって、自分からさっさと降りちゃうんだもの。たくさんの人々が総理大臣に押し上げようとしてたのに。

 福田の人柄に詳しい人に聞いてみると、
 周りの人々が周到に準備して、後は自分さえ動けば思い通りになるという絶対安全状況が出来なければ「ウン」とは言わない、
 非力のくせにわがままな、京都の公家のような男だっていうじゃないか。
何様かねえ。ったく…。

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 お詫びに、安部晋三(1954年9月21日生、52歳)=写真上=のことを少し書こう。

 腸が弱い。激務は合わない。
 遊び上手。
 かつて銀座のバー「ジュン」で、よくピアノなんか弾いたりしてみせた。 父親の安部晋太郎(元外相)の秘書だった頃のことだ。
 父親がこういう遊びが好きで、見習っちゃったんだな。
 この「ジュン」には、佐川急便の渡辺正康がしょっちゅう来てた。

 ハンサムで人当たりがいいから、
人が群がるけど、信頼できる人がいない。
 ここが問題。

 以上は、自民党に深く関わってきた政界フィクサー福本邦雄(79歳 第二次共産党の理論的指導者で党中央委員だった、福本和夫の長男で元産経新聞記者)が、
 テレビ界のコワモテ幇間(たいこもち)、田原総一郎に、「オフレコ!」という雑誌(ムック)の第3号(2006年9月8日発行、¥780)で話している。ただし、腸の問題の出所は福本からではない。

 東京の私立成蹊中学・高校から政経大学法学部政治学科へ。
 1977年3月に卒業し、同4月、神戸製鋼所入社。
 1982年11月まで、5年8ヶ月勤めた。

 この、社会人の時、
友人と横断歩道を渡っていた安部が、前から来た暴走族風の男たちの1人の体と、すれ違いざま接触した。

 振り向いて、いちゃもんをつけかけた男に、
 「君の方からぶつかってきたんじゃないか」
 と安部は言い、にらみ合って引かなかった。
 しばらく続いたが、
「気をつけろ」と男は言い、去っていった。

 その後で、
 「あんなチンピラと喧嘩してやられたらどうするんだ?」
と聞かれた安部は、
 「だって向こうが悪いんじゃないか」と答えた。
 引かない性格だ。

 これは、当時、安部と一緒にいた同僚のテレビでの証言で、
 テレビ番組司会者は、
 安易なのか何なのか、
 「引かない人柄ですねぇ。骨がありますねぇ」風なことを言っていた。

 吉祥寺にある私立成蹊大学が、それほど有名じゃないせいか、

 評判の良くない「2チャンネル」というネットのスレッド(コーナー)で、
 パソコンオタクのクダラン奴らが、

 「日本政治史上、知的レベルが一番低い総理大臣」
 などの罵詈雑言を浴びせている。
 (パソコンオタクは、学歴コンプレックスで権利意識強く、隠花植物みたいにジトーッとして、女にもてない奴が多いみたいだよ。見てると。気にする必要ないね)

 彼らの根拠はきっと次のようなことなんだろう。

 例えば、
 1880年に設立された米国・西海岸最古の私立大学で、日本の政治家では二階堂進、三木武夫、ハリウッド映画のジョージ・ルーカス監督らが卒業した南カリフォルニア大学(USC=University of Southern California、ロス・アンジェルス)に留学したが、卒業出来なかった。

 2002年2月、大学での講演で「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言。
 講演後の国会答弁で、資料を見ながら「TNT火薬」を「NTT火薬」と間違い読みした。(TNT火薬は、火薬の代表。核爆弾の威力を示すために、『TNT総量』という単位が設定され、使われている)

 安部総理大臣は、one issue内閣でいいんじゃないか。
 one issueすなわち、一つの問題だけを解決する内閣である。

 そのone issueとは何か?
 言わずと知れた、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致問題である。

 安部は、外相だった父の秘書時代から真相究明に積極的で、
後に、中山恭子内閣参与(当時)とともに拉致被害者と政府の信頼関係を築き、対北朝鮮外交で強硬路線を主張した。そして、2003年9月小泉純一郎により自民党幹事長に抜擢された。

 なにをどうすればいいのか?
 米国、中国と協力して北朝鮮への経済制裁を有効に働かせ、キム・ジョンイルを北朝鮮の独裁者の座から引きずり降ろし、拉致問題解決へつなげるのだ。
 これが成功すれば、長期政権だって転がり込んでくるだろう。

〓〓[〓〓.jpg
(写真をクリック)


 高級官僚てぇものは、エリート意識が強く、東大を出ていない他者を見下す鼻持ちならない奴が多いから、
 いずれ、これら官僚たちから、安部を馬鹿扱いする小話やアングラ情報がマスコミを通じてたくさん流れてくるだろう。

 前々首相の森喜朗を、
 「鮫の脳みそをもつ首相」なんて、
面白いが無礼な見方を、勉強しない記者たちに教えて流行らせたのは、首相に接する機会がある各省庁の審議官や次官など高級官僚たちだったからね。

 ちょっとしくじると、そんな皮肉のアネクドートがたくさん流れ出すだろう。覚悟しといたほうがいいね。

posted by Jiraux at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

秋のハチミツを下田で搾った。

2006年09月20日

 ハチミツを搾った。
 伊豆・下田市に住む両親を手伝って。
 親父(82)が趣味で飼っている。
 年2回搾る。前回は、6月20日だったから、3ヶ月ぶりだ。

蜜蜂たち.jpg
(写真をクリック)

 2群飼っている。
 1群のハチ数は25、000匹で、働きバチの寿命は2〜3週間だが、女王バチが絶え間なく産み続けるから、各群の働きバチの総数はいつも変わらない。
 計5万匹の働きバチが、雨の降らない日にせっせと集めた蜜である。
 前回は2斗(36g)だった。
 今度はこれより多いかどうかが関心の的だった。

 巣から半径2キロの円内のテリトリーの中にある花々から集めている。朝から晩まで、巣と花々をひっきりなしに往復して集めるのだが、1匹の働きバチが集める蜜の総量は、2〜3週間の生涯で茶さじ1杯分だという。

 1群25、000匹の家は、1棟の巣箱だ。
 1棟は、巣箱が3段重ね。
 箱の中には、巣礎(すそ)が10枚ずつ入っている。
 巣礎とは、ハチが巣を作りやすいように用意された巣の基礎。上の2段の箱の中の巣礎がハチミツ貯蔵用、下の1段は、女王の産室用である。

 人間がこのように、上の2段だけをハチミツ貯蔵用に限定できるのは、働きバチの2倍以上の体をもつ、大きな女王バチが上の2段に移動するのを防止する仕切りを、1段目と2段目の間に、設置しているからだ。
 女王バチは、上に移動できないから、下の1段の中に置かれた巣礎だけに子を生み付ける。
 人間の悪知恵である。
 女王バチは上に移動できるなら、上にも生み付ける成り行きになるのだ。
上の写真の、鉄線が、その仕切り

巣礎を出す.jpg
(写真をクリック)


 網をかぶり、煙霧器(えんむき)で煙を蜂たちに吹きつけつつ、蜜が貯蔵された巣礎を引き出す=写真上。巣礎に築きあげられた巣にはびっしりと蜜が貯蔵されて重く、巣の表面は蝋で蓋がされている。
 ミツバチは、煙を吹きかけられると、沈静化され攻撃的でなくなる。煙霧器の煙は、ケヤキの青葉を燃やしてつくる。

 巣箱から引き出された巣礎は計40枚。
 ハチミツが貯まった巣礎の巣の、裏表の表面をふさぐ蝋を包丁で切り取る=写真下。そして遠心分離器に入れる。遠心分離器には、1回につき6枚の巣礎を入れられる。

蜜の蓋切り.jpg
(写真をクリック)


 遠心分離器=写真下=は高さ1.2b、直径1bで鉄製。手で回す。
手回し作業は、もちろんオレの役割だ。
 最初に右回し。思いっきり回す。ついで左回し。これも思いっきり。
 遠心分離器を回す時間は、1回あたりおよそ10分間くらい。これを7回繰り返した。

 絞り集めた蜜は、網で濾す。
こうして集めた蜜の量は、2斗2升、約40g。3ヶ月前より4g多かった。
 朝10時から働き詰めで午後2時までかかった。

遠心分離機.jpg
(写真をクリック)


 今年の蜜は、ありきたりなメノウ色で、昨年に比べ色が薄い。
 ブドウ色をしていた昨年の秋蜜と大きな違いだ。
 これは、今年はクリが不作で、クリの花が少なかったため。

 「今年はいい蜜だ」と、人差し指ですくって味わった親父は喜んだ。
 いい蜜には違いなかったが、オレはすこし落胆した。
 オレはクリの花の蜜が入った秋蜜が、味わいが深くて好きなんだ。
 だれもが評価する、花の香りに満ちた6月の蜜よりも、クリで味わいが深い秋蜜の方がいい。

 「ミツバチはかわいい」と、母親(78)はよく言う。
 わずか2〜3週間の生涯に、時間を惜しむようにして花蜜を集め続けるその姿が、いとおしいらしい。

 収穫した蜜は、毎回、近所や親類に配るんだが、
 「料理の味付けに使った」、なんてえ話を聴くと、
 母親は、
 「あそこには、もうくれないことにしよう」と怒る。

 大事に味わって欲しいのだ。
 ハチがかわいいからね。
 もらった蜜をどう使ったかは、ウチの母親には言わないでほしい。

posted by Jiraux at 17:29 | Comment(1) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

暗殺へ、急転換   一人一殺 53

2006年09月16日

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(写真をクリック)

 「血盟団」頭領、井上日召(1886―1967)は、
初めから暗殺をやろうとしたわけではなかった。

 「わが国家は、すでに単なる論説によっては救われない。実践あるのみだ」
 と思ってはいたが、最初考えた方法は、穏健だった。

 まず宗教的に育成された4人の同志をつくる。
 この4人と一緒に農村に入って住み着き、農作業の手伝いをしながら、日本精神を農民たちに説き、日本精神に目覚めてもらう。
 そして国家革新が必要であることを説いて賛同してもらう。

 1ヶ月に、1人がこうした同志1人をつくる。
 この方法でネズミ算式に倍加運動をやっていけば、3年後には巨万の同志を獲得できる。
 やがてこれらの同志を集めて上京し、政府や議会などに対して革新の実行を迫る。
 というものだった。

 同志の採用基準は厳しかった。
@社会運動に係わったことがない真面目な人物
A宗教的信仰をもつ者、あるいは、宗教的鍛錬を経験した者、または、革新運動について宗教的な熱意を持つ者

B以上のような条件を持たなくても、人間として素質が純真な人
C革新運動に身命を惜しまない確固たる信念をもつ人

D人々から喝采されて褒められるのを喜ぶような弁論の人でないこと
E自活できる人

Fほかの思想団体や政治団体と関係をもっていない人
G兄弟が少なく、一家の責任が軽いか、または、それを超越した者

 これらの条件にかなっていれば、
その人の抱く考えの中味は問題にせずに採用することにし、

 昭和3年(1928)暮れごろから昭和5年(1930)9月ごろまでの間に、「血盟団」裁判の被告人になった、
 古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒澤大二や、
被告人にはならなかった照沼操、堀川秀雄、黒澤金吉、川崎長光らを同志に得て、
いわゆる「茨城組」を作り上げた。

 日召は、昭和4年(1929)12月ごろ、
国家革新の志を抱いて海軍部内で熱心に運動していた、霞ヶ浦海軍飛行学校の学生、藤井斉・海軍中尉と知り合い、肝胆相照らす同志になった。
 そして、昭和5年(1930)初めごろから9月ごろまでの間に、藤井斉に啓蒙された、海軍少尉の古賀清志、海軍少尉候補生伊東亀城、同大庭春雄、同村山格之ら、海軍側同志を得た。

 この間、日召は、藤井斉から数回にわたり、
 「ロンドン海軍条約締結の結果、対外関係の危機が迫り、1936年ごろ、我が国は未曾有の難局に遭う。挙国一致でこの難局に立ち向かうため国家革新が急務だ」
 と力説された。

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(写真をクリック)

 日召は、社会情勢を足で調べる必要を感じて、昭和5年(1930)8月ごろ、群馬、栃木、東京などを回って人々の生活ぶりを見て回り、識者の意見を聞いた。

 この結果、国家の危機が急迫し、民衆の生活は苦悩に満ち、深刻で、革新を願う声が全国に満ちている。すでに論議している暇はなく、すぐに革新を断行すべきであると判断した。

 つまり、それまでの倍加運動では時間がかかり過ぎてこの情勢に対応できないばかりか、
 たとえ倍加運動が実現しても、大衆運動の結果として大衆と官憲との衝突が起き、大きな流血の事態になる危険性が高いだろうと考えた。

 大規模な流血が引き起こす社会の混乱は、日召の革命精神に反する。
 だから、時間がかかり危険な倍加運動は放棄し、代わりに、現状打破のため、同志たちとともに非合法手段に訴え、革命の捨て石になろうと決意した。

 日召は、
現状打破の具体的方法、決行時期の決定、同志間の連絡、国家革新運動についての情報収集を、海軍同志の代表、藤井斉から任された。
 そこで、昭和5年(1930)10月ごろ、茨城・大洗海岸の立正護国堂を去って上京した。

 その後のことは、これまで、この「一人一殺」で書いてきた通りだ。

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橘孝三郎写真をクリック

 1934年(昭和9)11月22日、東京地裁であった判決公判で読み上げられた日召に対する判決理由書には、
 農本主義者で「愛郷塾」長だった橘孝三郎(1893―1974)=写真上=のことも出ている。

 橘は、農業を通じて共同体的な理想社会を実現しようとして、1915年に一高を中退、郷里の茨城で農業生活に入った。1920年、農業機械を導入した近代農業をめざし兄弟村を建設したが病気になり4年近く闘病生活を送った。

 1929年、「愛郷者」の強固な団結と荒廃した農村での新生活の創造を求め、一種の協同組合「愛郷会」を結成し運営した。農民教育へも活動を広げ、自営的農村勤労学校「愛郷塾」を運営していた。主著は「農村学前篇」(1930年発行)。戦後は右翼の大物の一人とされた。

 日召は、橘孝三郎と市内某所で会見し、橘の人格識見に深く傾倒した。
そして昭和維新成就の後の新制度建設に有用欠くべからざる人物と判断、橘に、
 「破壊の完成後の建設を担当してほしい」と要請し、

 非合法破壊運動に引き込む対象人物から外すことを、心ひそかに決めた、という。

 橘孝三郎は、評論家立花隆の遠い親類だという。
 立花が、著書「天皇と東大 上」の743nに書いている。
 「橘孝三郎は私の父の従兄という親戚筋にあたり、私も子供のときに会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかない」

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(写真をクリック)


posted by Jiraux at 01:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | news 日々憤怒

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